■第二六夜:希望は星のように遠くとも
「我ら夜魔の本性の怪物は記憶のなかで育つ。長い年月をかけて。さながら迷宮のごとく複雑化していく心の昏い森のなかで。夜魔が長く生きれば生きるほどにだれとも共有できぬ記憶は積み重なり、その昏き森は複雑化する。さながら袋小路を思わせて。やがてだれにも……夜魔自身にも把握できないほど入り組んだ、記憶で編まれた迷図ができ上がる」
夜魔の姫の語りを、全員が焚き火を見つめながら聞いた。
シオンの一喝で正気を取り戻した妹たちは、毛布の上に一列に座り互いに身を寄せ合う。
「高位夜魔の肉体は皆も知るように基本的に不老不死だ。だがその心は違う」
老いるのだ。
歌うようにシオンは言う。
「わたしたち夜魔は過去の出来事や行いから逃れられない。なぜか? それはだれともその体験を共有できないからだ。完璧に再演可能な過去は現実となにも変わらない。それをほとんど永劫に己の身の内に保持し続ける夜魔は、ひとことで言えば閉じている。未来に対してだ」
だから、どこにも行けない。
変われない。
これは種としての宿痾と言っても良い。
「それはいつまでもわたしたちの血に巣くっていて、なんどでも繰り返す。まるで現在や未来のふりをして。ときに人間にもあるのだろう? 過去の出来事が不意に甦って愛しさや切なさに胸を掻きむしられたり、屈辱に唇を噛みしめたり、取り返しのつかない後悔に責め苛まされることが」
だれに向けられたものでもない問いかけに、アシュレは炎を見つめたまま首肯した。
その顔に去来する複雑な感情が、ヒトの騎士がここまで歩んできた道程を言い表していた。
そうもあろう、とシオンも頷く。
「だがそうやって過去が甦ったとき、人類のそれとは比べ物にならぬ衝動が夜魔には襲いかかる。なにしろ完全な記憶なのだ。それは過去そのものの再現と言ってよい。かつて起きた、出逢った人物や事件のそのままが、当時の息遣いを伴って突如として甦るのだ」
文字通り現実として。
そしてそれが過ぎたとき、
「夜魔たちは取り残される。こちら側の時間軸へ。つまり本物の現実に、だ。ただただ千々に乱れた心だけが置き去りにされて」
夜魔の姫の解説になるほどな、と呟いたのはアシュレだった。
そういうことか、と。
「なるほど、そういうことか。夜魔たちは、その心の有り様を決してだれとも共有できない。永劫の記憶の牢獄に囚われているときみが言ったのは、だからか。そしてさらに理解したよ。だからスノウにはまだ救いが、希望があるかもしれないとシオン、きみはそう言ったんだな。ボクがスノウの、魔導書の所有者であるってことだけじゃなく──」
夜魔の記憶は共有することはできないけれど、魔導書の記述は読み手とともに追体験できるから。
すくなくともボクが一緒に読んであげることで、スノウの過去を共有してあげることはできる。
「そして、そうすることで内に育ちつつある怪物を掌握することはできかもしれない。その痛みを共有してあげることだってできるかもしれない。だからシオンはそれを希望と呼んだのか」
アシュレの示す理解に、スノウが目を見開いた。
その瞳にはまだ脅えが見て取れるが、先ほどまでのような絶望的な空虚は拭い去られている。
先ほどまでの希望的観測からのものではなく、絶望を直視した上での可能性のことをスノウはやっと理解できたのだ。
その表情を確認したアシュレは、話を本題に戻す。
「だけど純血の夜魔はそうはいかない。きみたちがスノウのように書物として己の過去を確たる時系列に記録したり他者と共有できない以上、互いの理解は越え難き壁に阻まれる」
まずは他者との伝達の壁──そして時間の壁。
「いま体験しているものが過去の再演なのか、それとも本当の時間軸のなかで現在進行中の現実なのかを、キミたちに証明できるのは鏡としての他者だけなのに、その他者は夜魔を置いて先に逝ってしまうからだ。しかもその記憶だけを夜魔の脳裏に残して。それは夢のなかで出てきた羅針盤を信じて現実の航海を進めるようなものだ」
そんなことをすれば、船は必ず難破する。
「唯一の例外は夜魔同士の関係だけど……それが極めて難しいってことはもう説明されなくったってボクにもわかるよ」
なぜって、
「同じ狂気を抱えた相手を鏡に己を整えようとすれば、歪みはもっとひどくなるからだ」
ふたたび羅針盤にたとえるならば、互いが夢のなかで見たそれを信じて航路を定める議論をするようなものだ。
辿り着くのはどう考えても世界の果ての、終わりの海。
奈落に待ち受けるという怪物の顎門へと、真っ逆さまに落ちて行くことになる。
つまり、
「つまり、それが本性の怪物の正体なんだな。だれとも共有できない過去の記憶が複雑に絡まり合ってできた昏い森と、そこで育った怪物。その両方がきみたち夜魔の怪物の正体。そして夜魔の社会では、歪んだ心同士が合わせ鏡になって異常性を助長させる。それがさらに狂気を加速させていく」
ヒトの騎士の鋭い推察に、夜魔の姫は態度で肯定を示した。
そうか、とヒトの騎士はさらなる納得を得る。
「過去を思い出すことで狂ってしまう悲しい夜魔の物語は、人類圏にもたくさん残っているケド、まさか本当に怪物化の引鉄だったなんて」
「人間世界のお伽話に出てくる飢えた冬の怪物としての夜魔の姿は、たしかに我らの陥る狂気がモチーフになっている。過去に囚われ、なんどもなんども同じ過ちを繰り返す孤独な雪の城の吸血鬼。あれらは決して作り話ではない」
「子供向けの寓話に過ぎないとばかり思い込んでいたけど、なにが真実を語っているかはホントに分からないんだな」
アシュレは腕組みして唸った。
そんなヒトの騎士に「当然だが、」とシオンは手にした宝冠:アステラスの縁を指先でなぞりながら告げた。
いまのところは安心して欲しい、と告げるような口調。
「当然だが、高位夜魔は突然襲いかかってくる過去とのつき合い方を、親から教えられて学ぶ。ゆえにそうやすやすと狂気に落ちたりはしない。高位夜魔にとって己の本性の怪物を衆目に晒すのは、堪え難き恥であり屈辱なのだ。だから己の心の制御法を学び、その習得に励む」
「おもしろいな。もうすこし詳しく……いや、失礼」
夜魔の姫の口から語られる夜魔の生態に、不謹慎とは思いつつもアシュレは魅かれるものを感じてしまう。
好奇心が騒ぐのを止められないのだ。
法王庁的には異端的と咎められる気質だが、これこそがアシュレダウという男の本質でもある。
当時アカデミーでの担当官があのラーンベルト=“教授”でなかったら、この一点を持ってアシュレは聖堂騎士団を落第していたかもしれない。
だがそなたらしい、と微笑むシオンの目は限りなく優しかった。
アシュレの願いを叶えてやる気になっていた。
「たとえば自分の姿を固定して定型に保つ術もその一環だし、過去と現実を見分ける印徴の作り方もある。あるいは吸血による《夢》の摂取によって狂気を遠ざけることもできる。素晴らしい他者の《夢》は、襲いかかる過去を宥める効果があるのだ」
「そういえば《夢》の摂取はなにも血からである必要はない、ってシオンは言っていたね。夜魔を延命させるのに必要なものは《夢》であって、血液そのものではないのだと」
思いがけず満たされた好奇心に、以前交した会話を思い出して、アシュレは問うた。
そうだな、とシオンは認めた。
「たしかにそうだ。我ら夜魔が真に欲しているのは血ではなく《夢》だ。それがあれば我らは生きていける。その証左として最たるものが、わたしだ。もっとも効率の面を追求するのであれば、残念ながら血に勝るものはないという話でもあるのだが」
「その話も前に聞いたな。すばらしい食事からも《夢》は摂取できるけれど、血には敵わないって。そうだシオン、本当に必要なときは言ってくれ。ボクの血を捧げるよ。もっとも吸血行為を断つというのはきみ自身の信念でもあるし、ボクの血液はもう半分以上シオンと共有しているわけで役に立つものかどうかわからないんだけど……味わった何人かが言うには極めて美味らしいしね」
「そなた、誘惑するでない」
血の提供に言及したアシュレを冗談めかして睨めつけたあと、シオンは笑って見せた。
大丈夫だ、と。
「そなたから注がれる愛と美味なる食事で、わたしは十分に保たれているよ」
それからもうすこし茶目っ気を振るう決意をしたのだろう、妹たちにも声がけした。
「おう……だから案ずるな小鳥たち。そなたらの首筋がどれほど甘美に香ろうと、わたしはそなたらを歯牙にかけたりしないぞ」
シオンはそう言ったが、キルシュとエステルはぎこちなくなんども頷くばかりだ。
その様子に夜魔の姫とヒトの騎士は苦笑する。
「だがいかに制御・抑制しても夜魔の内側では本性の怪物が着実に育っていく。己のなかの記憶の森……昏き影の森とともに。もちろん夜魔自身も成長するに従い、その制御法をより深く学び憶えて、簡単にはそれを表に出さぬようにしてはいくのだが……」
「夜魔の心は老いる。怪物に歯止めをかける理性も永遠ではない。いつか破断するときが来る──」
さっき聞かせてくれたね。
夜魔の姫の言葉をアシュレが補足した
シオンはこれも無言で肯定する。
返す刀でなあ、と問いかける。
「なあ、どうなると思う? つまり夜魔の心が破断したとき、なにが起こると思う? 本性の怪物はどうなると思う? アシュレならわかるか」
「うん。シオン、だんだんキミの言わんとしたことがわかってきたよ。いまここで夜魔の本性の怪物の話をなぜキミがするのか、ようやく本当の意味でわかってきた」
そうか。
やはりそなたにはわかってしまうか。
シオンが信頼と寂しさの入り混じった瞳を騎士に向けた。
「さきほど夜魔の無限の身体再建能力を支えているものは、その強固な絶対記憶そのものだ、という話をしたな?」
「確かにしたね。つまり夜魔の不老不死性は、夜魔個人の肉体的資質に根ざしているのではなく──」
「蓄えられた記憶のほうに依存する。正確には血に刻まれた記憶に、だが」
「夜魔にとっての肉体の再建とは過去の再演だから、だね? つまり夜魔の驚異的な身体再建能力は、その夜魔が体験してきた過去を元本として行われる。夜魔が肉体を再建するとき参照しているのは、常に過去という名の自らの記憶であり設計図なんだ。そして、その記憶の絶対性は高位夜魔になればなるほど増すから、」
「そう、理屈の上では高位夜魔は不老不死ということになる。しかし、実際はそうはならない。肝心の記憶を時系列に沿って制御しているのは夜魔本人の理性や精神──心なのだが」
「その心は永遠ではない。人間の肉体や精神がそうであるのと変わらず。つまり、」
そこまで言って言葉を切ったヒトの騎士に、その先はわたしに告げさせてくれ、と夜魔の姫は微笑みかけた。
言葉では伝わらない寂寞を含んだ笑み。
「その答えが、この門の先に居る」
年月の重みに耐え切れず、心の制御を欠いた夜魔の末路。
夜魔たち本人でさえ、その多くを知らぬ真の闇。
受肉した記憶の奔流。
「わたしが夜魔という種を、永劫の業苦から救わねばならんと決意したその根本的な原因──眠らない悪夢が」
そう告げるシオンの表情があまりに儚くて、アシュレは胸が押しつぶされるような痛みを味わった。
それは自らのなかにいま語ったのと同じ怪物が巣くっていて、その末路を愛する男に見られてしまうことに脅える姫君の顔だったからだ。
ちいさく、シオンが言った。
「封都:ノストフェラティウムをわたしがなぜ廃棄城と呼ぶのか、そなたらはいまからそれを実際に目の当たりにすることになる」と。
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