■第九夜:奇手はバラの薫り(1)
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というわけで、空中庭園の安全保障に関する問題については解決の目処が立った。
それに関してアシュレが干乾しにならずに済んだのは、ひとえに真騎士の乙女:レーヴとその血を引くアスカ、ふたりの美姫のおかげだったがアシュレの心境は極めて複雑だ。
アスカのほうは「むしろこれはオマエの務めだぞ」とまで言ってくれたわけだが、そこを「はいそうですか」と割り切れないのがアシュレという男なのである。
大帝ともなれば数千人を超える美姫を後宮に抱えることもできるオズマドラ帝国の、元皇女のスケール感にはとても至れそうにはない。
ともかく蛇の姫はみるみる精気を取り戻し、己が呼び出す泉水に強大な防御の呪いを施して回った。
長い年月の間に伸びた地面に届いてなお余る、マーヤの濃紺の頭髪がつやつやと潤いを取り戻し、内側から光を放つように玉の肌が甦った。
あの様子を見れば、蛇の姫が本調子なのはだれでもわかる。
そしてその顔に浮かぶのは、愛を得た女だけが浮かべ得る慈愛の微笑み。
一方のアシュレはやや傾きながら、軍儀の席についた。
ヴェルジネス一世からの親書をジゼルテレジアが持ち込んでから、翌々日の朝のことだ。
ほかならぬ夜魔の姫:シオンザフィルから、今次作戦についての緊急提言があると戦隊全体に通達があったからだ。
「さて今回の作戦行動だが、エクストラム法王庁からの要請に応じ、軍事介入を行う旨、賛成多数で採択したことについては皆の知る通りだ」
宮殿の前庭に設置された巨大な岩を使った円卓を前に、シオンは極めて静かに提案を始めた。
卓にはイクス教徒を代表してノーマンとバートンが。
アラム教徒としてアスカリヤとアテルイが。
土蜘蛛はイズマとエルマが。
真騎士の乙女はレーヴと半人前はふたりでひとりという理屈でキルシュとエステルが。
そしてひとりだけではあるが竜族からはウルドが加わっていた。
ちなみに夜魔の代表はシオンとスノウである。
これは各勢力の意見を広く聞き入れたいというアシュレの願いによるものだった。
「えっ、わたしが夜魔代表なのッ?! 姉と一緒に?!」
「そのようにしておいた。姉妹なのだから当然そうなるであろう」
「いや姉妹ってそれは……それはさあ。姉は真祖の血を引く本物の高位夜魔だけど、わたしは半人前だし……怖くて自分がだれの血を引いているか……いまだに調べられないんだよ?」
「まあそなたはどちらかと言うと夜魔というより、魔導書組と言うべきだがな?」
「魔導書組って酷っど! それってほとんど魔物扱いじゃん、シオン姉ェ」
「だから夜魔枠に入れたと言うのに……。まあ魔物だろうとなんだろうと、アシュレを想う気持ちに嘘偽りがないなら、なんでも良い。そこに座っておれ」
「真顔でそんなこと言うかあぁあ? ダメだ、わたし絶対、姉には敵わないわ」
そんなやり取りが事前にあったのだが、詳細は割愛する。
それよりもなによりも、この日、シオンの口から告げられた提案こそが驚きと言うものだった。
「ガイゼルロンを攻める?!」
「直接?!」
「しかもアシュレとシオン殿下ふたりだけで?!」
「無謀過ぎるッ!!」
無理もない。
一同から巻き起こった激しい疑問文と否定文の嵐は、昨夜シオンから同じ提案を受けたアシュレが上げた声とそっくりだった。
「そなた、昨夜はなかなか良いことを言った」
そうシオンが声をかけてきたのは、レーヴとアスカから真騎士の乙女の加護を得て、蛇の姫:マーヤの望みを一晩かけて叶えてやったアシュレが早朝、フラフラになりながら宮殿の自室に帰り着いたときだった。
「ただいま……帰りました」
「どうしたアシュレ。上着も羽織らず。情事の最中に家人が帰宅して、あわてて逃げてきた間男のようなナリだぞ。見れば咬み傷だらけ、爪痕だらけではないか」
「……逃げてきた、ってとこだけは間違いないかも。上着は痛くて着れないんだよ。汚してしまうし」
死ぬかと思いました、とベッドに倒れ込みながらアシュレは言った。
真騎士の乙女の加護が、それもふたり分がなければ恐らく再起不能になっていたレベルで蛇の姫は凄かったのだ。
男の意地にかけて応じたが、満足した彼女が目を覚まさぬ内に、アシュレは戦略的撤退をキメたのである。
詳細を話すことなどとてもできないが、なんとなくそういうニュアンスを伝えたアシュレをシオンは爆笑で迎えた。
えー、とアシュレは驚愕とも不満ともつかない声が、自分の喉から迸るのを禁じえなかった。
「それ笑うところ?」
「まーそれもしかたあるまいよ。今回のことは空中庭園の安全保障のためだし、あの姫をぞっこん惚れさせてしまったのは、そなたなのだから。しかし、それはなんともタフな話だな。よく生きて帰ってこられたものだ」
「笑いごとじゃないよシオン。ホントにシャレになってなかったんだから、蛇の姫君が自分たち巫女の一族を指して言う情けの深さってのは口先だけじゃなかったんだ」
それだけじゃない、とアシュレは付け加えた。
「ボク自身が、レーヴやアスカに不実を働いているようでもあって、心理的にだいぶキツいんだぞ、コレ……」
真騎士の乙女たちの加護=戦乙女の契約を、このような目的に使ってしまったことをアシュレは悔いていた。
レーヴとアスカはわかっていて文句ひとつ言わずアシュレを受け入れてくれたのだが、そのときのふたりの必死さが騎士の胸に刺となって深く刺さった。
そんなアシュレの葛藤を知ってか知らずか、夜魔の姫は快活に問うた。
「そうは言ってもそなた、蛇の姫:マーヤのことはすでに憎からず想ってしまっているのだろ?」
「それはまあ、そうなんですけど。逆にどんなに魅力的でも、そもそも想ってもいない、想われてもいない女性を抱けないよ。っていうかあんなに切実に慕われて想われて平静でいられる男は……いないと思いマス。すくなくともボクには無理。女性としての魅力を感じるというのと、想ってしまうかどうかっていうのはぜんぜん別勘定なんだよ、ボクにとって」
枕に顔を埋め全身の傷の疼きに耐えるアシュレの様子に、ふ、とシオンが笑う。
それは含むところのない、麗しいとさえ言える笑みだったが、アシュレはそうであるがゆえに直視できなかった。
「それはまあ、わたしも認めるかな。あの娘がそなただけでなく我ら全員に注ぐ眼差しには、邪なところがない。蛇の姫というからには恋敵には漏れなく呪詛なり邪視を送ってくるかと、すくなからず身構えていたのだが、そういう腹の黒さはまるで感じん。むしろわたしを含め、ほかの女たちまでを庇護対象と見ている節さえある」
「それは……一番最初に出会ったとき、ボクが言ったからじゃないかな。ボクら戦隊のために《ちから》を貸して欲しいって。清潔で安全な飲み水を確保したいんだって。そのためにきみの《ちから》を借りたいんだ、って」
「なるほど。それこそをそなたの真の望みとアレは信じ、叶えようと必死なのだな。そして己の力を質に取って、そなたを脅迫するなどとは考えもつかない純真さを合わせ持つ、と」
かわいいではないか。
屈託ないシオンの笑い声に、恥じ入り逃れるようにしてアシュレは枕に顔を押しつけた。
枕を抱きしめ、半目になって答える。
「シオンは……許せるの。そういうボクの行いを」
「それはどういう意味だ、アシュレダウ?」
問いの意味が本気でわからぬ、という調子でシオンが言った。
「いやだから……こんなふうに想ってくれる女の子たちの心を利用して……自分の理想を叶えようとしているボクのことを、きみはどう思うんだい?」
「ああ、なんだそんなことか」
「そんなこと、って」
あんまりに軽々に話題を流したシオンに、枕からなんとか頭を引きはがし、アシュレは詰め寄った。
いつつ、と傷の痛みと引き攣れにうめきながら。
「やれやれそこまでして聞きたいか」シオンが苦笑する。
そうさなあ、と小首を傾げ瞳を閉じる。
「なんとも思っていないと言えば嘘になる」
「やっぱり。悪党だと思っていたんだな」
「それはそうだ。ただ、どうやらわたしは悪党のことが嫌いではないらしい、というのもわかってきた」
「なんだよそれ」
「大悪党に限るが、な」
またまたこともなさげに認められて、アシュレは閉口した。
「ちなみに女としてはコノヤロウ、と毎晩のように思っているぞ?」
シオンの口調が限りなく優しくて、手酷く罵られるよりよほど効いた。
心身ともに疲弊しているときに聞くべきではなかった。
アシュレは即座に後悔した。
「死にそうになるから、やっぱりこの話はここまでにしよう」
「なんだい、知りたいといったのはそなたのほうだぞ?」
正論で反撃されて、アシュレはふたたび枕に撃沈するしかない。
だめだ完全敗北だ。
ただな、とシオンは大ダメージを受けてふて寝を決め込むヒトの騎士に語りかけた。
「相手の好意を利用して自分に都合よく働かせたという意味でなら、わたしのほうがそなたよりずっとずっと先だし、何百倍も罪が重い」
「シオン?」
「そもそもそなたが祖国も家族も、これまで手にしてきた数々の栄光も嘱望された輝かしき道も、約束されていたすべてを投げ出すハメになったのは、もとはといえばわたしのせいだからな」
「なに言って、」
「いや取り繕う必要はない。わたしがわたし自身の《ねがい》のために聖剣:ローズ・アブソリュートを欲せず、それを扱うための聖遺物=聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーを法王庁の宝物庫から奪取しさえしなければ、そなたはこんなところまでこなかった」
宝冠:アステラスを脱ぎ、目を伏せて言うシオンにアシュレはかける言葉がなかった。
夜魔の姫はそのまま、追憶するように続けた。
「いいやそれ以前に……わたしはわたしに聖剣:ローズ・アブソリュートを託してくれた男も、同じく自分の《ねがい》のせいで帰らぬヒトにしてしまった」
「それって……ルグィンのことかい。ルグィン・ラディウス・パルディーニ。騎士の聖人」
「そうか、そなたには話したな。出逢ったときだった」
「概略だけね。詳しい経緯は教えてもらっていないけど」
アシュレはシオンと初めて出逢ったイグナーシュ王国でのことを思い出した。
そこは正真正銘の人外魔境。
瘴気渦巻く荒涼とした大地のなかに、そこにだけ残された、夢見るように咲く青きバラの群生地でふたりは初めて邂逅した。
かぐわしき薫りに守られた荊の茂みの奥で、アシュレはシオンとイズマに出逢い、自らが奪還の任を帯びた聖遺物=聖なる籠手:ハンズ・オブ・グローリーの秘されてきた出自と、隠されてきた由来について聞かされた。
それはまた夜魔の姫と人間の英雄との、出会いと別れの物語でもあったのだ。




