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■第二七夜:そは身の内より来りて


         ※


「さてそれを踏まえた上で、ここから先に進むには覚悟が必要だ、という話をしたな?」


 憶えているか、妹たち。

 夜魔の姫は厳かに訊いた。


 どこからともなく吹いた風が門のそこここで唸りを上げ、悲鳴じみた残響がアーチ天井にこだまする。


「これまでの話で理解できたであろう。この先に潜むのは自らの在り方を失った高位夜魔の成れの果て。暴走する本性イドの怪物──その最終形態だ」


 つまり、と夜魔の姫は指を振り立てた。


「この先に封じられている怪物どもは端的に言って狂っている。心が壊れているだけではない。記憶の暴走が引き起こす身体再建能力の暴発が、彼らに歪な変異を強制するのだ。しかもそれが常態ですらある。どの時間の自分を参照すればいいのか、指示する者が己の内部に居ないから、パニックが起きる。時制的にも狂っていると言えば伝わるか? 極めて不安定で辻褄も合っていない。眼前で突然、メチャクチャに無作為アトランダムに変容する。し続ける。言動も、その肉体そのものも」

「それって危ない? 危ないんだよね?」

「これまで幾度もそう言ったな」

「でもそれでも、ねえがこのルートを選んだってことは、こっちの道の方がマシってことなんだよね? 雪山を夜魔の騎士たちに脅えながら進むより成功確率が高いってことだよね?」


 そう尋ねたスノウに対する姉の答えは、しかし、妹がした質問の意図とは微妙に異なっていた。


「もちろんだとも妹よ。勝ち目はこのルートにしかない。しかし、その危険性はあるいはガイゼルロン全軍とスカルベリを同時に相手取るよりも上かもしれぬ。その意味ではこの道は最悪の選択であるとも言えるわけだ」

「えっ?!」


 じゃあなんでこの道を選んだの?

 そういう顔をスノウはした。

 キルシュとエステル、ふたりの真騎士の妹も。

 やれやれ。

 シオンは溜め息をついた。


「それはその危険性のの方に理由がある。あの都、封都:ノストフェラティウムに封じられている者どもは、もはや直接的戦力とか火力という意味ではほとんどない、脅威にならぬ者どもだ」

「あれっ、そうなの? 夜魔のなかに潜む、本性イドの怪物の最終形態なん……じゃ? でもじゃあそれはどこが危険なの? ガイゼルロンの騎士たちと比べて」

「そのふたつを比べることに意味はない。脅威度の方向性がまるで違うからな。眠らない悪夢たちは、言うなれば踊る影なのだ。かがり火が牢獄の床面や壁面に生み出す影絵はたしかにそこにあるが、どんなに恐ろしく見えてもいまを生きる人間の実存にその手で触れることはできないだろう? それと同じさ」


 記憶に喰われ同化していく過程のなかで、ヤツらの肉体は徐々にその実存を失い色や厚みを失っていくからだ。

 ただ、


「ただ、奴らが影絵と違うのは、連中の様相を変えるのは燃え盛る炎のありようではなく、自分自身の狂った記憶だということだ。骨にまで食い入った狂気の記憶。元が夜魔である以上、奴らはそれから逃れることは決してできない。それどころか自分自身がその狂った牢獄そのものなのだ。自らが監獄である以上、脱獄することは永久に叶わない……悪い冗談のようだが」


 そなたら、とシオンの語りを聞いても脅威の質の違いがわからず、眉根を寄せたスノウと真騎士の妹たちに対し、夜魔の姫は向き直った。

 どう危険か、わかるように説明してやろう、と。


「たしかに奴らの肉体はすでに希薄であり、それをもって生者を直接に傷つけることは難しい。だがそれをもって奴らが脅威にならない、という意味ではない」


 よいか?


「たしかに奴らは、いまを生きる者の肉体には直接的な害は及ぼせないと、わたしは言った。言ったな?」

「う、うん。たしかにそう言ったよ」

「だが心は違う。心は、特に過去はヤツらの領域だ。なぜって記憶や追憶は過去に属する現象であろう? そして奴ら、眠らない悪夢たちの手と舌はその記憶に作用するのだ」

「心。記憶……に?」

「そうだ。やつらはそういう種類の怪物。啜る。記憶を。長く不潔な舌を耳朶から心のひだに差し込んで、羽虫が花の蜜をそうするようにこそぎ取る。そして……できた犠牲者の心のがらんどうに、己自身を流し込む」


 メチャクチャに変異を繰り返しながら列を成して迫り来る悪夢の群れが、

 流行り病のように心に触れて、

 その汚らしい指と舌とが記憶のひだを舐め回しては、引きむしり、

 蜜のように甘やかなそれを、啜りこそいで玩味して、

 その返礼とばかりに己の狂気をねじ込んでいく!


 まるで歌うように、舞いを踊るように、艶めかしくもおぞましい悪夢どもの指と舌とを手の動きで再現するシオンの語りは、その脅威をまざまざと恐るべきリアリティを持って妹たちに想起させた。


 心をねぶり上げる舌の動きを表した指の仕草を見れば、これまで考えたこともない種類の怖気おぞけが足下から這い登ってくる!


「それはもちろん人間をはじめとする他種族にとってさえ危険極まりないものだが──その真なる脅威は、記憶に依拠して生きる夜魔にとっては、さながら生ける地獄と言ってもよいほどに剣呑なものとなる」


 道を誤ればそちらに堕ちてしまうであろう内なる魔性を、その面顔おもてかんばせに浮かび上がらせながらシオンは言った。


 もともと地獄とはイクス教の聖典にある生前罪を犯した人間が落とされる場所のことだが、その実在を証明した者は人類圏にはいない。


 しかしシオンの言う生ける地獄は現実のものだ。

 なんなればこの門の先、結界の薄皮一枚を剥ぎ取るだけでそれと相対することができる。


 証明してみるか?


 と、シオンにそう問われたようでスノウは竦み上がった。

 ごくり、と喉を鳴らしてつばきを呑む。


「ねえシオンねえ、もし奴ら──その眠らない悪夢に夜魔が触れられたらどうなるの? ううん夜魔でなくても。たとえば……わたしは?」


 自らのなかに潜む怪物について、ここまで散々指摘されてきたスノウの脅えは、当然と言えば当然のものだ。

 そんな義妹に、姉はゆっくりと答えた。


「眠らない悪夢に自らの記憶を啜り取られ、あげくに奴らの記憶をねじ込まれてしまった者は、まず発狂に至る。程度については、どれほど記憶を啜られたか、どれほどねじ込まれたかによるであろうが」


 しかし、何度も言うように夜魔の場合はさらに深刻だ。


「その場合、自らの記憶と悪夢が癒着・結合して同じく悪夢そのものになる。記憶の時制がおかしくなって制御が失われて暴走。奴らの一部になるか……最悪、自らが新たなる悪夢の真祖となる」


 心が壊れるまで地獄を味わい、心が壊れてからは自らそのものが終わらない地獄となるというわけだ。


「たとえばもしスノウ、そなたが眠らぬ悪夢どもの手に落ちたなら……そなたは歴史に新たなる頁を記すことになるであろう。恐らくはこのレルムが成立して以来、だれも体験したことのない趣向を新たに盛り込むことになるわけだ。それはそれはそれで……なかなかの見せ物だとは思うぞ」


 低く笑う姉に、たとえ冗談であっても、とても頷くことなどスノウにはできない。

 返答の代わりに、穴が空くほどシオンを凝視する。

 信じられないことを聞いてしまったという顔。


「癒着・結合って……悪夢そのものに取り込まれて自ら悪夢に成り果てる、って。新しい趣向って……それ冗談、冗談なんだよね? いくらなんでも、そんなのできないよね、ありえないよね? わたしたちを脅かして追い返そうっていうねえの魂胆なんだよね?」

「そう思うか?」

「嘘、なんでしょ?」

「であれば、これほど楽なことはなかったのだがな」


 諦め顔で溜め息をついたシオンに、スノウはこれまでの話はすべて真実なのだと思い知らされた。


「ほんとに……ほんとうにそうなっちゃうの?」

「なぜわたしがここで嘘をつくと思うのか」

「そんな。そこを……そこに行くわけ? いまから?」

「いままで懇切丁寧に説明してきたのはなんのためだ? それでなくとも人類世界の危機なのだぞ? 密航者を追い返すのに回りくどい策など弄しているときではない」


 宝冠:アステラスをかぶり直し語るシオンの瞳には、すでに先ほどまでの物憂げに曇った色はなく、怜悧な《意志》の輝きだけが宿っていた。

 その冴え冴えとした光に射ぬかれ、スノウは逆に震え上がる。


 先ほどのやり取りで熾しなおしたはずの勇気の炎は、すでに風前の灯火のように揺らいでいる。


 怖い、怖いのだ。

 自らの意志とは関係なく、引きつけを起こしたように呼吸が荒くなるのを止められない。

 勇気を振り絞ったとしても、それだけでは覆せないカタチある恐怖と狂気が、厳然としてこの先には待ち受けているのだから。


 そしてそれは己自身の内側に潜む、怪物としての自分の本性への根源的な恐れでもある。

 自分の中身がどんなものなのか、ふつう人間は直視できない。


「記憶の狂気に負けたら、生ける地獄に……なる。ほんとにされちゃう……んだ?」

「そうだな。先ほども言ったが、そなたは古き夜魔の血も濃く引いておる。わたしの次に標的になりやすかろう。高位夜魔としての訓練も受けてこなかったそなたでは、わずかな抵抗もままなるまい。眠らぬ悪夢どもの舌と指は、完全記憶と夜魔の血に対して極めて高い親和性を持つ。そうなってしまったら繰り替えされる過去の虜となって、永劫に醒めぬ悪夢の贄となるほかあるまいな」


 どこか愉悦すら感じさせる口調で言う姉に、妹であるスノウは泣かされる直前だった。

 そんな妹の心中など察した様子もなく、夜魔の姫は言うのだ。


「まさに永劫を生きる夜魔のための地獄──我ながら的を射た表現だと思わぬか?」

「そんな……じゃあそんなの無理じゃん、突破できないじゃん! だったら……いったいどうやって潜り抜けるつもりだったの!? この地獄を、封都:ノストフェラティウムを、巡礼者の道を! 見せてよ──そんなものがあるならいまここでッ!」


 意地悪な笑みを浮かべるシオン相手に、ほとんど逆ギレぎみにスノウは叫んだ。

 スノウがこんな行動を取るときは、自分の感情を上手く制御できなくなっている合図だ。


 だが感情的になった義妹の問いかけを、我が意を得たりとばかりにシオンは受け止めた。


 微笑む。

 それから見せた。

 言葉ではなく行動で。


 どうやってこの地獄を突破するのか。

 その答えを。 


 それは夜魔の姫の内側から来た。



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