■第二四夜:心は折れて
「妹よ、オマエはこれより我の語ることがらを、あまねく理解しなければならない」
じっとスノウの瞳を覗き込んで、シオンは言った。
頼りなげな焚き火の炎が、暗い淵の色をしたシオンのそれに映り込んでは、不吉な影絵を想わせて踊る。
これまで聞いたこともない、姉の恐ろしい声にスノウは震え上がった。
四肢が凍りついたように動かせない。
「まず第一に、ほとんどの夜魔は人類と褥をともになどしない」
「褥……つまり寝所をともにしないってこと? それは、」
肌を重ねることはない、って意味だよね?
視線だけでスノウは問いかける。
然り、と姉は頷いた。
「もっと言えば、恋に落ちることもない。むしろそれは、ありえざる忌むべき行いと考えている」
「恋することが──ありえないほど忌むべき行いって、どういうこと!?」
姉からの予期せぬ言葉に、あるいはアシュレと自分の関係や、思慕をも否定されたように感じたのか。
スノウの言葉には怒りに似た強さがあった。
あるいは自らの血統の真実を教えられる恐怖からも、アシュレとの関係性に関することがらであれば乗り越えられるとでも言うのか。
スノウのその心根を内心では尊いと思いながらも、なお食い下がる姿に、シオンはさらに決定的な一撃を加えた。
「たとえば我が祖国:ガイゼルロンでは人類は夜魔のための食料、つまり家畜や獲物と見なされている。だから夜魔がヒトに恋心を抱くというのは、ヒトが牛馬に懸想するようなものだと言えばわかりやすいか。あるいは野犬との間に子を望むようなことだと。……トラントリムでは違って教えられていたのだろうが……」
これが夜魔の世界の常識だ。
スノウがはっ、と息を呑む。
シオンは目を細めた。
「唯一の例外は気に入った人間を同族に迎え入れることだが、これは相手を家畜から同族へと救い上げる行為──救済に近い心の働きからだと考えるが良い。病魔や僅かな手傷、あまりに短い生に脅える暮らしから彼らを解き放ち、自由にする。それは慈善であり慈悲であり慈愛である、と多くの場合、夜魔の國では教育される」
つまりは夜魔にとって同族への転成を促すというのは、一種の善行と見なされているのだな。
シオンは言った。
ときに人類世界でも貴族門弟が貧民窟の娘を拾い上げ、立派な淑女として育て上げるような行いだと。
芳しく美しき《夢》の持ち主を、汚泥のごとき人類世界より救い上げ、同族に迎え入れるのは貴族の責務とさえ考えているのだと。
けれども、そう語るシオンの美しい顔に嘲るような──それも自らを嗤うような笑みが浮かんでいるのをスノウは見逃さなかった。
「だがそれは、実際には己の心の安寧のため永劫の介添えを得ようとする行い。孤独と夜の血が囁く飢えが仕向ける行為。ヒトの血の温もり無くしては夜魔は生きていけないという真実から目を逸らす──つまり己が種の限界から目を背ける立ち振る舞いなのだが──それを夜魔が認めることはまずない」
なぜって、
「夜魔は人類に依存せねば生きていけないという事実を含め、家畜や獣と見なした対象に恋や愛を、さらには伴侶を求めていると認めることは、夜魔の誇りが許さないからだ」
「獣に……牛馬や野犬に懸想するみたいなものだって、そんなの……」
姉の真意が妹に伝わるには、しばしの時間が必要だった。
「家畜……かちくって、野犬との間に子を望むって……そんなの……そんなのおかしいよ。だってだってシオン姉は夜魔のお姫さまなのにアシュレさまと、」
恋をしたんでしょ?
自らの母と父との間にあった感情を確かめるように、スノウは訊いた。
もちろんだ、とシオンは応じた。
「だからわたしは自分の家と決別した。夜魔の因習と手を切ったのだ。祖国を捨て立場を捨て遊歴の身となった。奇しくもそなたの故郷:トラントリムの盟主が夢見たように、人類との融和を望んだ。ヒトは家畜などではなく手を取り合いともに歩むべき存在だと信じたからだ」
それもそのはず、もともとは互いは同種の存在、つまり人類だったのだと、我らはすでに奇しくも知り得たわけだが。
だがそうでなくとも、とシオンは告げた。
「そなたが言うように、わたしは確かにヒトに恋をした。だからいまここにいる」
アシュレの方には目も向けず、ただじっとスノウを見つめて言った。
その揺るぎなき視線を羨ましいとスノウは思った。
“叛逆のいばら姫”──だから姉はそう呼ばれる──我知らず呟いている。
声にも瞳にも、羨望を隠せないで。
なぜだか声に罰するような響きが宿るのを止められない。
「でもそれは異常だって姉は言うんだね? 夜魔の世界では普通じゃないって」
非難するような妹の声に、しかし臆することなく夜魔の姫は応じた。
「ああ、だからガイゼルロンの真祖とそこに連なる古き血筋の者どもにとって、これほど都合の悪い、これ以上の面汚しはほかにない。謀反を試みたからだけではない。離反したからだけではない」
わたしはヒトを愛した夜魔なのだ。
“叛逆のいばら姫”は断言した。
「だからわたしは刺客につけ狙われる。家畜、あるいは野犬と蔑んだ人類と、それを同族とするわけでもなく恋に落ち、彼らを愛し、あまつさえ契ったわたしを奴らは決して許さぬ。許せぬ理由があるのだ」
それはガイゼルロンに育った夜魔にとっては、極めてあたりまえの心の動き。
「そして、それはガイゼルロンの外に所領を持ち、そこに暮らす夜魔たちであってもまた変わらない。これはわたし自身が百有余年、二〇〇年近い歳月をかけて確かめて回ったことだから間違いのないことだ。イクス、アラムいずれの地でも夜魔たちは基本的に人類を下等種と見なし家畜と定める。良くても狩りの獲物か愛玩動物。手向かう者は野良犬だ。当然のようにその間に成り立つ恋愛や、それ以上の行為、ましてやその結果としての嬰児の存在を認めない。獣姦による子どもの存在など人類が認めないように」
もちろん人類は獣ではないし、夜魔はヒトの上位存在でもないが。
「どうあれそれを夜魔たちが認めることはない。この線引きが覆ることもない。自分たちこそが支配者であり、人類は食料であり──せいぜいが愛玩動物。ごくまれに同族に引き立て慈悲心や父性・母性愛、もしくは教育熱を示すべき相手。血が美味い分、それでも他の十一氏族よりは扱いは上ではあるのだが」
つまるとことろ狩猟のための獲物であり戦利品。
「なんにせよどうやっても対等の存在ではありえない」
叩きつけられる厳しい現実に震えるスノウを、まっすぐ見据えてシオンは続けた。
「そしてそんな夜魔にとって半夜魔とはあってはならぬ存在──人類との情交とは獣姦に等しいのだから、その間に為された子は穢れていて当然。不道徳の極みであると同時に、己が血を貶める忌むべき果実。なにしろそれはケダモノと夜魔の血統が通じ合い結びつき合ってしまうという不都合な真実の証明にほかならないのだからな。……そなたが特別である、というのはそういう意味だ」
そなたは特別である、と姉=シオンは言った。
夜魔とヒト、その狭間に生を受けたということ。
半夜魔であるという事実。
そしてそれが姉の祖国・夜魔の国:ガイゼルロンを含むそのほかの夜魔世界では、どのように扱われているものなのか。
これまで考えたこともないような事実と価値観に襲われて、スノウは激しく動揺した。
本当の衝撃に打ちのめされ心折られるのはここからなのだが、まだ成人を迎えたばかりの娘に本物の夜魔の姫から告げられた真実の数々は、すでにしてあまりに厳し過ぎた。
その瞳からは光が失せ、意識が飛びかけるのか、ときおり焦点が怪しくなるのが見て取れる。
「人間は家畜、牛馬に同じ。わたしはその獣との姦淫で生まれた娘……」
これまでも話してきた通り、スノウの祖国:トラントリムにあっては、夜魔とヒトとは対等な同盟者であり“血の貨幣”を介する互助関係にあった。
あるいは愛すべき友であり、ときには信じ合う恋人同士であった。
その間に生じる恋愛も、その先の行為も、愛する男の子を身篭ることも、なんら不自然なものではない。
厳しいイクス教徒としての教えに照らしても、それは矛盾なく受け入れられるものだった。
汝の隣人を愛せよ、とは祖国:トラントリムにあってはそういう意味として解釈されるものだった。
そう教えられ、信じて少女時代を過ごしてきたスノウにとって、シオンの語るあれこれは、だからあまりに残酷な宣告だった。
なにより魔導書との融合を経て、己が血の秘密を暴かれ突きつけられたスノウにとっては、それでも夜魔と人間とが恋に落ちその愛の果てに結実したのが自分なのだという物語は、拠って立つべき精神の最後の砦だったのだ。
それがまさか他国、いいや世間一般では獣姦に等しき行為の落とし仔と見られていたなどと──素直に受け入れられるわけがない。
だってこれではまるで「オマエは人類と夜魔の間に産み落とされた、歩く恥部だ」と指弾されているのと変わらないではないか。
そんなの認めない。
認められるわけがない。
思わず同じ問いを繰り返してしまうくらいには、頭と肉体が理解を拒んでいた。
「それはどの夜魔も同じってこと? 夜魔ならだれでも人間をそう見ているってこと? 食料……つまり餌だって思ってるってこと?」
言い回しは変わっていても、本質的にはこれまでと変わらぬ質問をスノウが繰り返す。
それは思考停止の症状。
シオンから聞かされる全てが、スノウには受け入れ難かった。
夜魔にとって同じ問いかけ、変わらぬやり取りを繰り返すことは多大なストレスであり忌避すべき行いなのだが、シオンはそんなスノウの行動に苛立つ様子も見せなかった。
妹が得心するまで話して聞かせると、覚悟していたのだ。
「先んじて説明した通りだ。すくなくともいま人類圏に襲いかかるガイゼルロン大公国の騎士たちは、人類のことをそう見なしてはばからない」
「じゃあ、トラントリムでの人間と夜魔の関係の方がおかしい、って姉はそう言うの?」
抑制を失った妹の問いかけに、姉としてシオンは応じ続ける。
「そうだスノウ、我が妹よ。そなたが生まれ育った國:トラントリムを除いては、この世界:ワールズエンデにおけるヒトと夜魔の関係性はおおむね、そうだ」
「ガイゼルロンに半夜魔は居ないの?」
「それも先ほども言った。過去に十数名、居なかったわけではないと。特殊な事情で生まれ落ちた者たちの記録が、わずかだが残されている。いずれも古き貴族たちの地下牢に囚われたヒトの娘が産み落とした者たちで、親も子も無残に玩ばれるだけの玩具として生き、心を壊されて死んだ者ばかりだが」
人類の女たちの腹が、ごく僅かな可能性にしても他種族の子を宿すための借り腹として機能することは本当のことのようだな。
「イズマの言うところの血の可塑性というヤツか」
わざと他人事のようにシオンは言った。
「まあそのためにどれほどの数、どれほどの頻度で女たちが犯されたのかはわからんが」
次の瞬間、相対していたスノウの膝が、かくりと折れた。
食ってかかることもできなくなった唇が、紫に変じて震えている。
「スノウ、半夜魔が我が國:ガイゼルロンにあって、どのような扱いを受けているか、もっと詳しく教えてやろう」
「まってまってよ姉。おねがい、おねがいだよ待って……もうやめてよ」
だが頽れ膝立ちになった妹に対し、シオンは手を緩めることをしなかった。
変わらぬ調子で語りかける。
「これまで語った通り、半夜魔とは家畜との間で交された悪趣味な肉欲の産物だ。ガイゼルロンでもその外にある夜魔の国々でも、そう見なされている。昼夜を問わず休みなく玩弄され嬲られ続けて孕まれた者、という意味ではその通りではあるのだが」
すくなくとも表立って、我ヒトの子の娘との間に半夜魔を得たり、と吹聴するような夜魔の貴族はひとりもいない。
「だがその悪趣味を家畜に強いたり、その成果物である半夜魔の血肉をこそさらに楽しむ、という悪逆をしてはばからぬ者もなかにはいた──いいや居るという話だ。倒錯こそは夜魔の性でもあるしな。特に生に倦んだ年寄りどもは、ときにそのような下劣な趣味に走ることがある。ルーレットを楽しむように、当たり外れを賭事にしたりする」
もちろんそれもまた公表はされぬものだが、裏ではどうなっているものか。
これまた我関せずという口調で、シオンが付け加えた。
特に辛辣な口調ではなかったが、それが逆にスノウにはこたえた。
「悪趣味な……肉欲の……獣姦の……産物」
スノウは完全に抜け殻のようになってしまった。
夜魔の姫から告げられる他国の、いや生まれ育った祖国以外の常識は、あまりに過酷すぎたのだ。
しかし、シオンは止めなかった。
自らの発言を裏付けるように、ヒトの騎士に意見を求める。
心を折るのであれば徹底的に折らねば、それこそ無残であると知っていたのだ。




