第6話 家族
静寂が落ちた。
血と炎に染まった南街道。
その中心で。
レオン=セラフィーネは、
ただ一人立っていた。
左腕はない。
肩口から流れ続ける血が、
石畳を黒く濡らしている。
呼吸は荒い。
視界も霞む。
それでも。
その背中はまだ、
崩れていなかった。
右手には、
ハラルの大剣。
その切っ先の先には、
なお無数の人型レムナントが蠢いている。
黒煙。
青黒い単眼。
歪んだ殺意。
だがレオンは、
静かに息を吐いた。
「……来い」
低い声だった。
次の瞬間。
人型レムナント達が一斉に飛びかかる。
――轟音。
レオンが踏み込む。
片腕とは思えない速度で、
大剣が振り抜かれた。
先頭の三体がまとめて両断される。
さらに返す刃。
横から迫った一体の頭部が吹き飛ぶ。
止まらない。
レオンは前へ出る。
踏み込み。
斬撃。
叩き潰す。
薙ぎ払う。
その姿はまさに、
鬼神だった。
だが。
限界は確実に近づいていた。
傷が深すぎる。
出血量も異常だった。
身体が少しずつ重くなる。
それでも。
レオンは止まらない。
止まれば、
背後へレムナントが流れ込む。
避難民達へ届く。
だから。
前へ出続けるしかなかった。
「ォォォォォオオオオオッ!!!」
咆哮。
大剣が唸る。
また一体、
人型レムナントが吹き飛ぶ。
その時だった。
――ギュルルル……
背後。
倒れていた死骸の山。
その奥から、
新たな人型レムナントが這い出す。
一体。
二体。
五体。
まだ終わらない。
民兵達の顔が絶望に染まる。
「まだいるのかよ……」
誰かが呟いた。
レオンは血塗れの顔で笑った。
「はっ……」
「本当に、終わらねぇな……」
その笑みは、
どこか懐かしそうだった。
脳裏をよぎる。
不死隊時代。
仲間達と戦った日々。
酒を飲み交わした夜。
ハラルと肩を並べた戦場。
そして。
小さな娘が、
初めて自分を“父さん”と呼んだ日のこと。
レオンは静かに目を細めた。
「……悪くなかった」
呟き。
次の瞬間。
再び人型レムナント達が襲いかかる。
レオンは地を蹴った。
最後の突撃だった。
――ドゴォォォンッ!!!
石畳が砕け散る。
大剣が振るわれる。
人型レムナント達がまとめて吹き飛ぶ。
さらに踏み込む。
斬る。
砕く。
潰す。
そのたびに、
傷口から血が噴き出した。
それでも。
まだ止まらない。
「戦神だ……」
誰かが震える声で呟く。
「まだ戦ってる……」
中央本隊の降下部隊ですら、
その姿に目を奪われていた。
片腕を失い。
全身血塗れで。
それでもなお、
最前線で戦い続ける男。
その姿はまるで。
人間の執念そのものだった。
だが。
ついにその瞬間が訪れる。
一体の人型レムナント。
死角。
崩れた建物の上から、
黒い影が飛びかかった。
レオンが反応する。
だが。
遅い。
黒い刃が、
腹部を深々と貫いた。
「――が……ッ」
動きが止まる。
さらに。
背後。
横。
別の人型達が一斉に飛びついた。
肉が裂ける。
骨が軋む。
それでも。
レオンは倒れなかった。
「ォォォォォオオオオオオオッ!!!!」
絶叫。
最後の力で、
大剣を振り抜く。
凄まじい一撃だった。
周囲の人型レムナントごと、
石畳が吹き飛ぶ。
黒い残骸と瓦礫が、
宙へ舞い上がる。
そして。
静寂。
レオンはその場に立っていた。
大剣を地面へ突き立てたまま。
レオンはゆっくり空を見上げた。
暗い夜空。
その向こう。
遠い昔。
まだ娘が生まれる前。
セシリアと二人で見上げた星空を、
ふと思い出す。
「……セシリア」
かすれた声。
「アデル……」
「フェルト……」
その瞳から、
ようやく力が抜けていく。
だが最後まで。
レオンは前を向いたままだった。
避難民達のいる方向へ。
守るべきものがある方へ。
そして。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
戦神レオン=セラフィーネは、
膝をついた。
直後。
後方から蒼白い閃光が走る。
――不死隊中央本隊。
増援部隊がついに到達したのだ。
「前線を押し返せぇぇぇぇ!!!」
怒号。
銃声。
蒼光。
新たな戦いの音が響き始める。
だが。
その中心で。
レオンはもう動かなかった。
大剣を支えに膝をついたまま。
まるで最後まで、
街を守り続ける門番のように。
レオンが天骸兵装を身につけ、
家を出たあと。
セシリアは、
アーデルハイドとフェルトの手を引きながら走っていた。
燃え始めたラグナフィール。
崩壊音。
悲鳴。
遠くから響き続ける銃声と爆発音。
街全体が、
戦場へ変わっていた。
南側農園地帯へ続く避難街道。
そこを今、
大勢の避難民達が必死に走っている。
老人を支える者。
泣き叫ぶ子供を抱える母親。
荷車を押す男達。
誰もが恐怖に顔を歪めながら、
ただ前へ進み続けていた。
「止まるな!!」
「農園区画まで行けば中央本隊と合流できる!!」
不死隊員達の怒号が飛ぶ。
だが。
人々の表情に、
安堵はなかった。
誰もが分かっている。
後ろでは今も、
誰かが命を削って戦っていることを。
セシリアは息を切らしながら走る。
右手にはフェルト。
左手にはアーデルハイド。
幼い二人を連れながら、
必死に足を動かしていた。
まだ市街地区画。
農園入口までは、
あと少し。
あと少しで、
避難防衛線へ辿り着ける。
その時だった。
――ドォォォン!!
背後から、
凄まじい衝撃音が響く。
地面が震える。
避難民達が悲鳴を上げた。
セシリアも思わず振り返る。
遠く。
炎に包まれた夜の街。
その奥で、
蒼白い閃光が何度も弾けていた。
誰かが戦っている。
命を懸けて。
街を守るために。
人々を逃がすために。
セシリアは唇を噛む。
脳裏に浮かぶ。
家を出る前。
装甲を纏った、
レオンの背中。
優しくて。
不器用で。
誰よりも家族想いだった人。
戦いを捨てたはずの人。
それでも。
また戦場へ戻っていった。
自分達を守るために。
「……あなた」
小さく呟く。
涙が滲む。
だが、
立ち止まるわけにはいかなかった。
セシリアは強く子供達の手を握る。
「アデル、フェルト……もう少しよ」
震える声だった。
アーデルハイドは無言で頷く。
幼いながらに、
理解していた。
父が、
命を懸けていることを。
だからこそ、
泣かなかった。
ただ必死に前を向いて走る。
その姿を見て。
セシリアは胸が締め付けられる。
まだこんなに小さいのに。
こんな恐怖を、
背負わせてしまっている。
そして。
農園入口の灯りが、
ようやく視界に見え始めた。
避難誘導灯。
生存圏。
あと少し。
本当にあと少しだった。
セシリアは胸の前で、
祈るように手を握る。
「……あなた」
「どうか……無事でいて……」
避難民達が市街地出口へ差しかかった時だった。
――ギュルルルル……
不気味な音が、
建物の影から響いた。
先頭を走っていた避難民達が足を止める。
次の瞬間。
黒い影が、
路地裏から飛び出した。
「――ッ!!」
人型レムナント。
痩せ細った黒い身体。
異様に長い四肢。
青黒く発光する単眼。
そして。
その手には、
錆びた剣。
「敵襲!!」
護衛についていた不死隊員が即座に叫ぶ。
蒼白い刃が抜き放たれる。
だが。
遅かった。
人型レムナントは、
地を滑るように加速する。
「ぎゃぁぁぁぁっ!!」
避難民の一人が吹き飛ぶ。
血飛沫。
悲鳴。
一瞬で先頭集団が崩壊した。
「下がれ!!」
「子供を守れぇぇぇ!!」
不死隊員達が前へ出る。
迎撃。
蒼光が夜を裂く。
先頭の一体が両断される。
だが。
その直後。
建物の上。
横路地。
瓦礫の陰。
次々と、
新たな人型レムナントが姿を現した。
十数体。
完全な待ち伏せだった。
「くそっ……!!」
不死隊員の顔が歪む。
人型レムナント達が一斉に飛びかかる。
速い。
あまりにも速い。
剣閃。
一人の不死隊員の首が飛ぶ。
別の隊員が胸を貫かれる。
「ぐぁぁぁぁ!!」
蒼光が乱舞する。
だが数が違いすぎた。
一体を倒した瞬間、
別方向から刃が飛んでくる。
連携。
知性。
獣型とは明らかに違う。
「まだ市街地出口だぞ……!!」
「なんでこんな数が……!!」
誰かが絶望混じりに叫ぶ。
その瞬間。
最後尾の不死隊員が、
避難民達へ怒鳴った。
「走れぇぇぇぇ!!!」
「止まるなァァァァァ!!!」
次の瞬間。
黒い刃が、
その隊員の腹部を貫いた。
血を吐きながら。
それでも男は剣を振るう。
最後まで。
避難民達を守るように。
だが。
限界だった。
人型レムナント達が、
次々と不死隊員へ飛びつく。
蒼光が消える。
断末魔。
肉が裂ける音。
そして。
護衛部隊は、
数分も持たず壊滅した。
静寂。
いや。
違う。
――ガリ……ガリ……。
不気味な咀嚼音が響く。
避難民達が震えながら振り返る。
そこにいたのは。
新たな異形。
甲殻型レムナント。
四足。
黒い外殻。
巨大な顎。
虫のように歪んだ肉体。
それらが、
倒れた不死隊員達の死体へ群がっていた。
装甲ごと噛み砕く。
肉を引き裂く。
黒い顎が血塗れになる。
人型レムナント達は、
その周囲で静かに立っていた。
まるで。
狩りを終えた獣の群れのように。
「……ぁ……」
避難民の一人が腰を抜かす。
誰かが吐いた。
子供が泣き叫ぶ。
そして次の瞬間。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
恐慌が爆発した。
避難民達が一斉に走り出す。
押し合い。
転倒。
怒号。
泣き声。
地獄だった。
「押すな!!」
「子供がいるんだぞ!!」
誰かが叫ぶ。
だがもう誰も聞いていない。
後ろでは、
甲殻型レムナント達がゆっくり顔を上げていた。
青黒い単眼が、
逃げ惑う人間達を捉える。
次の瞬間。
――ギュルルルルル!!!
異形達が、
一斉に避難民へ向かって走り出した。
阿鼻叫喚。
市街地出口は、
完全な地獄へ変わった。
阿鼻叫喚の中。
セシリアは、
必死に子供達の手を握っていた。
周囲では、
避難民達が我先にと逃げ惑っている。
悲鳴。
怒号。
泣き声。
後方から迫る、
異形達の咆哮。
地獄だった。
それでも。
セシリアは足を止めなかった。
震える足を、
必死に動かす。
右手にはフェルト。
左手にはアーデルハイド。
小さな命達。
守らなければならない。
絶対に。
「走って……!」
かすれた声で叫ぶ。
アーデルハイドも、
涙を堪えながら走っていた。
フェルトは泣きじゃくりながら、
必死に母の手へしがみついている。
怖かった。
苦しかった。
今にも心が折れそうだった。
それでも。
セシリアの脳裏には、
あの時のレオンの背中が焼き付いていた。
――子供達を頼む。
最後に託された願い。
だから。
自分だけは、
絶対に立ち止まれなかった。
「あと少し……!」
農園区画の灯りが見える。
もう少しで。
もう少しで辿り着ける。
その瞬間だった。
背後。
至近距離で、
蒼白い閃光が炸裂した。
――ドゴォォォォォンッ!!!!
凄まじい爆発。
衝撃波。
地面が吹き飛ぶ。
「きゃぁぁぁぁっ!!」
避難民達が宙へ投げ出される。
セシリアもまた、
子供達を庇うように抱き寄せた。
次の瞬間。
世界が横転する。
石畳。
炎。
瓦礫。
何もかもが視界の中で回転した。
耳鳴り。
熱。
衝撃。
そして。
激しい痛み。
「――ッ……!」
地面へ叩きつけられる。
視界が霞む。
何が起きたのか分からない。
ただ。
腕の中にいる子供達だけは、
離すまいと必死に抱き締める。
遠くで誰かが叫んでいる。
泣き声。
銃声。
異形の咆哮。
だがそれすら、
徐々に遠ざかっていく。
セシリアの意識が揺れる。
霞む視界の中。
最後に見えたのは。
炎に染まった夜空だった。
「……レオン……」
かすれた声。
そして。
セシリア=セラフィーネの意識は、
静かに闇へ沈んだ。
暗かった。
耳鳴りがしていた。
何も聞こえない。
何も分からない。
アーデルハイドは、
冷たい石畳の上でゆっくり目を開けた。
視界が滲む。
頭が痛い。
身体中が熱かった。
「……ぁ……」
声にならない声が漏れる。
何が起きたのか、
すぐには理解できなかった。
炎。
煙。
崩れた街。
倒れている人達。
赤黒く染まった石畳。
その光景を見た瞬間。
アーデルハイドの意識が、
一気に現実へ引き戻される。
「……お母、さん……?」
掠れた声。
すぐ近く。
セシリアが倒れていた。
動かない。
瓦礫の下半分へ身体を挟まれたまま、
血を流している。
「お母さん……!」
アーデルハイドは慌てて這い寄った。
手を伸ばす。
冷たい。
嫌な予感がした。
「お母さん……起きて……!」
揺する。
返事はない。
その時だった。
――ガリ……。
不気味な音が響いた。
アーデルハイドの身体が凍る。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいた。
甲殻型レムナント。
黒い外殻。
巨大な顎。
虫のように歪んだ異形。
青黒い単眼が、
こちらを見ている。
そして。
その顎には、
赤黒い肉片が張り付いていた。
アーデルハイドの呼吸が止まる。
視線を辿る。
セシリアの身体。
腹部が大きく裂けていた。
瓦礫へ血が広がっている。
甲殻型レムナントは、
まるで獲物を貪る獣のように、
再びセシリアへ顔を近づけた。
――ガリッ。
肉を噛み砕く音。
「――ぁ……」
アーデルハイドの喉が震える。
理解したくなかった。
理解してはいけなかった。
だが。
目の前で起きている。
母が。
母が、
喰われている。
「いや……」
震える声。
「やめて……」
涙が零れる。
だが甲殻型レムナントは止まらない。
巨大な顎が、
血塗れの肉を引き裂く。
黒い体液と血が混ざり、
石畳を濡らしていく。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
絶叫。
その瞬間。
甲殻型レムナントの単眼が、
ゆっくりアーデルハイドへ向いた。
アーデルハイドの身体が硬直する。
逃げなければ。
分かっている。
でも身体が動かない。
恐怖で。
絶望で。
心が壊れそうだった。
その時だった。
「……おねぇ、ちゃん……」
小さな声。
アーデルハイドが振り返る。
少し離れた瓦礫の陰。
フェルトが倒れていた。
額から血を流し、
震えている。
「フェルト!!」
アーデルハイドは駆け寄ろうとした。
だが。
その前へ、
別の甲殻型レムナントが降り立つ。
「――ッ!!」
フェルトの顔が恐怖に染まる。
「おねぇちゃ……」
最後まで、
言葉は続かなかった。
巨大な顎が振り下ろされる。
鮮血が飛び散る。
アーデルハイドの視界が、
真っ赤に染まった。
「――――ぁ」
声が出ない。
呼吸もできない。
目の前で。
弟が。
フェルトが。
壊された。
「ぁ……ぁ……」
身体が震える。
涙が止まらない。
叫びたいのに、
喉が潰れたように声が出ない。
甲殻型レムナント達が、
ゆっくりアーデルハイドへ近づいてくる。
青黒い単眼。
滴る血。
異形の顎。
その瞬間。
幼い少女の世界は、
完全に壊れた。




