■第四五夜:落後者たち
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繰り返される止めようのない嗚咽が、もうだれのものかわからなかった。
妹たちはとぼとぼと重い足取りで来た道を戻る。
ある者は自らの腕で肩を抱きしめ、ある者は頭を抱えて、涙で真っ赤に染まった眼を閉じることもできずに。
恐かった。
恐かったのだ。
それほどまでにシオンを蹂躙する──夜の王に変じたアシュレの姿は。
妹たちは見た。
それ以前でもこれ以上ないほどに禍々しく見えたあの道具たち──記章どもが内に秘めた真の姿を現すのを。
自分たちの前腕ほどもある奇怪な杭をアシュレが手に取ったとき、反り返ったその先端がバクリと割れ、そこから無数の牙とさらにねじくれた舌が姿を現すのを、その目に焼きつけるはめになった。
邪悪とはなにか。
醜悪とはなにか。
それら概念にカタチを与えたら、どのような姿になるものか。
妹たちは今日、知ったのだ。
そしてそれがシオンに突き込まれ、串刺にするのを見た。
先端といわずそここに姿を現した牙とねじくれた舌が、身の内側でどのような不埒を働くものか、妹たちには想像すらできない。
あまりの衝撃に夜魔の姫の薄紅色の唇は白く変じ、限界まで開かれていた。
反り返った喉から臓腑があふれ出てしまうのではないかと思えるほどに、突き出されてた舌は白く変じ、びくりびくりと震えていた。
まさしく串刺しの刑で死に至る直前のように。
だがその杭は夜魔の姫を殺すためではなく、辱め貶めるために働く。
牙が肉を捕らえては噛みつき、長く拗くれた舌が更なる深奥を求めて容赦なく侵入を試みる。
また、見た。
カメオ、あるいは大ぶりな飾りボタンを想わせるメダリオンが、アシュレが触れた途端、その底部からのたくる触手を生じさせるのを。
そしてそれがシオンの臍にねじり込まれるのを。
達した先がいかなる名の臓器に当たるものか。
先ほど突き込まれた杭とそれが連携していかなる陵辱を働くものか。
妹たちの理性は考えることを拒絶した。
それなのに、さらに見た。
羞恥に染まる耳朶に飾られたイヤーカフが、ヒルのように蠢く本体を剥き出しにして夜魔の姫の耳穴に潜り込むのを。
そして聞いた。
それが絶え間なく頭蓋の奥へと送り込む恥辱の言葉を。
なにより恐ろしかったことはそれらがまだまだ序の口で、懸命に耐えていたシオンの口から哀願と懇願が迸るようになってから、さらに加速していくアシュレの夜の王としての行為であった。
とても正視に耐えられるものではなかったはずだ。
それなのに、妹たちはその行いに釘付けにされた。
恐ろしく、生理的嫌悪が振り切れてしまうほどにおぞましく、だがだからこそ魅了されて。
腰はとうの昔に抜けていた。
床を濡らすものが自ら漏らした小水だと意識さえできなかった。
だから我を取り戻せたのは、奇跡のようなものだった。
なぜって、シオンが叫んでくれたからだ。
逃げよ、と。
「に、げよ! 彼が、我が主が、わたしに夢中になってくれている間に────どうか妹たち、逃げおおせてくれ!」と。
言葉の意味を理解するよりも早く主、つまりアシュレが自分たちを見返った。
よく知った、自分たちが想いを捧げた男であった。
恋い焦がれた男であった。
そのはずであった。
しかし、そのとき彼女らの目に映ったものは、口元を鮮血で濡らし、血の狂気と征服の愉悦に炯々(けいけい)と眼を光らせる獰猛なる夜の支配者の姿だった。
三人の知らないアシュレがそこにはいた。
「にげ、よ」
振り返り妹たちを認識したアシュレを、震える手でシオンが掴んだ。
そのまま掻き抱くようにしてすがりつく。
妹たちが逃げおおせるための時間を稼ごうとしてくれている。
三人はそう理解した。
一方、妨害を受けた本人=かつてヒトの騎士であったものは、赤色に燃える瞳で夜魔の姫を睨めつけると、長い黒髪を掴んで引き摺り上げた。
わずかばかりの抵抗は、暴力によって踏みにじられた。
すでにシオンは完全に着衣を失っている。
姫君としての衣装を脱ぎ捨てたのは彼女自身ではあったが、肌着や下帯は力づくで剥ぎ取られた。
いまや裸身を隠すのは、宝飾品に擬態した記章の数々。
尊厳を踏みにじられ、手折られた夜魔の姫の姿に、妹たちの顎はガチガチと鳴った。
堕ちるとは、玩具に貶められるとはどういうことか。
このとき彼女たちは身をもって知ったのだ。
尊敬と敬愛、そして真心から捧げられる愛を信じてきた妹たちの想い──それら一切を嘲笑う暴力による蹂躙の違いを。
そして脅えすくみ切った妹たちへと、夜魔の王へと変じた男は、愉悦の笑みを投げ掛けた。
そうだ、オマエたちは我が獲物だ、と。
まっていろ、と。
さらに及んだ。
獲物たちに、その事実を決定的にわからせるために。
玩具であるにも関わらず、主の行いを阻もうとした愚かな下僕=夜魔の姫を罰することで。
見るがいいと言わんばかりに笑みを広げるや、シオンの細い喉に牙を立てた。
あらわになった首筋に鮮血に染まった牙が食い込み、ぐぎりめきり、と音を立てた。
のど笛を噛み砕くほどに強く、無慈悲に、噛み跡を残す。
首筋からの吸血は、夜魔にとって接吻よりも遥かに深い契りの徴となる。
本来は双方の合意の下に与え合う、と古式には記されたものだ。
それはすでに廃れたしきたりなのだが、といつかのシオンははにかんだように笑いながら教えてくれた。
しかしだからこそ──夜魔にとってそれを力づくで奪われることは、完全なる屈服を意味する。
元来は真に心を許した相手にだけ、それも寝室でだけ与えるはずの場所を衆人環視の状態で暴力によって奪い取られることは、心の強姦を、陵辱を許したことになるからだ。
それなのに夜魔の姫にはもう抗う術がない。
桜色の唇が震え、ごぶり、と血が溢れ出た。
ぐったり、と《ちから》が抜け落ちる。
もちろん高位夜魔であるシオンは死ねない。
この程度では一時的な死に至ることすらない。
だがアシュレは、それで蹂躙をやめるつもりなど毛頭なかったらしい。
むしろ不死者に対する陵辱は、ここからが本番となる。
シオンを咥えたまま、太く脈打つ血管の浮き上がった手がトレイをまさぐり、新たなる記章を掴む。
右手にひとつ、左手にひとつ。
自分たちの喉が絞められる子羊のごとく鳴るのを、妹たちは止められなかった。
夜の王と化したアシュレは、シオンの華奢な肉体ではどう見ても受け止め切れぬであろうサイズと数のそれらを無造作に選び取っては突き込み、あらゆる場所を我が物としていった。
痙攣を繰り返す肉体と、恥辱と羞恥に苛まされる心とを、暴力に任せて思うさま玩弄する。
禁忌を踏みにじり、己が欲望で貫き通す。
がちり、ばちん、ぐぶり、という重たい肉の音が、夜の門を満たしていく。
それはちょうど、肉屋が獲物を解体するさまにも似て。
気がつけば妹たちは手に手をとって遁走していた。
それがここまでの顛末だ。
「無理──無理だよあんなの……あんなアシュレさまないよ、こわいよ、こわすぎだよ」
「ですわ。いくら想いを捧げた方だとはいえ、あんな残酷が許されていいはずがありませんの。残忍が、残虐が過ぎます、ひどすぎますわ!」
「あれが夜魔の血とその覚醒。わたしのお父さんたちの因習、しきたりだなんて……あんまりだよ、こんなの……シオン姉ひどいよ、ひどすぎるよ。知りたくない! 知りたくなかったよ!」
口を吐くのは泣き言ばかり。
そうやって吐き出してしまわなければ心がどうにかなってしまうことを、彼女たちは本能的に理解していたのだ。
嫌悪感で吐いてしまいそうだった。
だが──それは本当は嫌悪からのものではない。
別の理由が三人を支配していた。
それはあのときのシオンの行いに起因する。
あれほどの暴力、征服と略奪を受けてなお、シオンは夜魔の王と化しその本性を剥き出しにしたアシュレを放さなかった。
いつ果てるともなき暴虐の嵐をその身に受け止め、涙ながらに許しを乞いながら、なにがあろうとも掻き抱いた彼を放さなかった。
自らの責任を果たすべく?
いいやそうではなかった。
それは「シオンだけがあの男とともにあれる」というメッセージとして、妹たちに働いた。
想いなどという曖昧なものではなく厳然たる事実、すなわち行いとしてそれは伝達されてしまった。
シオンという存在が、すでにしていかにあの男のものなのか。
そして、アシュレという男が夜魔の姫のすべてを、その血潮の一滴、骨の欠片の一片に至るまで、どれほどに求め欲しているのかについて。
逃走する自分たちには目もくれず、ひたすらに夜魔の姫だけを貪り求めるその背中に見えたのは、シオンへの限りない執着だった。
そうでなければ、ひとりの女に対しあれほどに残酷にはなれないことを、ほかでもない女としての階段をの昇る妹たちは本能的に理解してしまっていた。
自分たちが逃げ切れたのは運のおかげではなく、単に獲物としてのシオンがアシュレにとって最も大事だったからに過ぎないのだと。
そうでなければあの場で全員を組み伏せることが、あのときのアシュレには容易だったのだと。
それを敢えて愛の差、と表現しよう。
その事実に妹たちは絶望した。
シオンが我が身を差し出して見せた覚悟。
その覚悟に応じるように際限なく夜魔の姫を求めたヒトの騎士。
眼前で繰り広げられた血と拷問具と肉欲の饗宴が、たとえどれほど陰惨に見えても、その根底にあったものは覆しようのない絶対的な思慕だけであった。
その真の想いに、自分たちではとても勝てない。
アシュレが見せたあの執着に、自分たちでは応えられない。
いいや、あれほどの執着を抱いてもらえない。
それが怖くて恐ろしくて、とても、とても。
圧倒的な、埋めがたくも飛び越えられぬ絶対の差が、そこには暗い口を開けていた。
いま尻尾を巻いて逃げ出したこの三人のなかのだれひとりとして、あすこには辿り着けないのだ。
でもそれでも──少女たちの心は事実を受け入れられなくて、惑う。
とても自分たちではあそこまで行けない。
そんなことはわかっていた。
でもそうわかっていても──想いを諦めることもできない。
吐き気を催すほど心の芯から震えても、この想いを忘れることなどできない。
だから負け犬がする遠吠えのように、泣き言を吐き出すことしかできない。
わかっていた。
わかっていたのだ。
帰るしかない。
諦めるしかない。
虚ろな瞳から流れ落ちる涙を拭うこともできず、淡く燐光を放つ石畳の道を下っていく。
 




