■第二十夜:夜魔の姫の懸念
コトリ、と誰かが置いたゴブレットが鳴った。
冷たい石造りの、しかし全員が十分に身体を伸ばして休むことのできる空間に、アシュレたちは座している。
当初の予定では、ここでの休憩は打ち合わせを含め、ごく短時間のはずだった。
だがシオンはここで密航者たちに真実を説き、翻意を迫ると決めたようだ。
「さてそのあたりの話の一切合切を、ここで済ませてしまおう。アシュレにはすでに軍議の席で話したものと被るところもあろうが」
そなたら覚悟はよいか?
アシュレが熾した焚き火を頼るように身を寄せ合い、身のうちから湧き上がる震えを打ち消そうと必死な三人の少女に向かい、シオンは確認した。
あ、あい、と不安げな返答が返ってくる。
どこから吹き込むのかすきま風にオレンジ色の炎が揺れ、シオンの美しい顔を老魔女めいた陰影が彩った。
「まず封都:ノストフェラティウムについてだが……夜魔のなかでもそれを知る者はごくわずかであるという話はしたな?」
「きみですら、実際にその姿を見るまでは実在を知らなかったと言っていた」
「むろん夜魔の大公の娘として、その名だけは知らされていたよ。我ら夜魔の発祥・生誕の地の物語とその伝承は王族の責務でもあるからだ」
もっとも、とどこか呆れた調子を含めながらシオンは言った。
「もっともあの都市の成立が、《そうするちから》によって夜魔に堕とされた者たちの聖避難所にあったのだという理解は、ずっと後付けのものだがな。それこそアシュレ、そなたと出会わなければ知ることさえなかったことである」
だがそれもあとから思い起こしてみれば、納得することしかない。
ひとり静かにシオンは喉を鳴らした。
「完全記憶を持つはずの夜魔たちの間で、なぜあの都市の伝承が絶えたのか。どうしてその記憶を祖先たちが忘れ去り捨て去ろうとしたのか……その理由がいまはよくわかるのだ」
言いながら、遠い日の幻を見るように目を細める。
「わたしがこの都市の実在と実際を知ったのは、祖国を捨てたその日であった」
「地獄だと言ったねシオン。あすこは地獄だと。それも夜魔専用の」
回想する夜魔の姫を透かして、アシュレは封都:ノストフェラティウムを見た。
無数の人骨で彩られた白亜の城。
眠らない悪夢たちの居城。
立ちこめる濃い瘴気を結界が阻むのか、こちらと向こうで空気の色が違って見える。
しらず寒気に似た感情が、背筋を這い登ってくるのを感じた。
シオンが廃棄城と呼んだ城塞都市。
そこに蠢く眠らない悪夢──夜魔たちの最期の姿が、いまにも姿を現すのではないか。
長い年月を経て狂い咲いた、闇の煮凝りのごとき者どもが。
そんな想像がいやおうなく掻き立てられる。
ああ、とさらなる理解に至った溜め息が、ヒトの騎士の口から漏れたのはこのときだった。
「わかってきたよボクにも。シオン、きみが軍議の席で詳細を語らなかった本当の理由が。この場所でボクだけに、そっと語ろうとした行いの意味が」
それは「夜魔である以上、自分もいつか同じく狂う」とは言えなかったからだ。
いつか同じく眠らない悪夢にわたしも堕ちる、とは言えなかったからだ。
だからあの日シオンがそうしたように、続く言葉をアシュレもまた、口にはしなかった。
シオンを気遣ったからではない。
アシュレが言葉にするのをためらったのは、あの軍議の席で夜魔の姫が本当に慮った相手を、やはり同じく想ったからだ。
真祖:スカルベリをして「高位夜魔の血統をもっとも色濃く受け継ぐ」と絶賛させた夜魔の姫は、同じく高位夜魔の血を受け継ぐ精神の妹:スノウの立場を心配していたのだ。
だからアシュレにだけ、後日この場所で、そっとその事実を伝えようとした。
もっともそれは予期せぬ密航者の登場によって──それもあろうことか気遣われるべき本人であるスノウを含めた少女三人によって台無しにされてしまったわけなのだが。
自らが言うように普段、冷静沈着なシオンがあれほどの激昂を見せたのには、無理からぬ事情があったのだ。
だがだからこそ、言葉の続きを固唾を飲んで待つ聴衆たちに、夜魔の姫はまなじりを固め、宝冠:アステラスを脱ぎながら語りかける。
「皆……夜魔の最期がどうなると思う?」
つまりいかにして眠らない悪夢が生み出されるか、という話だがこれは。
ここですべてを語るとシオンは決意していた。
それがシオンの、そして夜魔の血を引くからにはスノウにも待ち受ける、決して逃れられぬおぞましき運命の予言を伴おうとも。
たとえそれがどんなに残酷で陰惨な、目を覆いたくなるような事実であろうとも、ここから先に進もうというのであれば妹たちは知らなくてはならないからだ。
それが命だけでなく、己の実存を賭ける者へのフェアネスというものだとシオンは考えている。
温めたミルクでカミツレを煮出し、そこに蜂蜜を落としたものをアシュレから与えられた少女たちはつかのま人心地を得ていたようだが、シオンが発した問いかけにふたたび固まった。
せめても封都:ノストフェラティウムに潜む悪夢どもの注意を引かないよう加減された頼りない焚き火が、壁面に長く伸びたシオンの影を別の存在に見せていた。
「アシュレ、そなたは昔、わたしが本性をあらわにしたところを見たことがあったな?」
「確かに。でもあのときのボクは、ほとんど死んでてよくは憶えてないんだけどね」
「どうであったか、そのときのわたしは」
「ボクには……そうだなあ、途切れ途切れの意識のなかで見たキミは愛しいとしか思えなかったけれど。キミが胸を断ち割って与えてくれた臓腑を、血潮を、心の臓を、凍てついた月の晩に注がれる熱くて甘美なワインのようだと感じていたから」
「ふむん」
ヒトの騎士の率直過ぎる、しかも場の空気を読まない惚気に、気勢を削がれた様子で夜魔の姫は鼻を鳴らした。
まずいことにいまの不用意な発言のせいで、脅える少女たちの目に熱のようなものが宿ってしまった。
ヒトの子の聖騎士と夜魔の姫の己の命を賭けたロマンスは、眠らぬ悪夢の恐怖を退けるほどに強く魅力的な物語だ。
あまり認めたくない事実だが、背筋の寒くなるような恐怖と女性の抱く恋心は、実は隣同士の枝に位置する感情でもある。
できればここで妹たちに翻意を促したいシオンとしては、厄介な話だ。
どうもやりにくいな、とシオンは不機嫌を装った。
正直過ぎるアシュレの言葉に胸が高鳴ってしまったのは、妹たちだけではなかった。
野生のスケコマシめ、と胸の内で毒づく。
自らの感情にも釘を刺そうとするように、ことさら辛辣に言う。
「そんな感じ方をするのはそなただけだ。あのような姿を見たら震え上がり取り乱して拒絶するものだ。普通は、な」
今度は子供たちに言い聞かせるように、調子を変えた。
「夜魔は自らの内側に、普段は見せぬ本性を隠し持っている。生命の危機や堪え難き血の渇き、我を忘れるほどの怒りや憎悪に囚われると、意志のタガが外れ変貌しその窮地や理不尽をを覆そうとする。それは言うなれば生物としての夜魔の性だ」
「カテル島で戦ったヴァイツクロフトがそうだったね」
シオンの言葉に含まれる刺の意味をアシュレは即座に理解した。
どうやら自分は的外れな返答をしてしまっていたらしい。
自戒の意味も込め、門扉に刻み込まれている醜怪な彫像たちを指す。
「あのとき見た夜魔の本性の姿に、あれは確かに良く似ている」
アシュレが指し示した石像は、口が耳まで裂け、乱ぐい歯をあらわにした悪魔そのものだった。
全身のそこかしこにいくつもの顎門が口を開け、そこから同じく無数の牙と舌とが覗いている。
聖堂の屋根を護るガーゴイルなどが可愛く見えるような異形の姿。
少女たちの間から、だれともなく小さな悲鳴が漏れた。
それは瀕死のアシュレをシオンが救った美談──夜魔の姫が自ら己の心臓をえぐり出してはこれを捧げヒトの騎士を救ったという挺身のロマンスから、甘く切ない幻想の糖衣を引き剥がすに十分なリアリティを備えていた。
「アレと似たようなものが、わたしのなかにもいる」
「シオンさまの……なかにも」
愕然とした響きが妹たちのうめきにはあった。
「あ、あのシオン姉」
震える指先を隠せず手を挙げたのはスノウだ。
半分とはいえ夜魔の血を引いている彼女にとって、これは他人事ではない話題だった。
それはシオンの予想通りであり、思惑通りといえば思惑通りの反応でもある。
どうしても自らその疑問を口にしなければいられなくなるように、ここまで話を誘導したのはシオンなのだ。
「それはたとえば、わたしのお父さま……名も知らぬ夜魔の騎士さまもそうだったってことなのかな?」
そして、これこそが危惧してきたことだった。
自らに流れる夜魔の血について、特に血の渇きや隠された本性について、ほかならぬスノウ自身が、いまをもってほとんどなにも知らないままでいること。
シオンはその事実をこそ問題視していたのだ。




