■第三九夜:転成(1)
「これまでこの事実を伏せてきたこと、心から申し訳なく思う。ずっと以前から、いや白銀の結魂を振るい、我が血と臓腑を持ってそなたをこの世に繋ぎ止めたあの日から、この試みが可能であることには確信があった。その事実をそなた自身にさえ、いまこのときまで黙っていたことは我が不徳の極みと言うほかない」
だが、謝らなければならないのはそれだけではない。
つと、シオンの視線が床を舐めた。
「できることならば、わたしはこの事実を最期まで伏せておきたかった。そんな自分がいることをここで認め、懺悔しなければならない」
肩が砕けてしまうのではないかと思えるほどに強く、自らを罰するように夜魔の姫は両腕に力を込めた。
みしりめきりと、周囲にも聞こえるほどに、聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーに包まれた指先が肉に食い込んでは骨を鳴らす。
その胸を苛む呵責の強度が、アシュレには少しだけわかる。
あえてすべてとは言わないが、それでも。
夜魔の姫と心臓を共有するアシュレの肉体には、いまも彼女と源泉を同じくする血が流れている。
なぜそんなことが起きたのか──それはもうかれこれ、一年近く前の事件に端を発する。
聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリー奪還の聖務を経て、魔界と化したイグナーシュ王国での冒険を終えた後のこと。
聖騎士の地位とともに約束されていた栄達、嘱望されていた未来のすべてを投げ捨て、夜魔の姫、土蜘蛛の王とともにカテル島へと向かった船旅でのことだ。
道行きの半ばでアシュレたち一行は、波間を彷徨う船の墓場=漂流寺院に遭遇した。
そしてその夜、漂流寺院の本尊=《ねがい》に囚われ邪神と成り果てたかつての聖女を救うべく、また戦隊全員の命を守るため、アシュレは《意志のちから》の最終到達点である《魂》を顕現させた。
だが次元の壁を打ち破り、目もくらむ輝きの姿を取ってこの世に現れ出でた《魂》は、その時点のアシュレでは御し切れぬ代物だった。
《意志のちから》=《スピンドル》が導く超エネルギー、すなわち《魂》の正体は、その権能と引き換えに膨大な代償を捧げなければ、扱うことなど叶わぬ強大無比のパワーだ。
荒れ狂う嵐にも等しいエネルギーの乱流は、未熟な乗り手など即座に振り落としてしまう暴竜に等しい。
本来、理想の側に属する超次元のエネルギーである《魂》をわずかな時間でも現世に留め扱うには、すくなくともその人間の人生すべてを代償に捧げる覚悟が必要とされる。
限定的とはいえ、世界観の崩壊を食い止め得る《ちから》とは、それほどまでに想像を絶するものなのだ。
そんなものをアシュレはあのとき、自らの肉体に降ろした。
一瞬のためらいが戦隊の全滅を招く局面のなかで《意志のちから》を振り絞り、なんとかこれに覚醒したとはいえ、いまだ《魂のちから》の本質へと理解の階を昇りはじめたばかりのヒトの騎士に、その完全なる制御は不可能だった。
だがアシュレは、その制御定かならぬ《ちから》をもって、邪神を依り代に漂流寺院の次元の裏側に蓄えられていた莫大な量の《ねがい》を、虚空へと逃すことに成功した。
もしあそこでアシュレが己を犠牲に《魂》を顕現させていなければ、邪神:フラーマの肉体は巨大な世界観攻撃兵器に変じ、ファルーシュ海一帯は世界改変現象に巻き込まれ、ズタズタに引き裂かれたあげく巨大な次元の穴に成り果てていたはずだ。
すなわち《通路》。
事実、その次元孔を通って、この世にあってはならないものが顔を覗かせかけていた。
不可知領域の奥に潜む《偽神》たちが、次元をも歪ませる強力な《ねがい》=《そうするちから》を伴って、世界改変の出番をいまや遅しと待ち受けていたのだ。
もし仮にそうなっていたとしたら──人類世界は内海貿易の最重要航路を喪失するだけでなく、その版図の相当をむこう側に奪い去られていた。
極めて軽微に見積もっても十数万、最大値を取れば数十万、長期的には数百万から数千万の損失が生じていたはずだ。
人類圏最大の帝国=失われた統一王朝:アガンティリスが、最大版図を誇っていた頃の総人口が約二千万人というから、その規模が知れよう。
ある意味でこのときアシュレは世界を救ったことになる。
だがその代償に、それまで騎士の胸の奥で臨界点ギリギリで拍動を続けていた心臓は、流入する二種類の超エネルギー=《ねがい》と《魂》の爆流を一点で受け止めることになった。
むろんそんな強大なエネルギーのぶつかり合いに、生身の身体が耐えられるはずもない。
結果、暴れ狂う《ちから》の奔流は彼の心臓だけに止まらず、胸郭までもをその内側から、まるで花の蕾が開くようにして吹き飛ばした。
ばくり、とその胸が爆ぜるのをその場に居合わせただれもが聞き、また見たのだ。
そしてヒトの騎士の命もまた、風の前に花が散るように失われる──そのはずだった。
そうならなかったのは、諦めなかった者がいたからだ。
ほかにだれあろう。
夜魔の姫=“叛逆のいばら姫”:シオンザフィルが、死神とヒトの騎士の間に立ち塞がったのだ。
彼女は同じく捨て身の一手を講じて、アシュレの命をこちら側に繋ぎ止めようと試みた。
自らの血潮はおろか臓腑までも他者に譲り渡すことによって、対象を死の拘引から救い上げる禁断の法──白銀の結魂を用いて。
それは己を省みない挺身。
万にひとつの可能性に縋る行為。
彼女が断行した一か八かの賭けは、幸運にも奇跡的な結果をもたらした。
アシュレは一命を取り留める。
けれどもこの秘法には、その根底に巨大な陥穽が潜んでいた。
「すべてはわたしの不徳の為さしめたことだ」
悔悟に震えながら、シオンは告白する。
夜魔たちは吸血によって新たなる血族を生み出す際、血の授受をもってそれを可能とする。
まず選び抜いた標的の血液を死の瀬戸際まで啜り、代わりに己のそれを与える。
簡単に言えば、互いの血液を交換する。
そうすることで種の垣根を跨ぐ。
この血のやり取りによってヒトを夜魔へと変える試みを「転成」と呼ぶ。
ちなみに閾値以上の吸血の後、本来必要とされる手続きを終了することなく試みを中断した場合、標的は夜魔へと転成することはなく、浅ましき悪鬼=屍人鬼に成り果てる。
夜魔の吸血が標的に与えるのは、まずめくるめく官能、次に獲物を穿つ牙であり、人類の限界を超える身体能力、不完全な不死性までが含まれる。
だが、与えられるのはこれら種としてのメリットばかりではない。
続いて襲い来るは、それら特典に伴う業苦。
絶望的な飢餓感。
つまり血に対する狂おしいほどの欲求、吸血への目覚めが対象を苛む。
そして、その飢えを一番最初になにで潤したか。
運命の岐路はそこにある。
血の渇きに抗えず、母の乳を求める赤子がごとくすがりついてくる未来のパートナーを、親たる夜魔は己の手首や指先ごく稀には乳房や首筋から自らの血液、いわゆる夜の血を与えて癒す。
この血の授受によってようやくヒトは夜魔として認められ、夜の門を潜り、ともに永遠の刻を生きることを許されるようになるのだ。
だが、このとき飲み干された夜の血は、それだけで目覚めるわけでは実はない。
血の持ち主である夜魔が励起を命じることによって、ようやくそれは覚醒を果たす。
つまり転成の成否を決めるのは、あくまでも自らの血を与える親の側の思惑次第。
夜魔たちはそうやって上下関係や、夜魔としての躾けを行う。
もっとも親たる夜魔が自ら進んで血を分け与えた時点で、彼ないし彼女を同胞として迎える決意は固められていることがほとんどで、あえて出来損ないを生み出すことはまずあり得ないわけだが……。
ともかく血を分け与えることと、夜魔としての覚醒が起きることは同義ではない。
余談になるが、最初に与えられた血潮の質と量に、転成後の夜魔の《ちから》は比例する。
たとえば自らに等しい《ちから》を持つパートナーを欲するのであれば、親である夜魔は己の体内に流れる血の過半を、ときには肉体の一部、重要な臓器までもをも差し出して与えねばならない。
それは不死者である夜魔といえど大変に危険な試みだ。
一時的に、いや悪くすれば恒久的に自らを損ないかねない。
支払うべき代償をどんなにすくなく見積もっても、重度の血の渇きに襲われることだけは間違いない。
さらに言えば急激に遅い来る飢餓を潤す手段は、いましがた自ら血潮を分け与えたはずのパートナーその人の捕食である可能性が極めて高いのだ。
周到な準備なくしては、決して試みてはならぬ儀式。
さもなくば、我が子に等しい存在とすべく己が血潮を分け与えた直後、彼・彼女を、その手で貪り食うことにすらなりかねない。
それは他者の血液を糧とする夜魔にとってさえ、想像を絶する苦痛であり、悪夢そのものだ。
記憶は決して癒せぬ傷となり、下手をすれば永劫の狂気に囚われかねない。
これが夜魔にとって転成の儀が神聖なるもの、みだりに行ってはならぬ秘義とされる所以であった。
ともかく以降、転成の対象となった者の体組織や臓器、そして血液は夜魔のそれへと置き換えられていく。
時間にして月の巡りが一周する間に、変貌は順を追って起こる。
その間、パートナーとして選ばれた対象は、ヒトと夜魔の間に位置する黄昏を歩む者となる。
半不死の肉体と牙を備えながら、親である夜魔に導かれて徐々に夜を指向する。
その過程で親たちは新参の仔らに、夜の貴族としての教育を与えるのだ。
このように真の夜の一族を生み出すのは、全人類にその不死生と強大なる戦闘能力を持って恐れられる夜魔にとってさえ、容易なことではない。
屍人鬼を生み出すような片手間の戯れでは、それはないのだ。
得るためにはまず与えなければならない、という法則性がここでも働いている。
そしてシオンが試みた白銀の結魂は──己の臓腑と血液とを代償に捧げるあの秘蹟は──ほぼひと月かけて完遂されるはずの夜魔転成のプロセスを手順を省略して一息に行うに等しいものであった。
白銀の結魂──かつて聖剣:ローズ・アブソリュートの使い手であり己の真の理解者であった騎士:ルグィンを失った経験が、その後悔が、本来であれば癒やし手の技を身につけることができないはずの夜魔の姫をして、この超技を習得させた。
しかし他者の死を覆すという、ある意味で究極的な時間遡航の効果を持つこの異能には、想像を絶する副作用があることをそのときのシオンは知らなかった。
彼女がそれを自覚するのは、初めてに白銀の結魂を用い、アシュレの命を繋ぎ止めるのに成功したその直後のことだ。




