第7話 約束
レギアは少し戸惑いながら、
そっと紅茶へ口を付ける。
温かかった。
前に飲んだ時より、
ちゃんと味が分かる。
微かな甘み。
落ち着く香り。
気付けば、
張り詰めていた肩の力が少し抜けていた。
ガルドはそんな少女を見ながら、
静かに口を開く。
「……今日は、
今後の話をしておく」
空気が少し変わる。
レギアは小さく背筋を伸ばした。
ガルドは淡々と続ける。
「お前は当面、
帝国軍保護管理下へ置く」
「形式上は監視対象だ」
「だが、
研究材料にするつもりはない」
レギアの指先が、
カップを少し強く握る。
ガルドは静かな声で続けた。
「エマ=リーデルが、
今後お前の保護補助へ付く」
「少なくとも、
お前が十五になるまでは面倒を見る」
レギアが小さく目を見開く。
「……エマさんが?」
「ああ」
短い返答。
「生活面も、
教育も、
医療も、
全部こちらで手配する」
「母親の治療も続ける」
「だからお前は、
今は何も心配しなくていい」
「……生きることだけ考えろ」
その言葉に。
レギアは俯く。
胸の奥が熱かった。
信じられなかった。
家を失った。
父も失った。
全部終わったと思っていた。
なのに。
まだ自分を助けようとしてくれる人がいる。
レギアは小さく震える声で呟く。
「……どうして」
「わたし、
危ないのに」
ガルドは少しだけ黙る。
やがて。
低い声で言った。
「……危ないから切り捨てるなら、
帝国軍などとっくに終わっている」
レギアが顔を上げる。
ガルドは視線を逸らしたまま続けた。
「お前は暴走しかけながらも、
避難民を守った」
「兵士も斬らなかった」
「それが答えだ」
短い言葉。
だが。
その声には、
確かな信頼があった。
レギアは小さく息を呑む。
ガルドは紅茶を一口だけ飲み、
静かにカップを置いた。
そして。
テント奥へ視線を向ける。
「……あと」
低い声。
ガルドは立ち上がる。
黒鉄装甲が低く軋んだ。
そのまま、
テント奥の棚へ向かう。
しばらくして。
長い布包みを持って戻ってきた。
レギアの身体が、
小さく強張る。
分かった。
あれだった。
あの剣。
黒粒子を纏った、
変異した父の剣。
レギアの呼吸が浅くなる。
思い出す。
赤い視界。
壊したい衝動。
黒く崩れていくレムナント。
ガルドはそんな少女を見ながら、
静かに言った。
「……怯えるな」
低い声だった。
だが。
不思議と、
強制する響きではなかった。
ガルドは布包みを机へ置く。
「これは、
俺が責任を持って預かる」
レギアの瞳が揺れる。
ガルドは続けた。
「確かに、
あの力は異常だ」
「危険でもある」
「だが」
そこで一度、
言葉を切る。
「……お前を助けた事実まで、
否定する必要はない」
レギアは息を呑む。
ガルドの低い声が、
静かに続く。
「これは、
民を守って死んだお前の父親の意思だ」
「不思議な力はあった」
「だが、
最後までお前を守ろうとしていた」
「それだけは忘れるな」
レギアの瞳が、
大きく揺れた。
父の姿が脳裏へ浮かぶ。
血だらけでも。
最後まで剣を握っていた背中。
自分を庇った腕。
震える唇。
レギアは小さく俯く。
気付けば。
ぽたりと、
雫が膝へ落ちていた。
ガルドは何も言わない。
ただ静かに待っていた。
やがて。
低い声で続ける。
「……十五になったら、
帝都へ来い」
「その時、
これを返す」
レギアは涙を拭いながら、
小さく顔を上げる。
ガルドは相変わらず、
無骨な表情のままだった。
だが。
その目だけは、
以前より少しだけ温かく見えた。
「それまで、
生き延びろ」
短い言葉。
命令みたいな声だった。
けれど。
それはきっと。
不器用な激励だった。
数時間後。
黒衣隊本隊は、
帝国北東外周部都市ノルドラインを出発した。
大型輸送車両。
重装甲兵員輸送列車。
補給コンテナ。
黒鉄装甲の兵士達。
果てしなく続く軍列が、
ゆっくりと都市外周道路を進んでいく。
重低音のような駆動音が、
灰色の空へ響いていた。
空からは、
静かに天鱗粉が降り続けている。
その光景を。
都市外縁部の小高い丘から、
二人の少女が静かに見つめていた。
エマ=リーデル。
そして。
レギア=ノクス。
冷たい風が吹く。
レギアは軍用コートの裾を小さく握りながら、
去っていく黒衣隊を見つめていた。
巨大な軍列。
まるで黒い鉄の流れみたいだった。
その中心に。
きっと、
ガルド=フェンリルもいる。
レギアは小さく俯く。
胸の奥が、
少しだけ苦しかった。
エマはそんな少女を横目で見ながら、
ふっと小さく笑う。
「寂しい?」
レギアの肩が小さく揺れる。
すぐには答えられなかった。
しばらくして。
小さな声で呟く。
「……分からない」
正直な言葉だった。
怖い人だった。
初めて会った時は、
本当に処分されると思った。
なのに。
気付けば、
あの低い声を探している自分がいた。
レギアは去っていく軍列を見つめながら、
ぽつりと呟く。
「……もう、
会えないのかな」
エマは少しだけ目を細める。
風が栗色の髪を揺らした。
「将軍、
忙しい人だからねぇ」
少し困ったような笑み。
だが。
そのあと、
優しく続ける。
「でも、
あの人は約束を破るタイプじゃないわ」
レギアが小さく顔を上げる。
エマは軍列の先頭を眺めながら言った。
「十五になったら来いって、
言われたんでしょう?」
レギアは小さく頷く。
エマはふっと笑った。
「なら、
ちゃんと待ってるわよ」
「将軍、
見た目よりずっと律儀だもの」
レギアは少しだけ目を瞬かせる。
そして。
ほんの少しだけ。
小さく笑った。
エマはその表情を見て、
どこか安心したように息を吐く。
最初に出会った頃のレギアは、
もっと壊れそうな顔をしていた。
今も危うい。
それでも。
少しずつ、
ちゃんと前を見始めている。
エマは静かに空を見上げる。
灰色の空。
降り続ける天鱗粉。
終わらない世界。
だけど。
それでも。
この子には、
生きてほしいと思った。
その時だった。
遠く離れた軍列の先頭。
黒鉄装甲の巨大な影が、
ほんの一瞬だけこちらを振り返った気がした。
レギアが小さく目を見開く。
だが。
次の瞬間には、
軍列はゆっくりと雪煙の向こうへ消えていく。
静寂。
風の音だけが残った。
レギアは去っていった先を見つめたまま、
小さく呟く。
「……わたし、
生きる」
その声は小さかった。
けれど。
以前より、
ほんの少しだけ強かった。
黒衣隊本隊は、
ノルドラインを離れ帝都への帰路を進んでいた。
灰色の荒野。
崩壊した旧高速道路。
雪混じりの冷たい風。
重装甲輸送車列が、
低い駆動音を響かせながら進んでいく。
空には、
静かに天鱗粉が降っていた。
先頭車両。
指揮用大型装甲車内部。
ガルド=フェンリルは、
無言で窓の外を見つめていた。
黒鉄装甲。
巨大な身体。
変わらない威圧感。
だが。
その視線だけは、
どこか遠かった。
脳裏へ浮かぶ。
帝国北東外周部都市ノルドライン。
崩壊した街。
泣き叫ぶ避難民。
血塗れの防衛線。
そして。
黒髪の少女。
レギア=ノクス。
第11翼兵装へ適合する可能性を持つ少女。
本来なら、
即座に中央管理案件だった。
厳重拘束。
隔離。
研究対象。
あるいは――処分。
帝国上層部なら、
迷わずそう判断しただろう。
ガルドは静かに目を閉じる。
今まで。
似たような光景を、
嫌というほど見てきた。
戦争孤児。
侵食者。
適合失敗者。
壊れた子供達。
守れなかった命。
泣き叫ぶ母親。
瓦礫の下の小さな手。
将軍として、
数え切れない戦場を渡ってきた。
帝国を守る為。
民を守る為。
必要な犠牲だと、
何度も自分へ言い聞かせてきた。
全員は助けられない。
神ではない。
万能でもない。
だから切り捨てる。
感情を押し殺し、
合理を選び続ける。
それが、
黒衣隊将軍ガルド=フェンリルだった。
実際。
今までにも、
見捨てた子供はいた。
救えなかった人間も、
山ほどいる。
全てを抱えれば、
軍は壊れる。
帝国も守れない。
だから。
線引きは必要だった。
……必要だったはずだった。
だが。
ガルドは小さく息を吐く。
今回は、
どうしても割り切れなかった。
脳裏へ浮かぶ。
震えながら紅茶を抱えていた小さな手。
「どうして」
「わたし、
危ないのに」
あの声。
あの目。
そして。
最後まで娘を守ろうとした、
父親の背中。
ガルドはゆっくりと窓の外を見る。
荒野の彼方。
灰色の世界。
その奥に、
帝都グラン=ヴァルディアがある。
そして。
帝国最深部には、
あの“黒翼”が眠っている。
第11翼兵装。
歴代適合者全員が発狂した、
呪われた翼。
もし。
もし本当に、
レギアが適合しているのなら。
あの少女はいずれ、
帝国の運命そのものへ関わる存在になる。
希望になるか。
災厄になるか。
それはまだ、
誰にも分からない。
だが。
少なくとも。
あの時。
ノルドラインで怯えていた少女を。
兵器として扱いたくはなかった。
ガルドは静かに目を閉じる。
低い駆動音が、
装甲車内部へ響いていた。
やがて。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……生き延びろ、レギア」
その声だけが。
静かに、
灰色の車内へ消えていった。




