■第四六夜:眠らない悪夢
※
眠らない悪夢は少女のカタチをしていた────。
ガチガチガチガチッ、と乱杭に発達した牙が打ち鳴らされ、でたらめな再生を繰り返す肉腫の竜巻と化した悪夢の群れが、頭上を高速擦過していく。
生物としての構造的な連なりを完全に無視して連結・接続された肉体からは、幾多の腕がこれも無秩序に突き出している。
見ればその指が握るのは、いまやアシュレもよく見知った品々──記章か。
眠らない悪夢たちは高位夜魔の成れの果てである。
己が血の記憶に呑まれ、生きながらにして自らを見失った、いわば徘徊する死者である。
その末路として、当然のように記章をいくつも所持している。
さらにそれら自らの遺品とも言うべき品々を、まるで与えられたばかりの玩具のごとく振りかざし、宙を舞いながらすすり泣き・笑い・怒る。
その様はまごうことなき狂気であり、受肉した悪意そのもの。
いや──たとえそうであったにしても、たださかんに騒ぎ立てているだけだというのであれば、アシュレも眉をひそめるに留め、先を急ぐべく無視を決め込んだことだろう。
生ける悪夢に成り果ててなお往時の権勢に固執し、その象徴であった醜怪なる品々にいまだ心囚われたる哀れなる者どもとして、憐憫とともに嫌悪の対象と見なせば良いだけのことだったからだ。
だが、それはできない相談だった。
奴らは、己が悪夢の《ちから》とともにそれら異形の道具を振るい、犠牲者を玩具に貶めようと試みる。
そうやって心身の自由を奪い、さんざんに辱め嬲り尽くしてから、蕩けた脳髄の奥へと舌を差し込み記憶を啜る。
そのあとで出来上がったがらんどうに悪夢たちを流し込むのだ。
悪夢たちが手に手に掲げる記章は、現在の奴らにとって物理的な存在に対して唯一、直接危害を加えられる道具であった。
なるほど、なかば夢幻の側の存在である悪夢たちが現実の肉体に干渉しようというのであれば、そういう手段を採るしかない。
つまり、半分夢の側=幽体と成り果てた自分たちに保持・操作が可能で、そうでありながら確固たる物体でもある存在=《フォーカス》、つまり記章を用いてだ。
ただ、武具ではない記章ではいかに数を揃えようと、そのままでは他者への直接的な攻撃手段となり得ないこともまた事実であった。
だから奴らの前で無防備な姿を晒しさえしなければ、あの悪意が凝ったような刑具の群れに囚われることはないはずなのだが──事はそう上手くは運びそうになかった。
シオンの話によれば、常人では眠らない悪夢どもに触れられただけで記憶が侵食を受けて混乱を来たし、瞬く間に昏倒・破滅に至るという。
アシュレやシオンほどの《意志》の持ち主=《スピンドル》の使い手であれば、接触を受けただけでいきなり昏倒するなどということはまずあるまいが、いかに優れた《スピンドル能力者》であろうとも、記憶を混乱させられ操作されてしまったら、これに抵抗し続けることは難しくなる。
奴らの指や舌を阻むには、まずもって普通の甲冑やプロテクタの類いは役に立たない。
特別な護りを施されていない限り、装甲も衣服も液体が紙に染み込むようにしてすり抜けてくる奴らの手を防ぐことはできない。
襲撃を受けるたびに心の平衡を脅かされ、徐々に《ちから》を奪われたあげくに膝を屈することになりかねない。
仮に朦朧としたところを組み伏せられ、記章を用いられた場合
どうなるか。
その時点で犠牲者の肉体の一部には玩具の烙印が押されたことになり、奴らの所有物と見なされる。
たとえ一ヶ所でも陥落を許せば、その時点で際限なき無間地獄が幕を開ける。
ひとたびそうなってしまったが最後、悪夢どもにその昂ぶりは瞬く間に伝播し、荒ぶるのは獲物へと印を刻んだ一体だけでは済まなくなる。
犠牲者の悲鳴を聞きつけるが早いか、周囲を徘徊していた悪夢どもまでもがさらなる征服と服従の誓いを求め、血に飢えたサメのごとく殺到して来るは必定。
たとえなんとかその場の魔手を逃れたとしても、《フォーカス》である記章は主人にその在りかを知らせるため、迫り来る追手を振り切ることもかなわない。
特に奴らの攻撃は、夜魔にとっては致命的だ。
もともとが夜魔である悪夢たちの指と舌、そして牙は、恐ろしい親和性を持って夜の血を狂わせる。
完全記憶を持つ夜魔にとって、過去の記憶は現在と同じという意味で等価値であり、その時系列や内容を侵食・操作・改変されることは、自らの意志だけではなくこれまでの人生、さらにはこれからのすべてを破滅させられることと同義だ。
これこそガイゼルロンの諸侯、そして大公が、かつて夜魔世界の王都であったこの地を封じ、正史から記録を抹消しようと務めてきた所以であった。
どうして滅してしまわなかったのか──それだけが不思議だったが、夜魔の姫:シオンをして聖剣:ローズ・アブソリュートを用いての殲滅戦を断念させたのだから、聖なる武具を扱えない夜魔の騎士たちでは到底達成不可能な難行であったのであろう。
眠らない悪夢たちの一体一体が、本性を露にした超強力な高位夜魔の成れの果てであったことも忘れてはならない。
夜魔の大公をして、封じるのが精一杯だったのだ。
それにしてもいったいどれほどの妄念が、あの奇怪な肉叢のなかには詰め込まれているのだろう。
一〇〇〇年以上の刻を経て醸成された、蠢く悪意の煮凝り。
アシュレの目には、眠らない悪夢たちが手に手に掲げる記章こそが、彼らの妄念をさらに助長させているようにしか映らなかった。
さらにこの封都:ノストフェラティウムには、その昏い情動を増幅させるものがある。
小道具と舞台装置そのすべてが共鳴してそこに住まう者、はては訪れる者までもを淫靡で陰惨な歌劇世界へと誘う。
封都:ノストフェラティウムとはその名の通り、間違えても足を踏み入れてはならぬ禁断の都市であり、そこに巣くうのは決して理解を示してはならぬ狂気の住人たちであった。
なるほどな、と感慨にも似た呟きが漏れるのを止められない。
ここに至る直前、同道を迫る妹たちに対しシオンが示した条件──アシュレの手による先んじての記章埋設という──その理由が、この時点で完璧に理解できた。
たしかに、彼女たちを護りながらこの道を行くことは、不可能だったに違いない。
だれかを犠牲にして差し出し悪夢どもがその生贄に夢中になっている間に、自分たちだけでことを成し遂げる……そういう非情な方法に訴えでもしない限り、三人を連れての敵中突破はまず果たせなかっただろう。
さらに奴らは、あれ一匹(いや一群と記述すべきか)限りではない。
見た目からして明らかに群体なのだが、単位的にはあれで単騎に過ぎないのだ。
シオンの言によれば同様のバケモノが相当数、この封都:ノストフェラティウムには潜んでいるらしい。
一匹でも厄介だろうに、あのような者どもに群れなして襲われなどしたら、とても捌き切れるようなものではない。
だが、これから先へと歩を進めれば必ずや会敵することになる。
考えただけでも身の毛のよだつような話だが、その危険を承知で自分たちは進まなければならないのだ。
もちろん、いざというときのための決定的な切り札を、アシュレはすでに携えてはいる。
やがて来るであろう絶対的窮地を切り抜けるための鬼札を、夜魔の貴族がまとうという漆黒の外套の内に潜ませている。
だがその代償に、妹たちからの好意や尊敬を失ったこともまた確かであった。
アシュレの夜魔としての覚醒とその後に続いたシオンの征服は、ほかならぬ夜魔の姫自身の《意志》によって、妹たちの眼前で、言わば見せしめとして決行されたのだ。
効果は絶大であったと言わざるを得ない。
事はシオンの思惑の通りに推移した。
いかに突発的・強制的な夜魔の血の覚醒によって暴走状態にあったとはいえ、あの暴力の発露を見たあとで好意や尊敬を保ち続けることは、まともな神経の持ち主には不可能だ。
あのとき、暴虐と嗜虐の権化へと、アシュレは成り果てた。
突如として夜の血の覚醒を促され理性のタガを引きちぎられ、たとえ衝動を食い止めるための手段をあらかじめ奪われた状態であったとしても、あれが自分のなかに潜む男としての本性であったことだけは認めざるを得ない。
あのときシオンに振るわれた暴力の一切が、同じく我が身に起こるとして、それを受け入れても良いなどと言える女性など──いいや人間など居るわけがない。
アシュレ自身からしてそう思うのだ。
ましてや彼女たちは、いかにその身に数々の異能を宿し、これまで幾度も戦列をともにしたと言えど、成人直後か前の娘たちでしかない。
一連の出来事とその直視は、とても耐え切れるものではなかったはずだ。
同時にあれでよかったとも、アシュレは思っている。
必要な荒療治だった。
どこかでしなければならなかった決別の儀式だったのだ。
一度目の血の陶酔から目醒めたとき、シオンは布きれに変じた肌着を掻き合わせながら、アシュレの前に跪き頭を垂れた。
『結果としてわたしはそなたを独占してしまったことになる。あれらはこんな出し物を見せたわたしを恨みに思うだろうし……そなたに対する心証もまた著しく損なったであろう。狡いやり方をした。許せ、とは言わぬ。どうかその仕置きは、すべて我が身に反映してくれ」と。
夜魔の姫は自分の《ねがい》のせいで、アシュレに戦隊における立場と面目を失わせたと言ったのだ。
もちろんアシュレは即座にかぶりを振った。
スノウはともかく真騎士の妹たちに関しては、自分の呪縛からなんとか自由にしてあげたいというのが、アシュレの真の思いであった。
あの地下帝国の下水道での一幕。
ほかにどうしようもなかったとはいえ、アシュレは真騎士の妹ふたりの肉体に、消えぬ烙印を押すはめになった。
かろうじて真騎士の乙女としての尊厳の喪失は免れたとはいえ、ある意味でそれ以上の恥辱をアシュレは彼女たちに刻み込んだワケで、それは密かにもヒトの騎士の良心の咎めるところではあった。
だが彼女たちはそのことでアシュレを責めたり、ましてや恨んだりはしなかった。
むしろ逆で、そのことでアシュレに罪悪感を感じてなどしまわれたら、もう生きていけないとさえ言ってくれた。
せめても自分たちを所有したことを誇って欲しい、とさえ懇願した。
たしかにその場では、アシュレも彼女たちの申し出を受けた。
誇っても見せた。
そうでもしなければ、彼女たちは恥辱から自刃しただろうからだ。
しかしあのとき舌先に乗せた言葉と、胸の奥に押し込めてきた想いは違う。
できることならばキルシュとエステルのふたりには、自分以外との自由意志による恋と愛とを得て欲しかった。
だから夜の血の覚醒とその陶酔の只中にあっても、そこに手をつけずに済んだことを嬉しくさえ思っていたのだ。
妹たちの生き方に、自分は必要ない。
彼女たちほどの器量と飾らない心根の優しさがあれば、本当の恋をいまからいくらでも見つけられるはずだ。
自分というくびきからふたりを解き放つのが己の使命だと、これまでアシュレは感じてきた。
そう考えると、あれはいい契機だったのだ。
あれくらいのショックや幻滅を伴わなければ、とても諦めてくれそうにはなかったからだ。
嫌われたのがつらくないかと問われたら、そうではないと答えれば嘘になるが……それでもだ。
もう二度といままでのように、微笑んだり近寄って来て……愛を囁いてはくれないかもしれないが、この手で彼女たちの尊厳を踏み躙るよりずっといい。
野に咲く花を悪戯に摘み取って玩ぶような男にはなりたくなかった。
そうなるくらいなら、嫌われていたほうが一〇〇倍もマシだ、と心から思う。
そう伝えると、夜魔の姫は呆れたような慈しむような顔で言ったものだ。
『そなたがそういう男でさえなかったら、あるいはその望み通りになったかもしれないが』
と意味深な微笑みを浮かべて。




