■第四七夜:刃の下に心を隠して(1)
さて、話を戻そう。
封都:ノストフェラティウムの街区を成す建築物や壁面は、圧巻を通り越して異様であった。
すべてが無数の人骨で隙間なく装飾されている。
不用意に触れればそれらが空虚な音を立て、悪夢どもの耳目を集める仕掛けだ。
よく見れば積み上げられ壁に埋め込まれた頭蓋骨には、鋭い牙を備えたものまで混じっている。
もちろんそれは人間のものではない。
夜魔の骨。
この地に暮らした夜魔たちは、ときに同族をもその手にかけ、その証を自らの住居に残した。
退廃の市。
廃都、遺棄された都市の成れの果て。
営みの絶えた街路には塵ひとつなく、通りは不気味なほどに静まり返っている。
犬猫はもとよりネズミ一匹、洞窟であるならば当然居着いているはずのコウモリすら生命の気配はなく、ただときおり上空を擦過していくあの狂気の群れがあるばかり。
それらを見やり、夜魔の貴種の装いに身を包んだアシュレは単身、封都:ノストフェラティウムの闇を駆ける。
身につけたばかりの夜魔の異能:影渡りを織り交ぜ、可能な限り陰を選んでひた走る。
ここまで発見されずにいれたのは、ひとえにアシュレひとりの、完全なる単独行であったからこそ可能な芸当であった。
さらに言えばアシュレの手にはいま、なにほどの武装もない。
せいぜいがその腰に、シオンから借り受けた守り刀が鈍く輝くのみ。
重武装のまま進んできていたら、このような隠密行動はとても叶わなかった。
ましてや聖剣:ローズ・アブソリュートとともにでは、侵入時点からして不可能であっただろう。
聖剣が放つ輝きは、上空から見下ろす悪夢どもには丸見えだったに違いない。
すべての武装はいま、イズマが編み出した特殊な方法でもって影の包庫に封印されている。
かわりに城への順路はすでに図面から把握し終えていて、その意味での見通しは明るい。
複雑に入り組んだ街路の繋がりを、この時点でほぼ完全にアシュレは頭に収めていた。
かつてこの道を辿ったシオンが、そのとき把握した限りを書き綴った見取り図が、それを可能とした。
それは現存する唯一のこの街の地図だ。
シオンの記憶から再現された封都:ノストフェラティウムの図面は、もう二〇〇年から前のものだが、街を増改築できる人夫がひとりもいない以上、新たな建築物が生まれるはずもなく、街路の配置は以前のままに違いないと夜魔の姫は言い切った。
ここまでの道程において、その言葉に間違いはない。
アシュレの脳裏にある図面と実際の街路には、わずかな誤差さえない。
恐るべきは高位夜魔の持つ完全記憶の凄まじさである。
さらにアシュレ自身の夜魔としての記憶力の高まりが、平面図に過ぎないはずの街路図面を立体的に把握することを可能にしていた。
この能力によって、夜魔たちは高度な三次元機動を苦もなくこなす。
たとえば見通せないはずの屋根の上に寸分の狂いもなく影渡りで移動するためには、平面的な街路の造りから街の立体構造を把握する能力が必須のものとなる理屈だ。
そのことに気づいたとき、アシュレは内心、舌を巻いた。
もし夜魔たちが貴族的な生き方の体現者ではなく、同族の斥候や密偵を放ったり、そこで知り得た情報を組織的に共有するような考え方のできる種族であったなら、人類の城塞都市などなにほどの機密さえも護ることさえできずに丸裸にされ、攻略され尽くしてしまっていたことだろう。
ともかく、そのおかげでここまでは、無用な遭遇を避けることに成功している。
一区切りついたところで視界を巡らせれば、廃墟となった王城とその尖塔が視界に飛び込んできた。
さらに尖塔の突端に目を向ければ地上世界、つまり夜魔の國:ガイゼルロンへと至る唯一の経路が見える。
結界を潜る前、遠目に見たあの螺旋階段まで、残すところあと半分といったところであろう。
あすこがこの都市からの脱出口であり、同時に結界の途切れる場所、つまりこの隠密行の終着点だ。
さきほどまでずいぶんと遠くに見えていた尖塔の姿が、もうすこしで手に届くところまできたのを実感してアシュレは息をついた。
封都の陰に潜みながら、周囲に素早く目を走らせることを忘れない。
問題はここからだった。
王城へと近づいていけばいくほどに、悪夢たちの密度は増してきている。
複数の敵と不期遭遇する危険性も増大している。
さいわいにも、夜魔同士が持つ血の共振の能力を、眠らない悪夢どもは用いないとシオンは言っていた。
正確には能力そのものは持っているのだが、取り込み過ぎた同族のそれが鳴音を起こし、外部から接近する他者の血をうまく察知できないのだという。
よほど接近せぬ限り、また実際に姿を目撃され、血の共振のクセを特定されぬ限り、それによる探知はあり得まいと請け負った。
しかしそれも程度問題だ。
相手が密集しているエリアにこちらから突入すれば、否応なく会敵の可能性は高まっていく。
ここまでは順調だが──最後まで奴らと相対せずに済ませることはできまい。
いざ遭遇ともなれば、夜魔の王として威を示しての恫喝や交渉を余儀なくされる。
威を示しての恫喝や交渉、というのは具体的には自らが所有する領土の披露であり、それはつまり現在アシュレが所持する唯一にして最高の獲物であるシオンの詳細を、奴らの眼前でつまびらかにするという意味になる。
さらにその仕儀については「とびきり残忍でなければならない」と、ほかでもない夜魔の姫本人から釘を刺されていた。
それ以外の手段で奴らを退けたり、躊躇させたり、道を譲らせることはできない。
奴らが感じ入るのは「極限に至った支配の作法」と「狂気すら圧倒する冷酷」に対してだけなのだから、と。
さらには万が一、その威圧や交渉に失敗した場合、取り得る方策は殲滅戦ないし全力逃走の二択だけだとも付け加えた。
「もっともそんなことにはならん。決してさせん。わたしが……そなたのモノである限り。わたしを首級として掲げる夜魔の王としての、そなたの威がある限り」
アシュレはその言を信じている。
もとより今次作戦の終端目標とは夜魔の大公:スカルベリの首級であり、究極的な話をすれば、それ以外の交戦にはなにほどの意義もない。
今次作戦における殲滅戦や全力逃走と、それに伴って強いられる戦力的資源の消耗とは、文字通りアシュレたちの命と人類圏に残された時間の空費なのだ。
だからこそ、上空を擦過していく眠らぬ悪夢たちに対し、アシュレは最大限の注意を払う。
結界を潜る直前、シオンと交した会話を思い出す。
「奴らの前ではあくまでも夜魔の王として振る舞ってください。良心と人倫はどうか捨てて──さきほどまでわたしにそうしてくださったように──冷酷と残酷と酷薄とで己を鎧い、律してください。そして必要であればためらいなく王者の証たる宝冠:アステラスの威光を示し……獲物であるわたしを晒してください。この身に捩じり込まれた数々の記章があなたさまの《ちから》の証となるでしょうから」
隷下の言葉でシオンは語った。
その瞳には屈服の作法が刻み込んだ深い陰影がある。
口調が変わっているのは、不躾を記章たちによって散々に責められ、隷属を馴致された結果だ。
対等の言葉でアシュレと会話することを、記章たちは夜魔の姫に禁じた。
だがその瞳の深奥をよくよく見極めれば、意志の炎は埋み火のごとく秘され、放たれるときを待って静かに撓められているのがわかったはずだ。
夜魔の姫の意志は、心は、折れてなどいない。
そう装っているだけで、奴隷にも玩具にも堕ちてはいない。
だが、ここに至るまでには苦闘があった。
アシュレがシオンに対して振う夜魔の躾けは、あくまで偽装のものでなければならなかった。
真の意味で夜魔の姫を隷下に貶めることは許されてはならなかったし、当然のようにそれはアシュレの願うところでもない。
そしてそれは夜魔の姫もまた、同様であった。
刻満ちたそのとき、束縛から自由になった“叛逆のいばら姫”の手には聖剣:ローズ・アブソリュートがあり、その《ちから》でもって夜魔の大公に相対できる者でなくてはならない。
それこそが、今次作戦の要諦。
行く手に立ち塞がる者どもの目を欺いたまま、必殺の刃の切っ先は決して鈍らせることなく、最期の局面にまで隠し持って行かなければならない。
そうでなくてはアシュレたちはこの賭けに打ち勝てないのだ。
つまり互いの間に結ばれた絶対の主従関係を、これより先で遭遇する夜魔の血族たちにも記章相手にも完全なるものとして装いながら、その実、互いが自らの《意志》を手放してはいない者でなければならなかった。
たとえるならばこの儀を通じて、夜魔の姫は一本の剣とならねばならなかった。
聖剣:ローズ・アブソリュートと同化した人類圏のための剣に、である。
同様にアシュレもまた、嗜虐を嗜好し、これに耽溺する暴虐な王に堕ちてはならなかった。
ふたたびたとえるのであれば、アシュレは真の遣い手とならなければならなかったのである。
シオンが一本の剣、つまり聖剣:ローズ・アブソリュートであるとするのであれば、それを正しく導き使うことのできる人理の騎士に、だ。
それは──言うほどに容易いことではない。
シオンの全身に埋め込まれた記章どもの悪意と、時と場所を選ばぬ調教が強いる隷属の強制力、堕落への誘惑はひとことで言えば熾烈であった。
あるいはそれは玩具へと貶められる対象、つまり“叛逆のいばら姫”:シオンの気高さにも起因するものだったかもしれない。
記章からすれば従順とはほど遠く最高に不敬極まる存在=調教しがいのある獲物、と夜魔の姫は見えたはずだ。
対象を貶めるとき、相手が精神的にいかに高きに座しているか、気高き心を持っているか、というのは重大な要素となる。
そんな相手を嬲り尽くし貶め尽くし、ついに欲望の玩具へと引きずり下ろすとき、その落差は物理的な位置エネルギーに等しく働く。
相手の位相が高ければ高いほどに、それを踏み躙り心をへし折ったときの快楽は増大して感じられるものだからだ。
それこそが心の暗部であり真理であった。
その意味で言うのであれば、夜魔の血の究極であるとほかならぬ夜魔の大公をして絶賛させた美姫のすべてを思うさま蹂躙せしめる機会など、長き夜魔の生の、その夜の闇よりなお昏き暗部を受け持ってきた道具である記章どもにとっても、ほとんど初めてのことであったに違いない。
もちろん記章たちは、意志など持ち得ぬ道具でしかない。
だが、その鼻先で夜魔の姫の血潮を嗅いだとき、生命無きはずの躯体が確かに歓喜に打ち震え脈動するのをアシュレは見た。
やがて、その昂ぶりは持つ手を通してアシュレにも伝播し、嗜虐への愉悦を狂おしく掻き立てたものだ。
夜魔の姫であるシオンは、生を受けてより四百余年、当然のごとく奴隷としての振る舞いも言葉遣いも知らぬまま生きてきた。
祖国:ガイゼルロンに暮らす夜の貴族のならわし・因習を断ち切り、自らの《意志》で祖国と決別した“叛逆のいばら姫”の心は、隷属から最も遠い場所にあった。
それはさながら青きバラのごとくに気高く、野を吹き渡る風のように、なにより自由であった。
真心から騎士に尽くす姫ではあれても、玩具の心を知らなかったのだ。
だが、その孤高たる自然体の振る舞いを、記章どもは許さなかった。
どころか、それゆえに荒ぶった。
数百年の時を超えて捧げられた真の夜魔の血、その生贄の味の甘美なるに猛り、獰悪なる本性を露にした。
アシュレと対等に言葉を交そうとするたび、シオンは記章たちによる躾けを施された。
もちろん記章たちは、その作動を持って不躾を咎めるだけの道具でしかない。
シオンの不作法を指摘し、実際に隷属の言葉と作法を教えこむのはアシュレの仕事だ。
しかし、この教えもまた記章たちの評価に晒されていた。
アシュレの教育が夜魔の王のものとしてふさわしい振る舞いかどうかを、この醜悪だが熱心な《フォーカス》たちは、それこそ眠ることなく監視し続けていた。
必然、教育が生ぬるければ、シオンは余計な辱めを受けることなる。
それだけではない。
夜魔の記章たちが真に悪辣であったのは、アシュレがシオンを対等に扱おうとしても同じか、あるいはそれ以上の反応を見せることだった。
しかも懲罰は常に獲物であるシオンが受ける。
文字通り夜魔の姫が身体で理解するまで、それは続けられた。
互いの身の程をわきまえぬ言動を、この《夜のフォーカス》たちは決して許さず、常に双方を見張っていた。
熱心だ、と記章たちの振る舞いについて評したシオンの言は、極めて正確だったと言える。
夜魔にとって主従関係を馴致させるとは具体的にはどういうことなのか、アシュレは記章たちとの言葉なき対話から、戦慄のうちに学んだ。
ヒトの騎士が人類の道徳観念と慈悲心に負け手心を加えたとき、記章たちはアシュレがそうするよりずっと手酷い辱めを夜魔の姫に与える。
教練の手本を示すように、アシュレがそれ以上をできるようになるまで、ずっとだ。
この先、相対することとなる夜魔の騎士たちと眠らない悪夢、そして記章どもの目を欺いて────つまりシオンの内に《意志》の焔を隠し保ち続けながら、表面的には従順な囚われの美姫として見えるよう仕立て上げることは、ひとことで言えば難行にほかならなかった。
アシュレには一〇〇〇年を超えて蓄積された夜の血が導く調教の作法をはるかに超える洗練とともに、互いが単なる欲望の権化へと堕ちてしまわぬよう、研ぎ澄まされた刃の上を走り抜ける《意志》が求められていた。
だからこのときも努めて、支配者の言葉で訊いた。
厳しく、怜悧に、容赦なく。
「わたしを晒してほしい」というシオンの言葉の真意を問い正す。
もしアシュレが問わなければ、記章たちが、より手酷く訊いたであろうから。
さてここまで燦然のソウルスピナをお読み頂き、本当にありがとうございます。
このコンテンツは更新可能な原稿が作者の手元にある限り、土日祝と作者的長期休暇などを除いて毎日更新して行っております。
ですので明日明後日はカレンダー通りお休みを頂きますので、あしからずご了承ください。
また本日23日金曜日は我が家恒例のディナーショーです。
オジサンは我が家のヒツジの言うがまま、スペイン料理なんかこさえに行かねばならなくなりました。
時間がないのでいまから更新します。
これをアナタが読んでいるということは、すでにこの話は更新された頃でしょう。
当たり前だが。
休みの間にいいねとか感想とか書くと、酔っぱらったオッサンが画面の向こうで踊るらしいので、たのしいかもです?
話の都合で、物凄い中途半端なところで切れてますが、一回の更新で一万四千字とか更新されても、嫌でしょ?w
ま、そういうわけで、みなさま良い週末を。
ところでティアキン面白いですね、いまから風の神殿を攻略してきます!(をい!




