■第四九夜:刃の下に心を隠して(3)
右腕にわずかに力を込めれば、華奢とはいえ鹿一頭ほども目方のあるシオンの肉体が、簡単に持ち上がった。
騎士の膂力に高位夜魔の《ちから》が加わり、記章によって領土の証を刻印された夜魔の姫のカラダは、肉屋の軒先に掲げられた肉叢を思わせて宙吊りにされた。
あっかっ、と突然の過重に狭められた喉が細く鳴る。
ミシリメキリ、と腱と骨とが音を立てて軋む。
「晒す、とはこういうことかシオン?」
「あぐっ。はいっ──はいそうです、ご主人さま」
「では辱めるとはこうか?」
片手でシオンを宙吊りにしたまま、アシュレは記章のひとつに手をかけた。
底部を握り、かわりに首輪と鎖にかけていた力を弱めれば、自然とシオンの肉体は記章を起点に支えられることになる。
全体重がその一点に加わることで、責め苦は倍増する。
夜魔の姫の口をついて迸り出る声は、屠殺場に送られる家畜のそれにそっくりだった。
己があげた悲鳴のあまりの浅ましさに、その濡れように、信じがたい屈辱を感じてシオンは身を捩った。
けれども夜魔の姫が心の底から屈服を認め、羞恥心から隠そうとしたすべてを素直に語るまで、追求が止むことはない。
これはそういう作法であり儀式、なによりシオン自身が望んだことなのだ。
「こうか? それとも──こちらか?」
鎖を手放し両手を用いれば、まるで果物を圧搾機にかけたように、恥辱の涙が絞り出された。
敏感な心のひだを思うさま抉られ、シオンは主である男の首筋にすがりつくしかない。
じゃらりじゃらり、と太く重い黄金の縛鎖が、痙攣のたび床石に音を立てる。
「これが辱めか?」
「はいっ──はい、そうです、ご主人さま。恥ずかしい、これがシオンの恥ずかしいです」
「では狂った者どもと出会うたびに、こうやってオマエを辱めろと言うのか。屈服の証を見せつけ、忠誠を新たに誓わせよと?」
「──は、はい」
「いやだ、と言ったら?」
「えっ」
「我はオマエの嫌がることをしたくない。さらにはオマエを秘しておきたい。狂った悪夢どもにオマエの痴態を晒したくない」
そう言ったら?
アシュレの問いかけに、一瞬シオンは言葉を失い、遮眼帯の奥で目を見開いた。
主の顔に浮かぶ表情を決して見ることはできなかったが──大事にされていることへの喜びが、胸に溢れる。
けれども、そんなふたりの真情を隠したやり取りを、夜魔の記章たちはまたも不適切と捉えた。
獲物に群がる蟲のごとくに全身に埋められた器官が跳ね、出入りしては拗くれ、舐り上げては掘り起こし、噛む。
いくども、執拗に。
夜魔の姫の喘がせた喉から、酷使される楽器のように悲鳴が迸り出た。
こんなことを続けられたら、ほんとうに壊れてしまう。
本物の玩具になってしまう。
全身を弓なりに反らして、シオンは想う。
繋がっている心臓からアシュレの想いが流れ込んできて、それを嬉しいと感じる自分の心を、記章どもが加える陵辱がズタズタに引き裂いて、汚していく。
その落差に感じてしまう。
自ら言い出したこととはいえ、追いつめられて、シオンは泣く。
その窮状を見て取ったアシュレは問うた。
いっそう残忍に。
決意して。
「悦びか?」
「あ、う?」
「我に辱められるのは、オマエの悦びかと訊いている」
なにを問われたのかわからない、という顔をシオンはした。
刹那、その肉体をこれまでとは次元の違う責めが襲った。
そこここで、熟れた果実に指を突き込み玩ぶような音がする。
幼児が戯れにそうするように無邪気で、だからこそ容赦のない運指にも似て。
たっぷり三〇秒続いたそれが終ったとき、夜魔の姫にはもう抵抗のための力は残されていなかった。
全身を蝕む記章たちが「次は狂うまでやめない」と甘噛みで知らせる。
道具に堕ちるがいい、と言われたのだとわかったが、震えてことしかシオンにはもうできない。
ふたたびアシュレは問う。
その瞳は怒りか、あるいはシオンへの執着にか、赤く濡れている。
右手で遮眼帯を剥ぎ取り、夜魔の姫の頭髪を掴み、左手で食い込んだ記章に手をかける。
かりり、と囚われの姫のつま先が床を掻いた。
足をついて逃げ場を得ることさえ、もう彼女には許されない。
ハッハッハッ、という浅く速い、獣じみた吐息が漏れるばかり。
抱きすくめられ、耳朶を牙で撫でられ、胸の奥を想いで灼かれて。
「もう一度、問う。こんどは声を限りに叫ぶが良い。できる限り具体的に、可能な限り簡潔に。言葉を濁すことは、オマエのためにならん」
シオンの歯の根はもう合っていない。
恐くて恐くてたまらない。
恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
自らの心の奥底にあったほんとうの《ねがい》を、自ら口にすることがこれほどまでに恐ろしく恥ずかしいことだと、シオンはいまのいままで知らなかった。
そして自分を本当に畏れさせているのは、そんなシオンの泣き顔を残酷に見下ろすこの男なのだ。
正しく答えるまで、辱め尽くしてやる、とその目が言う。
こんなふうに問い詰められたら。
こんなふうに追いつめられてしまったら。
もうわたしは二度と、ほんとうにどこにも、いけなくなる。
ううん、もうすでに、どこにもいけないのに。
それなのに男は聞くのだ。
「これがオマエの悦びか」と。
シオンは涙でぐちゃぐちゃにさせられながら、答えるしかない。
ほとんど慟哭するように。
なにが悦びであるのかを。
真の望みを。
道具にではなく、記章にではなく、あなたに。
「はい──あなたに、あなたのためにわたしを使うことが──わたしの真の悦びです」
アシュレの苛烈を極める支配の技法が、ついにこのとき夜魔の姫に真意を叫ばせた。
もしこのときアシュレが慈悲心に負け、作法の馴致を記章に任せ切りにしていたなら、シオンは本当に堕ちていただろう。
アシュレの《意志》にではなく、道具に屈して。
あるいは己の内に流れる夜魔の血に呑まれて。
共有した心臓を通じて伝わる主=アシュレからの希求が、記章どもが突きつけてくる恥知らずな要求を遥かに上回るものでなかったら、きっとそうなっていたとシオンは思う。
ごう、と炎そのものを押し付けられたような焦がれるような熱さが、胸郭を満たした。
「いいだろう。我もまた、オマエのために《ちから》を振るおう──壊れるまで、もう二度と立ち上がれなくなるまで使い果たしてやろうから、覚悟するが良い……」
ああ、きっとわたしはダメになっていた。
確信してシオンは泣いてしまう。
震え上がるほど恐ろしい声に隠された、彼の真意に触れなかったら。
夜魔の血に狂わされながらも誤ることなき、強い自分への想いを焼きつけられなかったなら。
きっとわたしは堕ちていた。
だからシオンは誓う。
わたしのすべては、あなたとあなたが属する世界のために使う、と。
そうやってアシュレたちはここまで来た。
それは妹たちとでは決して超えられぬ道のり。
互いが互いの本当の望みを知らなければ、あれほどまでにヒトは残酷にはなれないものだ。
アシュレにせよシオンにせよ、すこしでもなにかが違っていたら、この賭けに負けていた。
だが、このときふたりは古き夜魔の因習と記章どもが駆り立てる血と肉の欲望に抗い──いやそれさえ踏み越えてその先へと一歩を踏み出した。
そこで狩りの音を聞いた。




