■第五〇夜:野ばら
※
なににその契機があったのか、それまで笑い声と泣き声をまき散らしながら無軌道に宙を舞っていた眠らない悪夢どもの動きが変わった。
なにか、いいやだれかを追っているのだとわかったのは、直後のことだ。
──オイツメロ!
──サキマワリ、サキマワリセヨ!
──カクレンボ、カワイイ!
──カリダ、カリダッ!
意味不明な叫びのなかに、そんな囁きすら聞いた気がした。
「なんだこれは。だれかが追われている? 戦闘……いやそれにしては一方的過ぎる。争いというよりもこれは……狩りか?」
牢獄の外套と名付けられたマントを開き、アシュレはその内側に向かって囁いた。
「たしかにおかしな動きです。でも……あれはわたしたちを探しているわけではない」
愛玩奴隷としての言葉遣いでシオンが言った。
いま彼女の肉体は、そのほとんどが外套の内側に作り出された影の領域に呑まれている。
この外套は内側に異空間を内包する疑似生命体で、高位夜魔たちが遠出をするとき食事兼愛玩動物、あるいは寝具としての人類を持ち歩くための《フォーカス》だった。
影の包庫からシオンが持ち出してきた品のうちのひとつであり、ある意味ではかの次元間宝物庫の親戚であり、変種の記章とも言える。
先にもわずかに触れたが、聖剣:ローズ・アブソリュートと聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーはいま、影の包庫に収められており現世にはない。
これも先んじて触れたことだが、竜の聖域の奥で発見された封印の箱にイズマが細工を施し、この芸当を可能にした。
「さすがに影渡りとかのさなかには……つまり直の影の領域にはここまでしても持ち込めないんだケドネ。でも姫の影の包庫は次元間に本物の宝物庫をねじ込むことで維持されているわけで、建築物の内部は影の領域でもなんでもねーんですよ。あの宝物庫の内側が異次元空間だと思ってるヒト多いケド、実際は逆で、建築物が影の領域に放り込まれてるってのが正しい。さもないと放り込んだ品は影の領域をどこまでもてんでバラバラに漂って行っちゃうことになるわけで。整然と区分けされたあの宝物庫は、もともとこちらの物質界にあったものを誰かが放り込んで使えるようにしたワケ。そうしたのは姫自身か、そうでないなら親父さん……つまりスカルベリ本人ね。で、そこになら入れられると、ずっと思ってきたんだよね。ここまで厳重に封をすりゃあサ」
そもそもがさ、とイズマは続けたものだ。
「そもそもが《フォーカス》って《御方》の備品として製造されたもんなわけで、これまでは諸般の事情で黙ってましたが! その一部であるはずの聖剣:ローズ・アブソリュートや──これはボクちんが《御方》の死骸を使って製造して皮の内張したわけですけど──聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーみたいな聖なる武具だけが影の領域へ持ち込めないってのは、不具合つうか例外規定すぎるはずで? その不都合をなんとかする術は考えてたわけですよ、ずっと以前からね? いろいろ試してね? それでやっぱりというか、そういうのを可能にする方法って旧世界の連中も考えてたみたいで、やっぱあったわ専用の収納箱が。先に言ってくれよこういうのはメチャクチャ回り道したじゃん、って話ですわ」
というのがイズマの言だった。
うむ、話が長い。
説明を要約すれば、非常に限定的ではあるものの、アシュレたちは聖なる武具を含む装備品を影の包庫に預けたまま旅をすることができるようになったわけだ。
さてそれはともかく、だ。
どうするべきか思案のしどころに差しかかっているのは、間違いのないことだった。
言うまでもなく封都:ノストフェラティウムは無人の街である。
当の夜魔たちまでもが存在を忘れようとした場所であり、彼らの正史よりその痕跡を消し去られた都市である。
人類圏では伝承すら絶えて久しく、ここに至るための街道すら統一王朝の瓦解とともに荒れ果て草木の海に沈み、一部は氷河の移動や融解で削り取られ湖に没した。
いまや船や鳥の目でも借りねば、その名残りを辿ることさえ難しい。
ここ二〇〇年の間で足を踏み入れた者は、ガイゼルロンから袂を分かったときのシオンと、いまその道を遡ろうとしている自分たちだけのはずだ。
そこに来て、アシュレたちは狩りの音を聞いた。
これはいったいなにを示している?
自分たちのほかに、だれがこの都市に足を踏み入れた?
しかも先行して?
まさかガイゼルロンへと攻め入ろうという愚か者が、自分たち以外にもいるというのか?
たとえば法王庁の?
いいやそれはありえまい。
思い当たる節としては、ひとつきりしかない。
アシュレは推論を口にした。
「まさかスノウや真騎士の妹たちが? ──そんなことがあると思うか、シオン?」
「それは……あり得ないことです。間違いなく三人は引き返しました。我が主の威に竦み上がり、心折られて。あのショックから短時間で立ち直ることはできないでしょうし、なによりもまずわたしたちに先んじることは不可能です」
ときどき上ずりそうになる声を、必死に抑えてシオンが答えた。
牢獄の外套はその内側に囚われたものが死なぬよう、またパラノイアにならぬよう水分や酸素とともに、刺激を与え続ける。
排泄物の処理もそこには含まれる。
主を包む内面の清潔に保つためには、あらゆる手練手管が行使される。
影の領域を加工して生み出された疑似生命体であり、他の記章と連携して放り込まれた獲物の反応を「新鮮に保ちつつ」運搬可能にするのが仕事だ。
だからすこしでも油断すると──捕らわれた獲物であるシオンは悲鳴や、それ以外の声を上げてしまいそうになる。
話を戻そう。
とにかく眠らない悪夢どもが言うところの「狩り」とは、なにを指し示す言葉であるのか。
またその獲物がいるとしたらそれはいったいだれなのか。
まずそれを確かめることが先決だった。
「スノウやキルシュ、エステルの三人は確かに帰路につきました。わたしの生体感知能力もそう告げています。ですから──いま追われているのは妹たちではありえません」
「ではなにが、いやだれが追われていると?」
この状況で、とアシュレが大通りに目をやった瞬間だった。
びゅん、と空間が撓み、虚空から人影が現れた。
ふわり、とバラの花弁が舞うのすら幻視させて。
が、それは一秒にも満たぬ時間で、またすぐさま虚空のなかに掻き消える。
続いて、
──イタ!
──ミツケタ!
──オモチャデ、アソボウ!
──ヒトクチ、ススラセテ!
人影を追って、まるで狂った竜巻のように眠らぬ悪夢どもが殺到する。
見たか、という無言の問かけにシオンは答えなかった。
ただその瞳は、信じられないものを目にしてしまったかのように見開かれている。
「シオン、答えろ。我は見たか、と訊いている」
「は、はいっ──あぅっ、はいっはいいいいっ、たしかに。み、見ました。た、しかにあれは」
即答しなかった不躾を不意に責められ、ほとんど叫ぶように応じながら、シオンは頷いた。
「夜魔の娘、でした」
「影渡りを使っていたな」
だが、だとして、どうする? という問いが視線だけで交された。
こんな事態が起きるとは、だれに予測ができただろう。
夜魔の國:ガイゼルロンを目指すために潜り込んだ封都:ノストフェラティウムで、まさかその夜魔そのものに出くわすハメになるとは。
しかも状況から察するに、彼女は眠らない悪夢どもに追われている。
逃走中か、撤退戦か、その両方か。
つまりなんらかの事情でこの封都:ノストフェラティウムに足を踏み入れ、眠らない悪夢どもと遭遇・敵対したのだ。
わずかに二秒。
思案の後に口を開いたのはシオンだった。




