■第三八夜:夜魔の姫の秘策
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「妹どもめ、なんとか聞き分けてくれたようで助かったぞ」
それでもようやっとで、という感じだが。
だれに聞かせるというふうでもなく、シオンがそう呟いた。
その言の通り、ここにはもう妹たちはいない。
なぜそうなったのかは、これより明らかとなる。
ちょうどイズマたちがイプセムの街の防衛に成功していたころの話だ。
視線を周囲に巡らしそこにもう人の気配が絶えたことを確認して、無言のままシオンが微笑んだ。
ようやく本筋に入れるな、とばかりに。
曖昧に頷いて見せることぐらいしか、アシュレにはできない。
かたわらに立つ夜魔の姫の全身から、バラが強く香ったからだ。
知っての通りシオンの体液、特に血潮は青いバラそっくりの芳香を放つ。
だからそれ自体は珍しいことではないのだが……アシュレはいまそのすがすがしい薫りを、ことさら鮮烈なものと感じた。
眼前にはべる夜魔の姫が、肌もあらわな薄絹姿であったこととも、きっと無関係ではなかっただろう。
いつかカテル島へと向かう船のなかで見た、あの夜の装い。
割り当てられた貴賓のための船室で、アシュレを出迎えたシオンは、そのあまりに無防備な姿でヒトの騎士を慌てさせたものだ。
あの日と違っていたのは、いまやその裸身をこれまで見たこともない種類の宝飾品群が無数に彩り、純白の肌を覆い尽くす勢いで飾り立てていたことだ。
歪な甲冑を思わせてちりばめられた悪趣味なほどに豪奢な品々は、いったいどういう仕組みで組みついているものか理屈のわからぬものばかり。
絡まり合う触手や異形の蟲、吸盤を怒らせ張りつく頭足類や、皮下に口腔を潜り込ませようとする軟体生物などを模したデザインは、優雅さよりもむしろ生理的嫌悪を掻き立てる。
瀟洒を好み、華美を嫌うシオンの趣味とは、ほど遠い装い。
その醜悪さは、夜魔の姫が見せる憂いとも恥じらいとも取れる微かな苦悶とも相まって、嗜虐的な官能に見る者を駆り立てる。
剥き身のゆで卵のようにすべやかで染みひとつない肌と、異形の宝飾群のせめぎ合いは、夜魔の姫の裸身を版図に見立てた光と闇の闘いと見立てることもできた。
もっともそのたとえでは、光の側は劣勢を強いられ、難局は覆し難いほどに追いつめられているということになるわけだが──。
侵されゆく聖域という言葉が連想された。
端的に言えば、その美は退廃的であったのだ。
一方、かたわらに立つアシュレの口元には、どういうわけか血の痕が見て取れた。
丁寧に拭う努力こそされてはいたものの、見る者が見ればそれが血液の残滓であることはごまかしようがない。
なにより唇の端から匂い立つのは、夜魔の姫と同じバラの薫り。
そういま強く香っているのはアシュレの口腔、飲み下されたシオンの血そのものであった。
それが胃の腑から立ち昇る香気となり、ヒトの騎士を陶然とさせる。
アシュレはつい先ほどシオンの首筋に牙を突き立て──その血潮を心ゆくまで味わった。
それはシオンが目覚めさせた新たなる側面、夜魔としての覚醒が引き起こした事件だった。
よく聞いてくれ、と次元間宝物庫である影の包庫の内部から、自らのコレクションらしき宝飾品の群れを持ち出しつつ、シオンは告げたものだ。
「アシュレ──わたしはたったいまから、そなたを夜魔の王に仕立て上げねばならぬ」
次の瞬間、反感を隠そうともせず立ち上がったのは妹たちだった。
一斉に弾かれたように反応する。
実際、真騎士の乙女たちふたりは、一メテルも飛び上がった。
「なんてことを!」
「ありえませんわ!」
「そんなこと! シオン姉!」
などと口々に叫びながらある者は駆け、ある者は文字通り飛んで殺到し、夜魔の姫が捧げ持つ大ぶりな木製の盆を奪おうとした。
ビロウドの敷布の上に鎮座する数々の品こそが、夜魔転成を可能とするアイテムではないのかと疑ったのだ。
なるほどその目利きは悪くない。
なぜならそれら宝飾群は見るからに悪辣な姿をしており、禍々しきオーラを放っていたからだ。
断固としてその使用を阻止せねば、と妹たちは反射的に、しかし思いを同じくして行動を起こしたというわけだ。
けれどもシオンはそれを許さなかった。
夜魔の姫の瞳が赤く染まると同時に、みしり、と空間が軋むのを妹たちは聞いた。
実際にはそれは空間がひしいだのではなく、妹たちの肉体が硬直して立てた筋肉の悲鳴──シオンが夜魔の魔眼の異能を用いたのだ。
本気を出せば心弱き者の自由など簡単に奪うことのできるシオンの視線に、直に晒された妹たちには為す術などない。
伝説にある蛇の一柱:ヘリオ・メデューサの凶眼に睨まれたように、四肢の動きを奪われ硬直する。
改めて夜魔としてのシオンがどれほどに強力な存在であるのかを思い知り、妹たちは震え上がった。
一方、自らの視線の威力で外野を黙らせたシオンは、これ以上の邪魔立ては入るまいと判断したのだろう。
瞳を閉じ魔眼の呪縛を解きながら、アシュレに語りかけた。
「アシュレ、どうか落ち着いて聞いて欲しい。実はそなたは、すでにわたしが決意するだけで夜魔として覚醒する状態にある。難しい手技や、これら……ここに持ち出した品々の《ちから》を借りるまでもなくだ」
そなたを夜魔へと転じせしめるにはただひとつ、わたしが《ねがう》だけで事足りる。
夜魔の姫は、自らが持ち出した宝飾品の数々に視線を走らせながら言った。
その告白はすでに衝撃的と言うべきものであったが、さらに続きがあった。
硬直する妹たちを退け、さらにつまびらかにする。
すなわち彼女自身が組み上げた今次作戦の最重要部分。
封都:ノストフェラティウムを抜き、王都:ガイゼルロンの中心にして大公:スカルベリの居城=イフ城の玉座へと至る手だてを。
だから聞け、と今度は妹たちも含めた全員に向けて言い放った。
「これこそが我が秘策。巡礼者の道を遡り、封都:ノストフェラティウムを潜り抜け、夜魔たちの王都:ガイゼルロンはその中心、夜の城:イフ城へと至り、我らが本懐──その最深部に居座る夜魔の大公:スカルベリとの一騎打ちを可能にするもの」
すなわち、
「すなわちアシュレ、そなたを夜魔の大公にも匹敵する夜の王へと転じさせることが、この計画の最重要課題なのである」
この夜魔の姫の宣言に、声を上げる者はいなかった。
妹たちはシオンの魔眼に恐れを為したからだが、焚き火を前に座したまま身じろぎひとつしなかった騎士からさえ、ひとことも。
ただその沈黙は、それぞれにおいて、ハッキリとその種類を異とするものであった。
真騎士の妹ふたりのそれには激しい混乱とともに──頑なな拒絶が見て取れた。
それは決して承服できるものではない、という意思表示。
魔眼によって強制的に反論を封じられたことへの不満からだけではなく、シオンが提示した策に対する強烈な忌避感がそこにはわだかまっていた。
キルシュとエステルのふたりがアシュレに向ける思慕・恋慕の感情を差し引いたとしても、人間の英雄を導き彼との間に子孫を残す真騎士の乙女の本能からすれば、これは当然の反応である。
片や半夜魔の妹の全身からは戸惑いが──自分のなかを流れる夜魔の血に訴えかけるものを隠し切れない動揺、狼狽が窺えた。
それは相反するものの間で板挟みになり、葛藤する表情。
もしかしたらアシュレがより自分の側に来てくれるのではないのか、という淡い期待とともに、そんな希望を抱いてしまう無責任でふしだらな欲望への罪の呵責に、スノウは震えていた。
真騎士の乙女たちのように素直に怒れない自分を恥じていたのだ。
そして最後のひとつ。
当事者たるヒトの騎士の瞳には──理解とも諦念ともつかない深き淵のごときものだけがあった。
静かな波ひとつない湖面のような、どこまでも深い心の色。
あるいはアシュレ自身、こうなることを半ば予想していたのか。
揺らぐことのなく注がれる視線からは、あらゆるものを受け止めようという包容力さえ感じられた。
そして、それら種類の異なる沈黙をどう捉えたのか。
向けられる三種類の注視を受けながら、ただひとりヒトの騎士だけを見つめ返し、夜魔の姫は語りを再開した。
己がこれから犯す罪に脅えるように自ら両肩を抱きしめ、しかし昏い決意の炎をその瞳に宿して。
さて連載を再開いたしました。
気がついたらなんかスゲー時間が経ってて、呆然としましたが、まだまだ全然途中を書いてます!
とりあえずあるところまでを更新して参りますー!
どうぞよろしくですー!




