■第十夜:奇手はバラの薫り(2)
遠くを見るように夜魔の姫は目を細めた。
ルグィン、といまや人類圏では騎士の聖人に奉り上げられた男の名を呼ぶ。
いまもまだ、彼がその眼前にいるかのように。
「そうだな……思えばあれがわたしの初恋だった」
「えっ?」
「ああ、ルグィンだ。いま自分の記憶を見返すと、そなたはどこかあの男に似ている。色々合点がいったぞ。わたしはああいうタイプに弱いのだな」
自嘲気味にシオンが笑う。
その瞳に、どういうわけか涙が溜まっているのを見つけてしまって、アシュレは動揺した。
愛しい相手から他者への思慕を聞かれるというのは、こんなにも心乱されるものかと、いまさらながら思い至って。
「シオン?」
「きっとルグィンも、わたしのことを憎からず想ってくれていたものだと信じる。いやそもそも疎ましく想っていたなら共闘などせぬわけだが……。利害の一致だけではなく、女としてのわたしのことをも想ってくれていたような、そんな気がするのだ」
そなたからの愛を注がれて、いまさらながら改めて過去の彼と再会したとき──ルグィンがわたしに向けてくれた眼差しの、気遣いの意味が、やっとわかったのだ。
「というのは、わたしの自意識過剰だろうかな」
嗚咽を冗談と笑顔で押し込め、シオンが続けた。
「彼の気持ちを利用した。自分に都合の良いように。人間という短き定命の者が、その半生をかけて築き上げてきた地位や名誉や立場をかなぐり捨てて、わたしとともに共闘してくれるということの意味をわかろうともせずに、ただ己の信念だけを通した」
そこまで聞いて自分は懺悔を聞かされているのだと、やっとアシュレは理解した。
「それどころかわたしは……そなたの父:グレスナウにも、そしていまやその息子であるそなたにも、同じようにして、わたしの理想のためにその命と生涯とを賭けさせてしまっている……」
その意味で──自分を好いてくれる女たちの想いに懸命に応えようとするばかりでなく、関わった者たちに対する責任を生涯を賭けて果たそうとする、そなたの生き方のほうがよほど誠実なのだよ。
心の底からそう思っている、という顔で夜魔の姫が告げた。
「そんなこと……」
不思議な褒められ方をしたアシュレは、たじろくことしかできない。
だが当のシオンは、なぜか儚げに微笑むばかりなのだ。
「わたしにそなたの行いを不実と責める権利など、どこにもありはしない。むしろ逆だ。そなたは最初から自分自身の責任に自覚的であり、関わりを持った女たちを受け止めようと最大限の努力をしてきたのだ。そしてそれは、いまも変わりなく」
シオンの指がアシュレの傷を撫でた。
指先にはいつのまにかあのバラの軟膏がすくい取られている。
かぐわしき青きバラの薫りを放つ塗り薬は滲みることもなく、アシュレの傷を労ってくれた。
「だからって……ボクがボクを慕ってくれる女性であれば、誰彼かまわず関係を持っていいっていう理屈にはならないと思うけど……」
殊勝なことを言ったつもりはない。
それはいつもアシュレが心に抱いている悩み──いや懊悩と言って良かった。
いかに願い乞われたからといって、本当にこの女性の心と人生を自分が独占していいものなのか、という。
しかしそんなアシュレの葛藤さえも、なんだそんなことか、と夜魔の姫は笑い飛ばすのだ。
「誰彼構わず手を出しているのであれば、すでにそなたの首はドライフラワーのバラのごとく門扉に吊るされている。それも我が手によってな」
「いまのそれ……本気だったよね」
「冗談を言っているつもりはないからな」
「気を……つけます」
「できもせんことを言わないことだ、騎士殿」
「いやそこまで無節操にはなれないよ、ボクだって」
勘弁してください、と息をついたアシュレに、いやそうではない、とシオンが苦笑する。
「逆だ、アシュレダウ。そなたがその腕に招き入れるのは、そなたのところに来るしかなかった女たちだけだ。戯れや慰めで女を抱くことができるような男では、そなたはない。そしてそれは、そなたのところへ来てしまう女たちも同じ。あのまだ年端も行かぬ真騎士の妹たちでさえ……皆」
もちろんわたしを筆頭に。
「確たる意志を持ちながら、いや持つがゆえに世界の真の姿と相対せざるを得ず、それゆえに世界から異端とされて追いやられていく者たち。己の《意志》を信じ、運命に抗おうとする者たち。そういう女たちだけが、そなたの元に来るのだぞ。そなたの《魂》の輝きに惹かれて」
「《魂》の輝き……」
そうだ、とシオンは言った。
「《魂》──それはこの世にたったひとつだけ現れた真実の光輝。《意志》の先に、その《ちから》である《スピンドル》の先に、それはある」
その概念だけは幾多の宗教が、その聖典が説き、人類すべてにそれはあらかじめ与えられているものとして扱ってきたものだが────。
「そなたがその実在を証明した。それは同時に《意志》なき者には《魂》はない、という残酷な現実を世界に突きつけることでもあったのだが……その証明を福音として受け止めた者たちがいた。それは世界によって欺かれ偽りの役目を押し付けられてきた者たちだ」
「それが《意志》ある者たち……《スピンドル能力者》たち……あるいは魔の十一氏族たちまでも。そう言うのか?」
そうだ、とシオンは頷いた。
「自分たちの先に《魂》はある。自らの考えを、《意志》を手放さなかった自分たちの先にだけ。その事実、その真実の輝きだけが、彼ら彼女らを癒やし赦してくれる」
自分はここに居ていいのだと。
自分の心と考えを持ち続けていいのだと。
なにより自らのなかに息づく《意志》は、真実の輝きに、つまり《魂》へと通じているのだ、と。
「その証明が眼前で生きていてくれていることが、どんな意味を持つか、わかるか?」
「それはボクの存在がきみたちを救っている……ってことになっているってこと? もしかして……シオンはボクにそう言ってくれてるのかい?」
「そなたにその自覚がないことが、ほんとうに大事なことなのだがな」
呆れたように、しかしだからこそ愛しい者を見るように、シオンは笑った。
「救おうとしてではなく」
救おうとして抱きとめるのではなく。
「愛してしまって、というところが大事なのだ。互いに恋をしてしまって、というところこそが大事なのだ」
大まじめに言われてアシュレは頭に汗をかいた。
客観的に語られると、自分がただの女たらしにしか聞こえない。
アシュレはただ騎士たろうとしているだけで、女性たちの間を飛び回って浮き名を流したいわけではないのだ。
「過ちとしてじゃないか、それ」
「《意志》を持ち続け己の心を保持し続けること自体を過ちだと規定する世界にあって、その世界が強いてくる運命に自らの意志を持って抗う人間たちを、世界が規定する正しさで救えるわけがない」
そうだろう?
同意を求めるように、シオンが問うた。
「あの夜、トラントリムの塔の上でそんなことを話した。憶えているか?」
問いのカタチをした指摘に、アシュレは一瞬だけ口ごもる。
それから応じた。
ああ、と。
「あれはイリスに──“再誕の聖母”と夜魔の騎士:ユガディール相手にだった」
「あのときそなたが言ったように、わたしたちはもうすでにこの世界にとって間違いそのものなんだ」
なにしろこの世界は「自らの《意志》を持つこと」を「過ち」と規定したのだから。
「だけどその間違いこそを、ボクは愛しいと感じてしまうんだ。堪らなく狂おしいくらいに想ってしまう。ヒトの姿形ではなく、心の在り方が輝いて見える」
おそるおそるアシュレは思いを言葉にした。
「ボクのそういう心の働きをシオンは許してくれる。そう言ってくれるのかい?」
「許す許さんではない」
上目遣いに夜魔の姫を見上げたアシュレに、シオンは観念したように瞳を閉じて、ため息をついた。
「わたしも、そういうそなたが好きなのだ。そなたの過ちの在り方が。ああ病気だ。わたしは、完全に。頭と胸の」
自らの意志と心とを手放さなかったがゆえにほかのどこにもいけない女たちを、そなたが抱きとめてやるたび、まるで自分が救ってもらっているかのように感じてしまう。
「そしてこれは恐らくなのだが……。ほかの……アスカ殿下もアテルイもレーヴにマーヤ、それから真騎士の妹:キルシュとエステル、もちろん我が妹:スノウも同じ気持ちを味わっているのだと、なぜか確信してしまっているのだ。これはそなたを巡っての争奪戦がなぜ起きないか、という原因の説明でもある。つまり、」
すでに全員手遅れ、ということだ。
同じように想ってしまっている、ということだ。
「他者を貶めたり蹴落としたりする心の働きとは、《魂》は一番遠い場所に座しているということを理屈ではなく心で、思考ではなく本能で知ってしまっているのだ。だから──自分以外の恋敵たちのことさえ愛しく想ってしまう」
自分たち自身のイカレ具合に呆れ切ったというシオンの顔に、数秒、アシュレは釘付けになった。
胸のぬくもりが、狂おしい気持ちに変じて溢れてくる。
同時に得体の知れない──畏れにも似た感慨も。
「なんだろう。こんなふうにして全面的に自分の男としての行いを受け入れられると、逆にとてつもなく不安になるんだな」
「優しさが恐いか?」
「うん、それ。そうなんだ。なんだかゾクゾクする。シオン、まさかだけど、なにか企んでない? これ……絶対にいい話で終わらせる気がないでしょ?」
冗談めかしてではない、極めて真剣で神妙なアシュレの様子に、シオンは吹き出した。
それから真顔になって言った。
鋭くなったな、と前置きして。
「そのとおりだ、アシュレダウ。わたしはいまからそなたの気持ちを利用する」
えっ、と頭を持ち上げたアシュレに、これまで見たこともないような美しい微笑みでシオンは応じた。
それが超少人数による前代未聞──具体的にはアシュレとシオンというふたりだけでの──ガイゼルロン侵攻、つまり夜魔の大公:スカルベリへの一極集中攻撃の提案だった。
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