■第五六夜:いつか見た《夢》
「人類圏への降伏勧告。それも名誉ある、とはすなわち自治を許すという意味か。だが、それになんの理がある。どのような利が」
「陛下はすでにお気づきのはずです。それゆえに……それゆえに軍議を抜け出し、お心を“庭園”に置かれているのではありませぬか」
「我が心を代弁しようと、そう言うか」
静かなスカルベリの言葉にはしかし、冷えたナイフの刃のごとき鋭さが宿っていた。
たしかにスカルベリは、基底現実でいま現在行われている人類圏への大征伐、つまりガイゼルロン全軍を持っての騎行についての軍議から抜け出した。
玉座にその身を置きながら心だけを“庭園”へと移した。
だがそれは、結論の見えた軍議に時間を取られることを彼が嫌ったからだ。
「頭に血の昇った騎士たちを押し止めることは、これ以上はできまいというのがわたしの考えだが?」
「それは……なにゆえでございましょう」
「わたしに我が恥を改めて口にせよと、そなたは申すのか」
「いえ、わたくしは決してそのような」
「より強き血筋を求め、これを証立てんとするは夜魔の本能。ましてこの状況を招いたのは、わたしの不徳と致すところだ。これを押し止める言葉を持たない」
蹂躙派、と陰で呼ばれる大征伐推進の急先鋒たちは、その論旨において以下の三点を御旗に掲げていた。
ひとつ。叛逆者:シオンザフィルの首級を挙げること。
ひとつ。これによって、彼女に加担する思い上がった人類たちの思惑を挫くこと。
ひとつ。奪われた夜魔の大公の証、宝冠:アステラスを奪還すること。
しかしこれは逆説的に、シオンザフィルの離反と宝冠の強奪を防げなかったスカルベリに責任が帰結するという意味でもあったのだ。
なにしろあの日、シオンザフィルによる大公の暗殺未遂と宝冠の強奪を防げなかったのは、大公:スカルベリの不手際・認識の甘さ、なにより力不足であることはごまかしようのない事実であったからだ。
そして蹂躙派の騎士たちは、そこを根拠に大征伐為すべしの声を拡大させてきた。
その言動は、いまなおスカルベリの心を痛ませる元凶を取り除くという、忠節に拠るものだとされてはいる。
だがそれは建前に過ぎない。
軍事行動の拡大を促す声は、これまでのシオンザフィルを標的とした小規模な派兵がそうであったように、次代の真祖を決めるための夜魔の騎士たち同士の政争であったのだ。
そしてそれを……より強き血筋を求め、それを証立てるための美しき獲物を求めるのは夜魔の本能だとスカルベリは言った。
この状況を許した自分に、彼らを諌める言葉はないとも。
もしそれを口にしてしまえば、自らの地位を己が《ちから》によって認めさせようとする諸侯を、自分が怖れていると認めるようなものだからだ。
スカルベリが真祖足り得るには、シオンザフィルの首級を挙げ宝冠:アステラスを携えて戻ってきた騎士に、戴冠の試練を受けることを許さなければならない。
そしてその是非を持って、新たなる真祖が誕生するものかどうかを決さねばならないからだ。
まこと“叛逆のいばら姫”を組み伏せ我が物とし、宝冠:アステラスに認められた騎士であれば、真祖として正面からの挑戦を受けなければならない。
挑戦──つまり次世代の真祖を決めるための決闘を、だ。
「ですが、陛下は……今回の大征伐は陛下の真のお考えとは違うと、常々アストラは感じてきました!」
「特に慈悲を持って二度目の警告をするぞ、アストラ。これ以上、我が真意を代弁しようと試みるのであれば、心するがよいぞ」
違えていたならば、いかに我が愛娘と言えど、ただでは済まさぬ。
続けて放たれたその言葉を、アストラはハッキリと聞いた。
完全記憶を持つ夜魔にとって、二度目の警告は最後通牒だ。
恐懼に震える四肢を、声を、必死に御してアストラは言葉を絞り出した。
「大公が息女:アストラルハが、かしこみ申し上げます。スカルベリ陛下は、本心では人類圏への大侵攻をお望みではありません」
「まことか」
「まことに」
「なにゆえそう思う」
「陛下は──父上は、人類を愛していらっしゃるからです!」
アストラがそう叫んだ瞬間だった。
ドンッ、とスカルベリの周囲の大気が弾けた。
重圧が実際の圧力となって、冷えた山嶺の空気を切り裂いたのだ。
はじき飛ばされたいくつもの礫に打たれ、アストラは額を切った。
流れ出る血を、熱いと感じながら、それでも怯まず言い募った。
「なぜならば!」
「黙れ」
「なぜならば!」
「黙れと言った」
「いいえ黙りませぬ! なぜならば父さまは、人類圏の文化を深く愛されているからです」
「我を裏切り、狂人と罵り、断頭台にかけようとした彼奴らめをわたしが愛しているだと」
ビュウ、と一陣のつむじ風が首筋にまとわりつくように生じたのをアストラは知覚した。
否、それは風ではない。
それは目に見えぬほどに細い、しかし鍛え上げられた鋼糸であった。
スカルベリはこの糸を用いた戦技を持って、過去自らに楯突いた高位夜魔たちを叩き伏せ、タペストリーに仕立て直したのだ。
肉を変質させ、本来あり得ない断面と断面、いやそも断面でなくとも縫い合わせれば癒着させられるこの業をして、スカルベリは人類時代、医術王の名を持って九英雄に数えられた。
その糸が、アストラの首に巻き付いていた。
このまま窒息させるも、首を落とすも自在。
夜魔の肉体であればその程度どうということもないが、ここは精神だけの世界=“庭園”だ。
その仮想空間上での心の死が、夜魔の肉体にどのような影響を与えるものか──幸か不幸か、アストラは知らない。
「へい、か」
「これより先、その言葉には命を賭けてもらう」
ぞくりとした寒気が背筋を駆け登っていくのをアストラは感じた。
スカルベリは無駄な脅しをするような男ではない。
やる、と言ったのなら次の瞬間にはそれは為されている。
ガイゼルロンの宮廷で、幾人もの騎士たちが節度を弁えられずに首を飛ばされ、代わりに犬猫のものにすげ替えられて、頭を床に並べるハメになった。
自分はいま父の逆鱗に指をかけてしまっているのだと、改めて自覚した。
「だが、その気概に免じて最後まで聞いてやろう」
我がなぜ、人類を愛していると思うのか。
その理由について。
「そうだったな?」
「は、い、陛下。そのとおりです」
首に巻き付いた鋼の糸は、ただちに締めつけてくるというわけではない。
ただわずかに肉に食い込み、まるでチョーカーのように、かすかな圧の認識をアストラに迫るのみ。
しかしそれだけのことで、アストラには喉輪を嵌められ、絞首台に吊り下げられているかのように感じられた。
緊張に詰まりそうになる呼吸を必死に御して、訴えかける。
「なぜならば、どうして陛下が人類を愛しておられるかといえば……お部屋に、またわたくしの自室に陛下が贈ってくださった数々の品が……そこに注がれる選定眼という名の愛が、選び抜かれた調度や、書籍や、ワインが与えてくれる《夢》が……どうしようもなく陛下のお心を伝えてくださるからです」
首に回された鋼糸は微動だにしない。
締め上げられることも、緩められることもない。
続きを言葉にすることを許されたのだ、とそれでアストラは知る。
「そしてそれは……陛下が優れた選定眼をお持ちであるのは、元は人類であったからではなく。いいえ、関係がまったくないかと言われたらそれは違うかもしれませんが……陛下はすでに理解されているからです」
「理解」
なにを、とスカルベリは無言で促した。
ごくり、と唾を呑み込みアストラは応じた。
「その品々に、調度に書籍にワインに食事に、そして彼ら人類の血に溶けた《夢》こそが私たち夜魔を生かしてくれていることを」
ぐっ、と微かに首筋にかかる圧力が増したのを、アストラは敏感になり過ぎた感覚のなかで感じ取った。
「《夢》」
「はい。それは愛と言っても良いでしょう。そしてその愛を生み出すものがなにであるのか、やはりすでにして陛下はお答えに辿り着いていらっしゃいます」
「…………」
言葉はなかった。
首筋を圧迫する鋼の糸が解かれることもない。
ただ、あの金色に光る輪のような虹彩を持つ漆黒の瞳が、アストラを覗き込んでいた。
暗い昏い虚無へと続く穴のような、あの眼が。
「それは、なにか」
《夢》を、愛とオマエが呼ぶものを生み出し育むものとは?
簡潔にスカルベリは問うた。
対するアストラの答えもまた、簡潔であった。
「文明。そして文化」
「文明、そして文化」
口中で言葉を転がすようにスカルベリが繰り返した。
「それを守るために、そなたは人類圏に赴く、と?」
そのために人類に名誉ある降伏を奨めに?
「名誉ある降伏、それはつまり自治権を許した上での恭順。そう言うのか」
父から投げ掛けられる言葉に、我が意を得たりとアストラは拳を固めた。
「陛下のご明察に、このアストラ言葉もございません」
そして、娘の提案に、このとき初めてスカルベリは微笑んで見せた。
アストラが見る、実に二〇〇年ぶりの笑みだった。
「はは、なるほど、それは」
大きなことを言うようになったものだな。
言葉は辛辣だったが、その口ぶりは極めて上機嫌であるようにアストラには聞こえた。
駆け寄って、その手を取りたくなるほどには。
「陛下! お父さま!」
「だが、その話にはひとつ難点がある」
思わず駆け出しかけたアストラの首が、一瞬だが締め上げられた。
父娘の関係を御し切れぬ娘をたしなめるように、スカルベリが糸を軽くだが引いたのだ。
つんのめるようにして、アストラは再び地面に膝をつく。
「なん、てん。難点と申されますと」
「たとえいまのそなたの申し出が我が真意に合致するものだとして。いかにしていきり立つ蹂躙派どもを黙らせるのか。そなたの言うようにたとえ人類側からの恭順の申し出があったとして、夜魔の騎士たちはその程度では止まるまいよ」
なにしろあれは夜魔の本能がさせることだ。
父王からの冷徹な指摘に、しかしアストラの瞳は輝きを増した。
「そのことについて、わたくしめに考えがございます。陛下にあらせましては、ただただ、このアストラに人類の名誉ある降伏につきましての全権を委任して頂き、特使として送り出してさえ頂ければ」
「秘策がある、とそう言うのか。蹂躙派──急先鋒として矢面に立っているのはハイネヴェイル家だが残りふたつの伯爵家も、さらには侯爵たちとも彼らは連帯している。むしろ後ろで糸を引いているのは侯爵たちであろう。容易なことではないぞ」
この我が彼らを押し止め切れぬように。
言葉にならなかったスカルベリの本心を、アストラはこのときやっと聞けた気がした。
「いかにする」
「同じでございます」
「同じ、とは」
「彼ら蹂躙派の考えていることを、同じく先んじて達成して見せるのです。人類とこのわたくし、アストラルハで」
アストラは、スカルベリの瞳がわずかに見開かれるのを、このときたしかに見た。
「つまり、そなたは人類と共闘して、」
「怨敵:シオンザフィルを捕らえます。そしてその身柄と宝冠:アステラスの奪還を持って、人類圏の名誉ある降伏を諸侯に認めさせるのです!」
「シオンを捕らえる」
「人類とともに。さすれば人類を守るというシオンザフィルめの思い上がりは名実ともに挫かれましょう。そしてその行いによって、人類は自由と平和を我らガイゼルロン公国の庇護の元に約束される」
その上で、
「定期的に人類圏の諸国には捧げ物としての……人類の言葉に直せば税としての選りすぐりの男女を差し出させる。下々の者を守るものとしてであれば、これを名家の者の義務としてもよいでしょう。毎年、あるいは季節ごとに数名の捧げ物たちを差し出すことで、彼らの文明も文化も守られる。いえむしろ……自己犠牲という崇高なる行いは彼らの精神性を高めもするでしょう。神聖なる供物です」
そして、
「その高次の精神を自ら示す者があれば──夜魔の血族に迎え入れるにふさわしい。違いますか?」
スカルベリの漆黒の瞳のなかを、いくつもの感情が狂おしい光となって目まぐるしく駆け巡るのを、アストラは静かな興奮のなかで見ていた。
ただひとつ。
微かな怖れがなかったかと問われたら、ないと言い切ることはできなかった。
それはスカルベリがアストラの申し出を一蹴した場合のことだ。
自らの申し出はガイゼルロンの国益に照らした場合、完全に合致するものであるという自負がアストラにはある。
夜魔はその生命活動、なにより精神を正常に保つために新鮮な人類の血液を必要とする。
首筋からの吸血が最も望ましいのは、それが生き血として最上のものであるからだが、実際に重要なのはその鮮度だけではなかった。
それはその生き血の持ち主の高潔さ、純粋さ、そして胸に抱く《夢》の有り様である。
蹂躙派の連中が考え違いをしているのはこの部分だと、アストラは指摘したのだ。
人類圏を圧倒し、蹂躙し尽くせば、たしかにガイゼルロンの国威は一時は高揚しよう。
しかしそれは夜魔という種族全体の衰退を招く誤った選択肢だと、アストラは見抜いていた。
なぜなら夜魔による圧政がもたらすのは、人類の文明とそれが担保する文化の、速やかな衰退だったからだ。
そのことが蹂躙派の連中には理解できない。
ガイゼルロン公国内で行われている養殖──人類同士の結婚を認め、その子供たちに高等教育を与えて育て上げ、良質の血液を得ようという試み──を人類圏全土で再現可能だと夢想している。
彼らは《夢》というものがいかにして生まれ出で、育まれるものなのか、まるで理解していない。
《夢》とは愛であり、《希望》なのだ。
そしてそれは、人類による自由な精神活動によってしか生み出されることはない。
明日の自分をこう生きたいという《夢》。
明日の世界はきっと今日よりもよいものになるだろうという《希望》。
それを信じ育ませるものこそを文明と呼び、そこに実る果実を文化と呼ぶ。
アストラは父:スカルベリもまたすでにこの見地に至っていると信じた。
だから今日この場に参じた。
必ずや自らの奏上を、大公は認めてくださると確信していた。
だが、ただ一点、アストラが危惧したことがある。
アストラが抱き続けてきた微かな怖れ──その原因と呼ぶべきものが、スカルベリのなかにあることを、アストラは感じ取っていたのだ。
そして、それはやはり愛と呼ぶべきものだった。
父:スカルベリが姉:シオンザフィルに対して抱く、深い愛。
これまで約二〇〇年の間に、ガイゼルロン公国が送り出したシオンザフィル討伐隊の数は実に十三にも及ぶ。
男爵位以上の爵位持ちを含む夜魔の騎士四名から八名という戦隊の派兵は、人類圏の小国であれば一晩で滅ぼせる戦力規模だ。
ところが、そのなかで大公:スカルベリが自ら参集を呼びかけた遠征は、実は一度もない。
これは自らの首を狙い、その頭上から大公の証たる王冠を強奪したその張本人は、当の大公自身からは積極的には狙われていないという意味とも勘ぐれる。
事実、シオンザフィルの所業に対し、スカルベリは温情をかけているのではないかと思わせる節が、真祖の振る舞いにはいくつもあった。
アストラは伝聞でしか知らされたことはないが、逆賊:シオンザフィルと言葉を交わすとき、父:スカルベリはよく破顔して見せたそうだ。
楽しそうな笑い声を幾度も耳にした、と侯爵家や侯爵家の騎士たちから伝え聞いたことがある。
対等な友と語らうときのように自由闊達な意見交換を、あの父が楽しんでいたと。
大公の考えに対し、己が意見を歯に衣着せずぶつけてくるシオンザフィルを、スカルベリはたいそう重用していたという。
アストラなどは、そのような越権行為を特例的に許してきたことが、逆臣を生んだ遠因なのではないかとさえ思うのだが。
スカルベリがシオンザフィルを重んじている証拠は、それだけではない。
さらに決定的な事実というのは、送り出した討伐隊が彼女に返り討ちにされたときのことだ。
戦隊壊滅の報告を聞く父は、いつも通り冷ややかな態度を崩さなかったが、どこか誇らしげで嬉しげであることを、ガイゼルロン宮廷のなかでアストラだけが感づいていた。
同じく諸侯たちが上座に座する父に対して告げる悔し紛れの「さすがにスカルベリの、ベリオーニの血筋か。手強い」などというセリフにいたっては、アストラにはもう露骨なシオンザフィルへの賛辞にしか聞こえなかった。
だからもし……自分の提案を父が却下するとすれば、この言葉によってであろうとアストラは考えていた。




