■第八夜:助言は恥じらいとともに
戦隊主力が拠点を離れている間、本陣である空中庭園と残された人員をいかに守り抜くか。
それも水を媒介に単独転移を仕掛けてくる“聖泉の使徒”:ジゼルテレジアを仮想敵として。
この難題がアシュレを悩ませていた。
水を自在に操る極めつきの難敵をいかに阻むか。
真面目に考え始めると脳髄が沸騰しそうになる。
適切な助言が必要だった。
それもジゼルと同じく水のスペシャリストからの。
マーヤ、とアシュレはこの場で唯一、その答えを持っているであろう相手に呼びかけた。
「水を媒介にする占術や遠見って……たとえばなんだけど水面に映る映像や水の伝える音声を盗み聞きされるってこともありえるの? さっきジゼルテレジアがして見せたみたいに。もしかしていまボクらがしてる、この会話も?」
幼なじみであり、許嫁でもあったジゼルテレジアの操る水の異能、その詳細についての多くをアシュレは知らない。
聖騎士同士は、たとえ仲間であっても、己の手の内を軽々にはさらさない。
逆説的に、ジゼルもまたアシュレの能力の特異性を知らない。
たとえばアシュレが持つ特殊な才能──あらゆる《フォーカス》に対する抜群の適性と《フォーカスの試練》に対する強靭な耐性について知るのは、時の法王とわずかな側近、あとは法王庁を守護する神影の四騎士だけだ。
戒律としては「多弁であるな」という極めて簡潔な言葉に集約されるのだが、これは聖騎士たちの能力の詳細が、法王庁にとって門外不出の極秘情報であるからだ。
だからアシュレはこの期に、生来の水の専門家である蛇の姫に教えを乞うことにしたのだ。
きっと後々、この知識は役に立つはずだ。
「どうだろう。可能なんだろうか、ジゼルテレジアには聞こえてたりするんだろうか?」
「まず技術的には可能だ。できるとも」
「えっ」
「だが、いまはその心配はない。アレがこちらに転移してくる前に、姫はその予兆を感じ取っていたであろう? 覗き見や盗み見も姫には同じく変調として感じられるのだ。そして、それらの異能を仲介する触媒や疑似を含めた《フォーカス》の存在を、いま姫が身を浸すこの水からは感知できない。つまり盗聴も遠見もない。安心して欲しいアシュレダウ、我が騎士どの」
開口一番、盗み見や盗み聞きの可能性を認めた蛇の姫に、アシュレは一瞬、ドキリとした。
だがそのすぐに後に続けられた言葉に、胸をなで下ろす。
なるほどそうだった。
マーヤには自らが身を浸す水に関わる異能の《ちから》や異変が、事前に血の共振として感じられるのだ。
たとえるなら高位夜魔たちが互いの存在を血の震えで感じ取るように。
だから彼女が「ない」といったら遠見も盗聴もない。
これが水の支配者:蛇の巫女たちの超常能力であり種の特性なのだ。
アシュレはこのときほど、マーヤの信頼を勝ち得ていて良かったと思ったことはなかった。
かつての竜王のように彼女を単なる道具として支配・使役していただけだったら、これほどまで献身的に庭園に迫る危険について警告してくれたり、事前に結界を張って退けたりしようとはしてくれなかっただろう。
察知はすれど無言を貫き、荒らされるに任せたはずだ。
そんなアシュレの思いを知ってか知らずか、蛇の姫は続けた。
「占術の類い、盗み見の類いは、姫が結界をより強めれば、まず完封できよう。転移のような強引な《ちから》はよほど念を凝らさねば難しいだろうが……座標固定を不安定にしたりして時間を稼ぐくらいならできるはずだ」
ただ……な?
そこまで話して、マーヤがもじもじと指を合わせた。
夕闇のなかで顔が赤らんでいるように見える。
「なに? どうしたんだい? 心強い話じゃないか」
「ただ……そのう……だな。強力な異能の絶え間ない試行に対し、結界はいずれ破られるものでしかない。いかに堅固な城塞も、ただ守り耐え忍ぶだけでは必ず打ち破られ、陥落の憂き目を見ることになるのと同じで」
「つまり完全ではないとマーヤは言うんだね、蛇の巫女の護りも」
理解を示すアシュレに「う、うん、そうだ。そうなのである」と蛇の姫はなぜか焦ったように頷いた。
「ただその、だ。守りをもっとずっと堅固にすることも不可能ではないのだ」
「さすがは蛇の巫女の姫。水の扱いについては人間に遅れを取るはずがないってことか。すごいんだ、マーヤは」
「うむうむ苦しゅうない。しかし、だな。実のところいまの姫では、聖瓶:ハールートとあの忌々しい女に打ち勝つことは難しい」
「マーヤでも難しい……んだ。やっぱりジゼル姉は天才なんだな……」
思わず漏れたアシュレの言葉は、ジゼルに対する否定的な響きを帯びてはいても、本音であり称賛であった。
それを聞いたマーヤの表情が一瞬で険しくなる。
それまでどこか不安げだったまなじりがキリキリと持ち上がり、ほとんど怒りの表情になった。
「違う!」
「わあ」
「断じて違うぞ、我が騎士殿! 才能も技術も姫はあのような痴女になど負けてなどいない! ただあの聖瓶:ハールートは持ち主の《ちから》を何倍にも増幅させる。馬鹿力と言ってよいであろう。それに打ち勝つだけのスタミナが──代償を支払うだけの余裕がいまの姫にはないのだ! ただそれだけだ!」
長き幽閉によって姫は弱っている。
「これでは皆を守り切れない!」
《ちから》の源がいるのだ、とマーヤは言った。
「《ちから》の源。つまり活力か」
なるほど、とアシュレは納得した。
どの異能系統樹にあっても転移系のそれは極めて強力な能力であり、次元潜航系とともに、大抵がその異能体系の最高位に位置している。
例外は夜魔の騎士たちが使う影渡りだが、これは五メテルから十メテル程度の小転移であり、座標も体感的に把握できている場所か、おおまかにで構わないが現在進行形で、たとえば使い魔を使って目視確認している場所に限られる。
戦場で敵をすり抜けたり地面から屋根に飛び移る程度は調整できても、窓もない建造物の壁を飛び越え室内に突然現れたりする離れ業は、使い魔の視覚を使ってもまず不可能と言っていい。
間に挟まる構造物との距離感を把握できないからだ。
ジゼルの用いた水鏡を界面と捉えての長距離転移は、到達距離も難易度も転移先の安全性の確保についても、異能そのものの位に天地の差がある。
指定座標へと小戦隊規模の人員をまとめて移動させるイズマの大転移などは、もはや別格の超級業と呼ぶべきものだが、いくらアシュレとは浅からぬ因縁があったとはいえ、常にその位置を移動させ続けている空中庭園に的を絞り、正確に転移してきたジゼルテレジアのそれも超技に分類すべきものだった。
それだけのパワーに抗うには、防御側にも比肩する《ちから》が要求される。
今回のように一度でも守りを突破され、正確な座標を把握された場合はなおのことだ。
特にジゼルはアシュレとの因縁浅からぬ相手。
その縁が鎖となり、ふたりを結びつける経路として使われたのだ。
そしてそれを根拠に振るわれる強大な異能を、やはり異能を用いて防ぐには、その《ちから》に相応の代償が必要なこともまた常識だった。
「つまり本来の《ちから》をきみはまだ取り戻していないって言うんだな、マーヤ? 本来のきみ、蛇の巫女が持つ無限とも思える──あのスタミナと集中力を」
アシュレはいつか相対した蛇の巫女たちのことを思い出して言った。
ヘリオメデューサ:タシュトゥーカ、黒曜海の女王:シドレラシカヤ・ダ・ズー……いずれも信じがたい生命力と耐久力を持つ海と嵐の化身だった。
特に直接刃を交えたタシュトゥーカは、己に仇なすアシュレたちを怨敵と認識し、恐ろしい呪い礫を驟雨のごとき勢いで紡ぎ、これをぶつけてきた。
あれを可能にしたのは、ひとたび敵と認定するや、地の果てまでもこれを恨み抜き呪み続ける恐るべき執念深さ、つまり集中力と、それを可能にする無尽蔵の体力・スタミナの貯蓄にほかならなかった。
背後でアシュレの言葉を聞いていたノーマンが腕組みして空を見上げ、深く何度も頷いている。
彼もまたアシュレと同じく、蛇の巫女たちと刃を交えた仲だからだ。
「やっぱりきみも本性をあらわにしたら、凄いんだろうな、マーヤ」
「う、うむ。そうだな。そうであるぞ? 凄い……ぞ?」
どこか感慨深げに言うアシュレに、褒められているのか恐れを抱かれているのかわからず、曖昧な調子で蛇の姫は請け負った。
「でもどうやったらきみに、その代償を支払うだけの《ちから》を取り戻してあげられるんだろう。活力を取り戻してあげられるんだろう」
乙女の葛藤は知らず、極めて真面目にアシュレは聞いた。
たしかに自分たちが夜魔の騎士と戦っている間、手薄になったこの庭園にジゼルとあの絶白の騎士が乗り込んできたらどうなるか──わからない。
ただひとつたしかなことは、ジゼルテレジアという女が純粋な人類のそれもイクス教徒以外の存在に対し、極めて冷酷な対応をするであろうということだけだ。
そう聖騎士として当然のように。
つまりアシュレたち戦隊の選抜メンバーが今回の戦いに安心して出向くには、本拠を留守にしても大丈夫だという十分な安全保障が必要で、そのためにはここで蛇の姫がジゼルを始めとする害意ある侵入者の転移を食い止めてくれることが、大前提となるのだ。
だが、アシュレから真摯な眼差しを向けられた蛇の姫は、突然目を泳がせ両手で顔を覆ってしまった。
「活力をどうやって取り戻すかなどと……そ、そんなこと皆の前で言うことなんか、で、できるわけがなかろう。アシュレダウ、意地悪、意地悪だ!」
虚を突く反応に、えっ、とアシュレは固まった。
あー、と理解の声を上げたのは夜魔の姫:シオンだった。




