■第三〇夜:真の主
ゴツンッガロリッ、と重たい金属塊が石畳に跳ね擦れる音がした。
サイズが合わず斜めかぶりにされていた宝冠:アステラスが、夜魔の姫の頭頂から転がり落ちたのだ。
「シオン姉!」
「シオンさま!」
「姫さま! 夜魔の姫さま!」
ヒトの騎士に抱きかかえられ身を横たえた夜魔の姫は、すぐに意識を取り戻した。
意識を失っていたのは一秒に満たない時間。
思わず駆け寄ってきた妹たちの頭を震える指でかいぐり、愛しげに撫でてやる。
「おや、わたしは倒れたのか。わたし自身が心から望んでしまったから、改変に歯止めが効かなくなったのだな。ふふ、精神を護る宝冠:アステラスをもってしても《魂》の経路の造営と、それが生み出す衝撃には抗えないというわけか。もっともいまのわたしは……いや最初から宝冠:アステラスの正式な持ち主ですらないわけで、当然といえば当然であるのだが」
うわごとのようにそう言い、シオンは頭頂から転がり落ちた冠を指さした。
「拾ってくれるか、アシュレ」
「ああ、大切な宝冠だからね」
アシュレは言い、うやうやしく夜魔の大公の証でもある冠に手を伸ばした。
常識的に考えれば、《スピンドル能力者》であろうとなかろうとおおいにためらうところだが、アシュレには一瞬の逡巡もなかった。
個人適合化の済んでいない《フォーカス》が、所有者以外に触れられたとき手酷いしっぺ返しを喰らわせることは、寓話として語られるほどに広く知られている。
良くて切り傷や手酷い火傷、最悪の場合、命を落とすことがあるほどに《フォーカス》の試練は苛烈なことで有名だった。
だが、現世に存在し得る《フォーカス》のなかでも最高位に座するであろう宝冠を前にしても、アシュレには怖れるところなど微塵もなかった。
そっと重い宝冠を手に取ると、床面から持ち上げ、所有者であるシオンの頭頂に被せてやろうとした。
宝冠の方にも、ヒトの騎士を拒むそぶりすらない。
だが夜魔の姫はゆっくりと、しかし断固たる態度で首を振り、これを断った。
かわりに自らの胸乳にそれを導くと、両の手に持ち直す。
それをそのまま持ち上げる。
さあ、と促す。
いまもまだ自分を抱きかかえ護り包み込んでくれているヒトの騎士へに。
宝冠を本当の所持者に捧げるために。
夜魔の姫の行い、その意味するところを察してアシュレは嘆息した。
これまでの一連の説明に対し、完全なる理解へと達した男の顔で。
「ボクにそれを戴け、とそう言うのだね、シオン?」
「ああ、そうだアシュレ。というか、ここまで長々と説明させて……そなたはわたしの考えなど、ほとんどお見通しであったのだろう?」
「それは買いかぶりすぎだよ」
アシュレは首を振った。
確信に至ったのは、たったいまだったからだ。
「シオン、キミはこう言うのだね。ボク自身に真の主になれ、と。宝冠:アステラスを戴いた本物の所有者──アステラスだけではなくシオンきみ自身の──になれと、そう言うのだね」
それこそが封都:ノストフェラティウムを攻略し、無事にガイゼルロンへと至るための唯一の方策だと。
ヒトの騎士の推論に、夜魔の姫は満面の笑みを浮かべた。
「満点だアシュレ」
それから訊いた。
すこしだけ真顔になって。
アシュレが極めて真剣な眼差しで、シオンを見つめていたからだ。
「まさかだが、嫌だったりするのか?」
「そうじゃあない。そうじゃあなくて逆だよ、シオン。つまりきみはいまボクにこう言っているんだ。ボク以外のことを考えられないようにしてくれって。アステラスの護りを失ったきみは、もうジャグリ・ジャグラによる改変を押さえ込むことはできなくなる。つまりそれは、」
わたしを支配して、と言い換えてもいい。
「さっきボクが口にした決意。それを早速にも実行せよ、と」
そう言葉にした瞬間、膝枕の上で夜魔の姫の頬がバラ色に変じていくのをアシュレは見た。
無言でシオンが見つめ返してくる。
「さすがに、できないか? ……嫌か?」
「そうじゃないとさっきも言った。逆だとも」
「では、」
どこか追いつめられたように性急ささえ感じるシオンの口調に、アシュレはまた首を振った。
そうじゃない、そうじゃないんだ。
「そうじゃあなくって、恐いんだボクは。きみを尊厳を踏み躙る覚悟がない、って意味じゃない。無理やりにもそうする決意ならとっくに固めたさ。けれどもきみがボクを怖れさせるのは、許すからだ。むしろそうしてくれと懇願するような目で見るからだ」
ボクにだって性欲や征服欲があること、支配欲があることは、きみはよく知っているはずだよ。
それなのに、
「そんなことを許されてしまったら──本当の意味ですべてを捧げられてしまったとしたら──ボクはきみをどうしてしまうかわからない。どんなにしてしまうか、わからないんだ。メチャクチャに……取り返しのつかないことをボクはきみに強いてしまう。必ずだ。歯止めが効かなくなって、必要以上の許されざる改変をきみに……」
それ以上を言葉にすることは騎士にはできなかった。
第三者の、それも複数の、妹たちの耳目を相手に恥じたからではない。
限りなく優しい目でシオンが微笑んでいたからだ。
まるで初恋の相手から告白を受けた乙女のように。
参ったな、とうめいたのはアシュレのほうだった。
「それ以外にはない、ってきみは言うんだな? この封都:ノストフェラティウムを潜り抜けて、ガイゼルロンに攻め込むにはこれ以外の方策がない、と。いま襲い来る未曾有の危機から人類世界を救うには、きみをボクのことしか考えられない隷下に──本物の《魂》の下僕として扱うしかない、と」
努めて真剣な態度を崩さず、ヒトの騎士は続けた。
「つまりきみは、ボク自身の精神を宝冠:アステラスの真の《ちから》で護りながら、きみのなかに流れる純潔の夜魔の血を求め迫りくる眠らぬ悪夢の魔手から、ジャグリ・ジャグラの支配力でもって上回り、これをいなせ、とそう言うのか。書き換えられそうになる端から、ボクへの想いを焼き付けて上書きしろとそう言うのか」
「そうだ、アシュレダウ。夜魔の姫であるわたしとヒトの騎士であるそなたとが無事にこの局面を切り抜け、本懐を遂げるにはこれしかない」
わたし自身をそなたの完全な道具にしてしまうしかない。
「本来その宝冠を受け継ぐべき夜魔の姫としては、忸怩たるものがないと言えば嘘になるが……宝冠:アステラスがそなたを真の主と認めていることは、動かし難い事実である」
そして事実は事実として受け入れなければ、そこに進歩はないだろうよ。
夜魔の姫はそう言いながら、アシュレの手に己の指を添えた。
さあ戴冠のときだ、と。
期せずしてふたりの手は震えている。
ひとつは夜魔の姫への強過ぎる想いが引き起こすであろう、これから先の己の所業に。
ひとつはヒトの騎士からの圧倒的な蹂躙を「望んでいる」と、自ら口にしたことに。
「ここに来る途中で取り返しのつかないことになる、ってきみが怒っていたのはこのことだったんだな。ボクたちはいままさに一線を踏み越える。そうなったら自分にはもう自由はなくなるって、そういう意味だったんだな」
「この戦いを切り抜けて、そなたが飽いたなら野に帰してくれてもよいのだぞ?」
「そんなことができるほど、ボクは聖人君子じゃあないぞ “叛逆のいばら姫”」
こんな愛の告白があるだろうか。
大罪を犯すことを決意するように苦悩を面顔に浮かべるヒトの騎士の膝の上で、初恋を成就させた乙女そのものの表情で夜魔の姫が口元を綻ばせている。
アシュレはシオンの願いを叶えてやるしかないのだと理解した。
「ただ……なんだけれど」
「うん? なんだここまで来て、まだためらうのか?」
「そうじゃない。そうじゃなくて……きみとボクがどうするのかについては理解したし、腹も括った。もう絶対きみを自由になんかしたりしないし、ボクのことしか考えられないようにする。お望みのようにメチャクチャにする。そこまでは決めたよ」
「言ってくれるではないか。最上級の愛の告白と受け取ったぞ」
では、なにを戸惑っている?
心底不思議そうに問われ、思わずアシュレは周囲を見渡した。
そこにはシオンとアシュレの間で交される濃密な信頼と愛情のやりとりから、目を逸らすことができなくなってしまっている妹たちがいた。
ある者は目を覆った指の間から、ある者は紅潮を止められない頬の火照りを冷ますように両手で顔を挟み込んで、ある者は口元を押さえ荒くなっていくのを止められない呼吸を悟られぬように、必死で隠そうとして。
そしてその様子に、たったいま気がついたという様子で、シオンが嘆息した。
「そーだったな。そなたらがいたのであった」
これからがいいところだったのに、と不機嫌そうに言って身を起こす。
アシュレに上半身を預けながらおざなりに聞いた。
そっぽを向き、じつに不機嫌げに、妹たちに。
「それで。ここまで聞いて、そなたらはそれでも行くのか。我らとともに来るのか」
あきらかに止したほうがいい、と言わんばかりの態度であった。
ふてくされたネコのように瞳を半開きにして鼻を鳴らした。
妹たちはそれぞれで顔を見合わせる。
「それほどまでに危険、なんだよね?」
訊いたのはスノウだった。
「姉ですら……この世界最高の夜魔の姫=“叛逆のいばら姫”ですらそこまでのことをしないといけないくらいに危ないんだよね? ここから先は」
「そなたいままでなにを聞いていたのだ?」
これまでの流れを根底からまぜっかえすようなスノウの問いに、シオンは額に手をやり盛大に溜め息をついた。
「これまで話した通りである」
「逆に聞きたいんだけど、わたしたちを連れていける方策ってあるの? このお話は、なんとかしたら連れていってもらえるものなの?」
一瞬、スノウとシオン、精神の姉妹の目がかち合った。
片方は不安と怖れに揺れ、片方は呆れたように半開きの。
そこな、と言葉にしたのはシオンだった。
「そーだった。そなたらの関心事はそちらだったな」
「えっと……それは……うん。姉は最初からやり方を思いついていたから、この作戦を立案したんだろうけれど、わたしたちにはほら……そういうのないから……」
ジャグリ・ジャグラとかそういうのは。
「だからなにか別の手段があるのかな、って。ここまでの話の流れから……難しいけれどもなにかあるんでしょ手だてが?」
だから散々脅してきたんだよね? スノウは問うた。
「残念だが、まともに考えればない」
しどろもどろだが、だからこそ内心の期待を隠し切れないスノウに、シオンは即答した。
えっ、という驚きの声は妹三人全員から上がった。
「ない!?」
「ないんですの!?」
「それじゃあ、なんのためにいままでわたしたち、散々泣かされてきたの!?」
「やかましいなあ」
三方から同時に詰め寄られ、シオンはますます不機嫌の度合いを高めたようだ。
本当はアシュレの受諾を受けて、すぐにでも封都:ノストフェラティウムへ向かう算段だったわけで、それはまあ当然であろう。
「もちろんそれはそなたらの覚悟と真意、その意向を確かめるためだ」
「でも方策がないんでしょ?!」
「です!」
「ですわ!」
「そなたら話はキチンと聞け。まともに考えれば、と言ったであろう、わたしは」
「まともに?」
「じゃあ……まともでなければあるってことですの?」
かしましく詰め寄ってくる小鳥や瓜ふたつの顔をした妹を払いのけながら、シオンは答えた。
極めて不機嫌げに、極めて不本意ながら、という態度で。
「あるとも」
「あるんだ!」
「あるんじゃないですか!」
「ありますのね!」
そなたら……。
と喜色満面で互いの手を取り合う妹たちにシオンは本気で呆れていた。
「どういう方策ですの?」
「教えてシオン姉」
「聞きたいです聞きたいです」
あのなあ、といい加減疲れたのか、ぐったりとアシュレに全身をもたせかけたシオンが嘆いた。
どういうわけか、その瞳には恨みがましげな光があって、目が合ったアシュレはまるで自分が責められているかのような気分を味わった。
「まともではない、と言ったのを憶えているか。それとわたしとアシュレの先ほどのやりとりも」
ジャグリ・ジャグラの話な?
「えっ、うん?」
「あっ、はい?」
「憶えて……いますわ?」
「ではそういうことである」
うんざりしたように告げた姉の真意が、妹たちには伝わらなかったようだ。
「どういうこと?!」
「わかりま……せんわ?」
「教えてシオン姉」
ぎゅう、とシオンがアシュレの手をつねったのはこのときだ。
いきなりのことだったので「痛ったッ?!」とアシュレは叫んでしまった。
手袋の上からだったのでよくわからないが、その下は間違いなく痣になっているはずだ。
「なに、どういうこと?!」
訳がわからず問い質せば、これまで見たこともないような恨みがましい視線を送られた。
ますますアシュレは混乱する。
するしかない。
「話してわからん者には見せるしかあるまい。決断したらもはや戻れぬ試みだしな。そなたら、それだけは肝に銘じておけよ?」
「ちょっ、シオン!?」
驚くアシュレの腕のなかから跳ね起きたシオンは宙を舞い、焚き火の向こうに着地した。
「いいか妹たち……そなたらの人生はここで終わったものと覚悟せよ」
腕を振り抜く。
すると背後の闇が、ばくり、と口を開いた。
夜魔の血統のみが可能とする異能:影の包庫。
“叛逆のいばら姫”が自らが所有する移動式宝物庫の門を開いたのだ。
ここまで燦然のソウルスピナをお読み頂き、ありがとうございます。
諸事情により明日の更新は延期させて頂きます。
原稿そのものはまだあるのですが、このあとに外部状況などの展開を挟みたく思いまして、現時点で一旦、連載を休止させて頂きます。
まあ休止といっても構成の仕立てを直すだけですので、あまり長くはお待たせしないものと思われます。
ときどき覗いていただければ、年内にも更新再開してるのではないでしょうか(あくまで未定)。
ではどうぞ、よろしくお願いいたします。




