■第四〇夜:転成(2)
それは人間の内部構造を、そっくり別の生き物と取り換えるのに似ている。
ヒトの子を夜魔の血肉、さらには臓腑を用いて死の淵から救おうという試み。
常識的に考えれば、それは不可能と断ずるべき所業。
太陽を月で代替しようとするようなもの。
だがその不可能にシオンは挑み、これを成し遂げた。
ここではあえてそれを「あり得ないほどの奇跡」と呼ぼう。
だが、それがあり得ないほどのものであるのならば、そのあり得ない手法によって手繰り寄せられた奇跡とは、奇跡を奇跡足らしめるため、同じくあり得ないほどに強力な呪縛と多大な代償によって支えられていなければ成立しないはずだ。
つまり夜魔への強制的な転成が、それだ。
たしかにシオンとアシュレのふたりは、白銀の結魂によって心臓を共有し合う存在となり、互いが一命を取り留めることには成功した。
しかしそれは夜魔の姫の心臓が、古き濃き純血の夜魔の血を人間であるアシュレの体内に送り込み、彼の活動を支え続けることになったという意味でもある。
ふたり分の生を支える夜魔の姫の心臓は、白銀の結魂の超常的な《ちから》の作用によって、互いの存在の中間に位置する捻転次元にいまも留まり続けている。
そこで単なる循環器の心臓部としての働きだけでなく、アシュレの側に送られる血液を動脈と静脈の関係を思わせて交換し、ヒトの子の肉体に適合するよう変換し続けている。
具体的には夜の血として励起している因子を鎮め、眠らせてから供給しているのだ。
だがその原材料が、夜魔の血であることには変わりがない。
ただ目覚めていないというだけで、いまアシュレを生かしている血液は夜魔の姫のものなのだ。
事実、変換し切れなかった夜魔の血によって、アシュレの肉体には異常な治癒力の促進や暗視をはじめとして、すでに夜魔の特徴が表れはじめている。
これを転成の儀の手順に正しく照らすのであれば──心臓の本来の持ち主であるシオンがその血に訴えかけさえすれば、アシュレの肉体は夜魔の特質を瞬く間に獲得し、種としての転成を迎えてしまう理屈になる。
無論ここに至るまで、夜魔の姫によるアシュレの夜魔転成は、実行されてこなかった。
いやむしろ、徹底して抑制されていたと言うべきだ。
それは夜魔の姫であるシオンが、人間という種に対して抱く偽りなき敬意による。
定命の者たるヒトの子の尊厳を夜魔の血などで穢してはならぬ、という固い決意。
それが“叛逆のいばら姫”:シオンザフィルの揺らがぬ《意志》であった。
けれども、いかに人類に適合するよう励起を鎮められていようとも、ヒトの騎士の体内をいまも流れる夜の血は、シオンが心の奥底に押し込めてきた《ねがい》を、これまでもずっと、たしかに感じ取り続けていたのだ。
沈黙の内に人体を蝕む病のように、アシュレの肉体がいつ転成を迎えても良いよう、夜魔の姫の血は息を潜め、着々と準備を進めていた。
主の秘めたる《ねがい》が放たれるときを待っていたのである。
──夜魔の姫のなかには「ヒトの騎士にもっと自分の側に来て欲しい」という昏い《ねがい》が、どうしようもなく息づいている。
それはいくらシオンが《意志》を振り絞って否定しようとしても、し切れるものではない。
彼女が夜魔、それもその頂点に座するほぼ完全な不死者である限り、その《ねがい》から自由になることはできない。
そこには完全なる不死者である自分は必ず時間に取り残される側である、という動かしがたい事実が関与している。
永劫の孤独の牢獄に、彼ら彼女ら夜魔は生まれながらにして囚われている。
上位者になれば特にそうだ。
真なる死を得られぬ限り、決して解き放たれることはない。
完全記憶の庭園に逃げこむことは容易だが、そうなった夜魔は早晩、現実を見失い狂う──眠らない悪夢に成り果てる。
だから永劫の夜を生きる夜魔にとって永遠の伴侶を希求することは、極めて切実な《ねがい》であり、正気を保ったまま長きときの流れに耐えるために必須の行い、当然の欲求であった。
共に生き歩んでくれる同胞が欲しい。
祖国と袂を分かち、独り生きる純血の夜魔:シオンにとってそれは、抗うことなどできぬ衝動であったに違いない。
であるにもかかわらず彼女はその誘惑を、これまでずっと己の《意志》によって退けてきた。
いかに人類の作り出す食事と酒とそこに込められた想いが、血の渇きと孤独を紛らわせてくれるとはいえ──それは極めて困難な試みであったと言うしかない。
いつ果てるとも知れぬ地獄の責め苦に、己の誇りだけを頼りとしてシオンは耐え続けてきた。
しかもその苦痛は「彼女が望むだけで逃れることができる」と確約されたものなのだ。
ただひとこと、想い人に「ともに来て欲しい」と囁きかけるだけで成就してしまう《ねがい》。
シオンはこれまでずっと、その成就を拒否し続けてきた。
思い出して欲しい。
過去にシオンが立てた「決して吸血をせぬ」という宣誓を。
それは単に血の渇望に打ち勝つという意味だけのものではない。
永劫の夜の道を行くともがらに──つまり己の孤独を癒すために──他者を夜魔に変えないという誓いでも、それはあったのだ。
そんな己の存在意義にも等しい誓いをいま、シオンは破ろうとしていた。
もちろん大半の夜魔の行いと、今回のシオンのそれは全く違う意味を持つ。
“叛逆のいばら姫”はただ己の欲望のためではなく、人類世界を夜魔の騎士たちの大侵攻から救うために、この作戦を立案し、実行を決意した。
決して自らの欲望によってのことではない。
それでも──その決断は夜魔の姫をひどく苦しめる。
苦しみの質はいまシオンに向けられる、問いかけを含んだ視線に集約されている。
三名の婦女子、すなわち真騎士の妹:キルシュとエステル、そして己が精神の妹であるスノウからの、責めるようでもあり、すがりつくでもあるような瞳に。
本当にそれは必要不可欠な試みなのか。
世界の危機に乗じて己が本懐を遂げようとはしていないか。
アシュレを自分のものにしたいだけなのではないか。
無論、三人の妹たちがシオンへの疑念を明確な言葉にしたわけではない。
それらはあくまでシオン自身が彼女たちの視線から汲み取った想像であり、己が心のありようの鏡像に過ぎない。
ただその目に宿る不安げでどこかに脅えを含んだ光は、彼女らの姉を自認するシオンにとって、自らの立ち位置を厳しく問い詰めるものだった。
もし同様の視線をアシュレからも浴びせられていたら、あるいはこのときシオンは挫けてしまっていたかもしれない。
だが当事者たるヒトの騎士は落ち着き払い、シオンを見つめているだけだった。
それはたとえどうあろうと、シオンとその行いを受け入れるという無制限の信頼であり、同時にまたこれから己に振りかかる劇的な変化を覚悟した者だけが取り得る姿勢だった。
続きを、とその瞳が促してくれている。
ああ、と夜魔の姫は静かに息をついた。
いまわたしがここに立てているのは、そなたのおかげだ。
感謝とともに祈る。
言葉ではなく胸中で、噛むように。
どうかわたしに勇気をください、と。
恐懼を振り払い、考えを述べる。
精一杯の威厳を保つようにして立つ。
詳細の説明を再開する。
なぜ、どうして、アシュレを夜魔の王とせねばならぬのか。
その理由を。
「夜魔の大公に閲見し、あまつさえ国を賭けた一騎打ちを挑もうと言うのであれば、その代表者は、すくなくとも夜魔としての覚醒は見ねばならぬ。これはルールと言っていい」
強い言葉でシオンは断言する。
この作戦にとって、なぜアシュレの転成が必要なのかについて可能な限り論理的に話すつもりだった。
だがその語気の強さに、三人の妹たちの視線には否定的な圧が加わった。
夜魔の姫の説明は、今次作戦の内容に納得できない自分たちの感情を、理屈で論破しようというものだったからだ。
しかし構わずシオンは続けた。
「《世界》から貴族としての役割を練りつけられた夜魔たちは、それが高位になればなるほど、己が血に誇りを抱いていればいるほどに、決闘の申し出を看過することはできない。なぜならそれが《世界》が我ら夜魔に望んだ役割だからだ。人間の貴族が公の場で申し込まれた決闘を断れないように、貴族という役割を練りつけられた夜魔は決して一騎打ちを断れないものなのだ」
すなわち《そうするちから》の働き。
「そして、そこにこそ我らの唯一の勝機がある。他の種──下等種と見なしている相手であれば賎民の戯言と一蹴できるものも、同じく夜魔の血統から挑まれたそれを退けることなどできないからだ」
それが夜魔の種としての精神性であり、吸血の性と同じく貴族の暗黒面を持って夜を統べる種族として存在の根幹に焼きつけられた夜魔の役割だ、とシオンは説いた。
ゆえにひとたび決闘を申し込まれたのであれば、これを当然の受けて立つのは、夜魔が夜魔たろうとすれば決して逃れられぬ属性であり、看過を許されない因習なのだと。
「ずっとこれより良き方策はないかと考えを巡らせていた。だがいかに手薄になったとて、ガイゼルロン一国とたったふたりで渡り合うことなどできない。これは妹たちが加わり五名になったとて、そう変わるまい。いやむしろ状況は悪化しよう。たとえアシュレの《魂》と聖剣:ローズ・アブソリュートの加護があっても、全員を守り抜きながら夜魔の騎士の軍勢と闘うのは不可能というものだ。それ以前にガイゼルロンにすら辿り着けるかどうか怪しくなる」
けれども────
息継ぎか、あるいは一瞬にしてもシオンは言い淀んだ。
視線が床面を彷徨う。
その隙に足手まといと言われたに等しい妹たちが、反論しようと息を呑んだ。
が、こちらはまともな言葉にさえならない。
夜魔の姫の唱える作戦に勝る方策を、まったく思いつけなかったのだ。
戦力としての存在価値をアピールしようにも、シオンが言うように、この先立ちはだかる敵=封都:ノストフェラティウムの眠らない悪夢たちと、夜魔の騎士の國が相手ではどうしようもない。
空中庭園:イスラ・ヒューペリアを巡る冒険行のなかで、闘争の担い手として自分たちが未熟であることを三人の妹たちは、嫌というほど思い知らされていた。
人類圏の戦争であればともかくも、今回は相手が違い過ぎる。
足手まといでしかない、と言われてもなにも言い返せない。
鬱屈した想いを胸に押し込め、ひたすら感情を燻らせるしかない。
だが実のところ、この作戦に忌避感と嫌悪感を覚えているのは、妹たちばかりではなかった。
最も否定的な想いを胸に秘めているのは、このプランを立案し提案する夜魔の姫そのひとだったのだ。
そもそも不死者である同族を永劫の記憶の牢獄から救いたくて、シオンは闘争に身を投じた。
それはアシュレと出逢うよりもずっと以前、彼女の人生における初期衝動と言っていい。
その彼女が、たとえ人類圏を救うためだとしても、ひとひとりを夜魔の王に仕立て上げようとしている。
その辛酸、いかばかりか。
証拠に言葉を継ごうとするシオンの唇は蒼ざめ、震えていた。
視線はいつの間にか、完全に地に落ちている。
なんとかその重責を和らげたくて、アシュレはあとを引き取った。
「つまり── 一騎打ちであれば勝ち目は十分にある。そうきみは言うんだね? そしてこれだけが居並ぶ夜魔の騎士たちの頭を飛び越え、スカルベリに一騎打ちを呑ませる唯一の条件だと」
まるで明日の天気の話でもするかのように、重さを感じさせない口調で話す。
だがその軽やかさに、まるで陽光を投げ掛けられた暗闇の生き物のように、夜魔の姫は身を縮こまらせた。
視線はまだ床に落としたまま、言葉だけで応じる。
ああ、とうめくような応えが返ってきた。
「案ずるな。実際の一騎打ちはわたしがやる。そなたの忠実なしもべ=決闘代理人としてな。だがそうなればスカルベリは大公として自分で受けるほかない。格下と見た同族からの挑戦を夜魔の大公が代理を立てて躱した──つまり逃げたとあっては示しがつかぬゆえな」
なぜなら、
「なぜならそれは、己が《ちから》と夜魔の大公としての永遠生を疑っていると周囲に取られるからだ。夜魔の王とは臣下すべての上に君臨する絶対強者でなければならぬという基底が揺らぐから。そして我が手には不死者を葬るための剣=聖剣:ローズ・アブソリュートがある。あの日のようには、ならん。一騎打ちに持ち込みさえすれば、必ず仕留めて見せる」
しかし……。
こめかみに手を押し当てながら、シオンは言った。
大きく息を吸い込み、なんとか考えを声にする。
速く、強く。
そうしなければとても話し通せるとは、思えなかったのだ。。
「しかし、なにがどうあれスカルベリに挑戦を叩きつける者だけは、夜魔でなくてはならない。きゃつと同じ盤上に立つには、きゃつらと同じルールに則った駒でなくてはならない。チェス・サーヴィスにたとえるのであれば、戦いは女王に任せたとて王が盤上にいなくては、そもそもの勝負にすらならないということだ。そのような逸脱、たとえスカルベリが許したとて、その道すがらに居座る側近どもが許さぬ」
つまりだ。
「つまりだアシュレ、そなたはたったいまから夜魔となる。ならねばならぬ。夜魔の大公をして夜魔の血の最たる者と言わしめたわたしを凌ぎ、圧倒して、我が頭上に君臨する真の王に」
その証として、
「手始めにわたしを──“叛逆のいばら姫”として夜魔の騎士たちにつけ狙われ続けてきたこのわたし──ガイゼルロン公国全体の仇敵でありながら、その大公:スカルベリが最高傑作と認めた夜魔の姫:シオンザフィルを組み伏せ、蹂躙し尽くした姿を掲げて凱旋せよ! 比類なき夜魔の王として!」
言い切り、シオンはそっぽを向いた。
握りしめられた両拳からは血の気が完全に引いている。
アシュレに王たれと命じただけではない。
その証として、自分自身を組み伏せ《ちから》の証とせよ、と夜魔の姫は言い放ったのだ。




