■第五一夜:相似の姫
「常識的に考えればこれは好機と捉えるべきです。我らのほかに進入者がいて、悪夢どもはそちらに夢中。この隙を突けば、ガイゼルロンへの道は難なく開きましょう。ですが、」
「同じく常識的に考えれば、彼女はガイゼルロンから決死の思いでこの地に足を踏み入れたことになる。かつてオマエがそうしたように」
あるいは人類になにかを知らせようと。
推論を引き取ったアシュレは、夜魔の姫の言わんとしたことを先回りした。
そして、それが自らの考えと完全に一致していたにも関わらず、目を剥くほどに驚いて見せたのはシオンのほうだった。
「そんな、バカな」
そんなそんな、と繰り返すシオンの瞳は、これまでにないほど揺れていた。
「あり得ないことです」
「だがいままさに現実として、我らの眼前を夜魔の娘は走り去った。影を渡って、追われ、必死に」
「話が出来過ぎです。タイミングが良過ぎる。まるでわたしたちの到来を見計らったかのように、あの娘は飛び出してきた。こんな──こんなことがあり得るわけがない」
かぶりを振ってシオンが否定する。
しかし、その口調にはいま見た光景を否定し切れない、いや否定したくはないという調子がありありとうかがえた。
端的に言えば、シオンは衝撃を受けていたのだ。
自分以外のだれかが──たとえその思惑は分からなくとも──封都:ノストフェラティウムを抜け、巡礼者の道を遡り人類圏に至ろうと試みている。
その事実に打たれて。
もとよりガイゼルロン公国にあって、封都:ノストフェラティウムに通じる縦穴と螺旋階段の存在は、秘されてきたものだ。
現在その正確な所在を知る者は高位夜魔たちの間でも、ごくわずか。
シオンだってイフ城地下を自失ぼう然のままワケもわからぬままに走り、偶然辿り着いたくらいだ。
そしてなぜかその前後の記憶だけが、シオンのなかでまるで禁則事項のように思い出せない。
現在この通路の存在を記憶に留めるのは大公:スカルベリか、それ以外となればいまも血統を残す侯爵か伯爵の古き血筋、さもなければかつてスカルベリに叛逆の罪で討伐された古き血筋の大貴族とそこに連なる者でもなければ────。
いやあるいは。
シオンはもうひとつだけありえる仮説に身震いした。
それは自分が国元を出奔してから二〇〇有余年の間に、人類圏とともにあろうとする機運が──かつてシオン自身が至った視座に辿り着いた者が、新たに生まれ出でてくれていた、という夢のような話だ。
国元では第一級の国賊として討伐目標に上げられている自分だが、逆に言えばその風評と動向は、かなり正確にガイゼルロンに届いているということでもある。
だとすればシオンの行いに共感してくれただれかが、かつて自分が辿った道を歩んで行こうと決意してくれたという可能性も、まったくないとは言い切れない。
そしてその誰かは、かつてシオンがそうであったように、追手を振り切りガイゼルロンから抜け出るために、この道へと至った。
そう考えることは、できる。
いやまさか、だがしかし。
思わず想いが言葉になる。
「人類圏に辿り着くためにこの道を? ほんとうに?」
ならば彼女は同志ではないのか?
瞬間的に、そんな想いが胸の内に湧き上がるのをシオンは止められなかった。
その彼女がいま追われている。
果たして、これを見捨ててしまって良いものか。
しかし、それにしたって、あまりにもこれは出来過ぎなのでは──────。
自問自答に惑うシオンの様子を、わずかな時間、アシュレはじっと見つめた。
それから言った。
「後を追う」
「ご主人さまッ?! そんなッ──罠です、これはなにかの」
言い切った主の顔を見上げて、夜魔の姫は思わず息を呑んだ。
反射的に反論してしまう。
なぜならそれは、シオン自身がこうであってくれたならと望みながら、そんなことがあるはずないと否定した、あの結論にカタチを与える唯一の方策だったからだ。
そして、シオンの罠であろうとの懸念に対し、彼女の主人は鷹揚に頷くのだ。
だろうとも、と。
「そうであろうとも、きっとこれは罠に相違ない」
「ご主人さま?!」
「だが……我が真に夜魔の王たるには、ここでこれさいわいとばかりに漁夫の利を得てよいものかな? たとえあの娘が釣り餌だったとして、これが罠だったとして、それを看破した上で食い破るのが新たな王の務めとは思わぬか?」
耳まで裂けるような笑みを見せて、アシュレは己が忠実なる下僕を見下ろした。
そのあまりの獰猛さに、シオンはこれまで感じたことのない種類の戦慄を覚えた。
王器、そして王気とあえてそれを呼ぼうか。
ゾクゾクゾクッ、という戦慄にも似た震えが、またもや背筋に走る。
耳元で己の痴態を手酷くなじられたときのような、甘い痺れを含んだ感覚。
心と身体が別々の反応を起こして、考えをまとめることができない。
「でもっでもっ」
「もう決めたことだ。意見は構わんが我の決定には黙って従え、下僕。オマエはいまや我が玩具であることを忘れるな。それとも……我を独占できなくなる──あの娘が新たなコレクションに加えられてしまったら──まさかそんな不遜な心得違いを抱いてはおるまいな」
「な、ななななあ、そんなそんな、ひいっひんっ」
思っても見なかったアシュレの指摘に、反論を口にしかけたシオンが小さく悲鳴を上げた。
主の決定に異論を挟もうとした玩具を記章たちは見逃さない。
アシュレはシオンの視界を件の遮眼帯で覆い直しながら、戦慄く唇に甘噛みした。
青きバラの薫りが匂い立つ。
「それにもし、あの娘がほんとうにガイゼルロンから来たのだというのであれば、それは我らが未来の臣民だ。夜魔の王としては、その民が悪夢の手で堕ちるのを黙って見過ごすことはできないであろう」
きっとオマエの父であるスカルベリも、それをよしとはしなかったであろうから。
夜魔の大公は自らの民を護るべく、かつての王族どもの狂気から國を遠ざけるべく、この都を封じた。
そして、だからこそ夜魔の王と成れた。
「王とは試され続ける者である、とはよく言ったものだな」
そこまで言うと、アシュレは夜魔の姫を外套の影に沈めた。
真っ黒な厚みのない触手が主の意図に応じて外套の影より生じ、夜魔の姫をからめ捕っては引きずり込む。
溺れるようにして虚数の波間に消えるシオンに向かって、アシュレは告げた。
それに、と囁いて。
彼女にだけ聞こえるように。
いまのあの娘は──どういうわけか、キミにとても似ていたんだ、と。




