第6話 別れそして旅立ち 2
数日が経った。
だが。
外周部都市には、
未だ戦場の傷跡が色濃く残っていた。
崩壊した防壁。
焼け焦げた街並み。
瓦礫と化した居住区。
至る所で、
復旧作業が続いている。
重機の駆動音。
補修術式の光。
負傷兵を運ぶ医療班。
避難民への物資配給。
外周都市全体が、
慌ただしく動き続けていた。
完全な勝利など、
この時代には存在しない。
レムナントを退けても、
必ず何かが失われる。
それが、
人類と終焉世界の日常だった。
空は灰色だった。
薄く降り続ける天鱗粉が、
壊れた都市を静かに覆っている。
――帝国北東外周部都市ノルドライン。
その一角。
黒衣隊仮設兵舎区域。
レギア=ノクスは、
簡易兵舎の窓際へ座りながら外を見つめていた。
まだ身体は完全には回復していない。
背中の奥に残る鈍い熱。
時折走る疼き。
黒粒子侵食以降、
原因不明の微熱も続いていた。
だが。
あの日より、
身体は少しだけ軽かった。
部屋の中は静かだった。
軍用簡易ベッド。
小さな机。
暖房機。
壁へ掛けられた黒衣隊用コート。
最低限の部屋。
だが、
居場所を失ったレギアにとっては、
十分すぎるほど暖かい場所だった。
そして。
この部屋には、
常に一人の看護師が出入りしていた。
数日前。
ガルド=フェンリルのテントで、
最初にレギアへ声を掛けた女性看護師だった。
名は、
エマ=リーデル。
二十代後半ほど。
栗色の短髪。
落ち着いた灰色の瞳。
軍属医療班所属。
元々は前線医療担当だったらしい。
だが現在は、
レギア専属補助員として配置されていた。
正式には監視保護対象への医療補助。
しかし実際は、
ほぼ世話係に近かった。
それも。
ガルド直々の命令である。
最初に聞いた時、
周囲の兵士達はかなり驚いたらしい。
黒衣隊将軍ガルド=フェンリル。
冷酷。
鉄血。
帝国最強の殲滅将軍。
そんな男が、
一人の少女へ専属看護師を付けた。
兵士達の間でも、
小さな噂になっていた。
だが。
レギア自身は、
まだその意味をよく理解できていなかった。
コンコン。
小さなノック音。
直後。
扉が開く。
「おはよう、レギア」
エマだった。
柔らかな声。
両手には、
湯気の立つ食事トレーがある。
温かなスープ。
黒パン。
簡易サラダ。
そして小さな紅茶。
レギアは少し目を瞬かせる。
「あ……」
エマは慣れた様子で机へトレーを置いた。
「今日はちゃんと食べること」
「バルク先生、
また怒るからね」
少し冗談っぽい声だった。
レギアは小さく頷く。
エマは自然な動きで、
レギアの額へ手を当てた。
熱を確認している。
冷たくて優しい手だった。
「……うん、
昨日より下がってる」
ほっとしたような声。
その反応に。
レギアは少しだけ戸惑う。
こんな風に、
誰かが自分を心配してくれることへ。
まだ慣れていなかった。
エマは椅子へ腰掛けながら、
ふと小さく笑う。
「将軍、
見た目怖いけど案外ちゃんと見てるのよ」
レギアが小さく顔を上げる。
エマは紅茶を指差した。
「あなた、
あの日ほとんど凍えてたでしょ」
「だから“暖かい部屋を使わせろ”って、
医療班にかなり強く言ってきたの」
レギアは少し目を見開く。
脳裏に浮かぶ。
黒鉄装甲。
鋭い目。
無骨な声。
そして。
――冷えてるだろ。
あの言葉。
レギアは小さく俯く。
胸の奥が、
少しだけ温かくなる。
エマはそんな少女を見ながら、
優しく微笑んだ。
「だから安心しなさい」
「少なくとも、
ここにいる間は一人じゃないわ」
その言葉に。
レギアの指先が、
小さく毛布を握る。
一人じゃない。
その言葉が。
壊れかけていた少女の心へ、
ゆっくりと染み込んでいった。
さらに数日後。
帝国北東外周部都市ノルドラインでは、
ようやく戦後処理が一段落し始めていた。
崩壊した外壁の補修。
負傷兵の後送。
避難民の再配置。
黒衣隊による周辺警戒。
都市全体は未だ慌ただしかったが、
最悪の混乱期は脱しつつある。
そして今日。
黒衣隊本隊が、
帝都グラン=ヴァルディアへの帰還を開始する日だった。
兵舎区域は朝から騒がしい。
大型輸送車両。
重武装兵。
補給コンテナ。
積み込み作業。
響き続けるエンジン音。
歴戦の黒衣隊員達が、
次々と帰還準備を進めていた。
その喧騒から少し離れた医療兵舎。
レギア=ノクスは、
窓際からその光景を静かに見つめていた。
黒衣隊が出ていく。
つまり。
ガルド=フェンリルも、
この都市を離れる。
理由は分からない。
けれど。
胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
そんな時だった。
コンコン。
扉がノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、
黒衣隊の若い通信兵だった。
エマ=リーデルが振り返る。
「どうしたの?」
通信兵は一度レギアへ視線を向けた後、
小さく敬礼する。
「エマ医療補助員へ伝令です」
「ガルド将軍がお呼びです」
空気が少し変わる。
エマが目を瞬かせた。
「……将軍が?」
通信兵は頷く。
「本隊出発前に、
至急司令テントへ来るようにとのことです」
短い伝令。
それだけ告げると、
通信兵は再び敬礼し部屋を後にした。
扉が閉まる。
静寂。
エマは少しだけ困ったように息を吐く。
「……珍しいわね」
ガルドから直接呼び出される事など、
そう多くない。
しかも出発直前。
何かあったのだろうか。
エマは少し考え込む。
その横で。
レギアは無意識に毛布を握っていた。
胸の奥が、
妙にざわつく。
ガルドが呼び出した。
その事実だけで、
何故か嫌な予感がした。
エマはそんなレギアへ気付き、
優しく笑う。
「大丈夫」
「すぐ戻るわ」
安心させるような声だった。
だが。
レギアの胸騒ぎは、
消えなかった。
窓の外では。
黒衣隊の輸送車列が、
ゆっくりと動き始めていた。
黒衣隊司令テント。
室内には、
出発直前特有の慌ただしい空気が漂っていた。
作戦資料。
通信端末。
輸送経路図。
副官達が忙しなく動き回っている。
その中央。
ガルド=フェンリルは、
変わらず巨大な身体で机へ向かっていた。
黒鉄装甲。
鋭い目。
重い威圧感。
エマ=リーデルは、
静かに敬礼する。
「エマ医療補助員、
参りました」
ガルドは視線だけを向ける。
「座れ」
短い声だった。
エマは少し戸惑いながらも、
向かい側へ腰を下ろした。
副官達は空気を察したのか、
無言でテント外へ出ていく。
やがて。
室内には、
ガルドとエマだけが残った。
静寂。
遠くで輸送車両の駆動音だけが響いている。
ガルドはしばらく無言だった。
やがて。
低い声で口を開く。
「……レギアの状態は」
エマはすぐ答える。
「身体状態は安定傾向です」
「黒粒子反応も、
現時点では再発していません」
「ただ精神状態はまだ不安定です」
「悪夢も続いています」
ガルドは静かに聞いていた。
そして。
小さく息を吐く。
「……そうか」
短い返答。
だが。
その声には、
僅かな安堵が混じっていた。
エマは少しだけ目を細める。
やはり。
この人は、
ちゃんとあの子を心配している。
ガルドは机上の書類へ視線を落としたまま、
低い声で続ける。
「本題に入る」
空気が少し変わる。
エマも自然と姿勢を正した。
ガルドは静かに言った。
「……レギア=ノクスの保護監督任務を、
お前へ正式任命したい」
エマが小さく目を見開く。
ガルドは続ける。
「期間は、
最低でもレギアが十五になるまでだ」
「医療管理」
「精神補助」
「生活支援」
「可能な限り、
普通の子供として育ててやってほしい」
エマは言葉を失う。
それは。
ただの医療補助任務ではない。
事実上の、
保護者任命に近かった。
ガルドは静かな声で続けた。
「……あの子は危うい」
「だがまだ戻れる」
「まだ、
壊れ切っていない」
その声には、
強い確信があった。
ガルドはさらに続ける。
「それと」
「母親の治療にも携わってほしい」
エマの表情が変わる。
レギアの母――リゼ=ノクス。
現在も重傷状態で、
医療区画へ収容されている。
精神負荷も大きく、
未だ安定していない。
ガルドは低い声で言う。
「レギアにとって、
母親は最後の家族だ」
「どちらか片方だけでは駄目だ」
「両方生かす必要がある」
静かな声だった。
だが。
その言葉には、
強い意志があった。
エマはしばらく黙っていた。
ガルドほどの立場の人間が。
一人の少女へ、
ここまで肩入れする。
それが少し意外だった。
ガルドはそんなエマを見ながら、
さらに続ける。
「……当然、
負担は理解している」
「だから条件も用意する」
エマが顔を上げる。
ガルドは机上の書類を一枚押し出した。
そこには、
帝都中央居住区の住所と支援認可印が記されている。
「お前の両親」
「弟達」
「全員、
帝都保護区域へ移住許可を出す」
エマの目が見開かれる。
ガルドは淡々と続けた。
「住居」
「生活保障」
「医療補助」
「教育支援」
「全部こちらで持つ」
「お前の家族には、
俺が責任を持つ」
エマは息を呑む。
帝都保護区域。
それは、
一般市民では滅多に入れない安全区域だった。
外周部より遥かに生存率が高い。
弟達を、
安全な場所へ移せる。
それだけで、
どれほど価値があるか。
ガルドは最後に、
静かな声で言った。
「……頼めるか」
その言葉だけだった。
命令ではなかった。
脅しでもない。
ただ。
一人の少女を守ってほしいという、
不器用な願いだった。
エマはしばらく黙っていた。
脳裏へ浮かぶ。
小さく怯えながらも、
必死に笑おうとしていたレギアの顔。
夜中に悪夢で震えていた姿。
紅茶を両手で抱えていた小さな指。
エマはゆっくりと立ち上がる。
そして。
静かに敬礼した。
「……謹んで、
お受けします」
ガルドは小さく目を閉じる。
ほんの僅か。
肩の力が抜けたように見えた。
「……感謝する」
低い声だった。
その時だけ。
鉄血将軍ではなく。
ただ、
少女を守ろうとしている大人の顔に見えた。
そして。
ガルドは無言で懐へ手を入れる。
取り出したのは、
重厚な黒革袋だった。
金属音。
中には大量の帝国金貨が入っている。
エマが目を見開く。
「し、将軍……これは」
ガルドはその袋を、
半ば強引にエマへ握らせた。
ずしりと重い。
一般兵数年分に匹敵しかねない額だった。
ガルドは視線を逸らしたまま言う。
「必要な物を揃えろ」
「服でも、
本でも、
菓子でもいい」
「……あの子は、
今まで子供らしい物を持っていない」
低い声。
不器用だった。
だが。
その言葉には、
確かな優しさが滲んでいた。
エマは一瞬言葉を失う。
やがて。
ふっと小さく笑った。
「……はい」
「責任持って使わせていただきます」
ガルドは小さく頷く。
そして。
最後に、
短く言った。
「……レギアを頼む」
その一言だけだった。
だが。
それだけで十分だった。
エマは静かに敬礼する。
そして。
少しだけ悪戯っぽく笑った。
「安心してください」
「レギアには、
ちゃんと美味しい紅茶の飲み方も教えておきますわ」
一瞬。
ガルドが僅かに眉を動かす。
「……余計なことを吹き込むな」
ぶっきらぼうな返答。
だが。
エマは見逃さなかった。
ほんの少しだけ、
将軍の空気が柔らかくなった事を。
エマは小さく笑いながら踵を返す。
その時。
背後から、
再びガルドの低い声が響いた。
「……待て」
エマが振り返る。
ガルドは机へ視線を落としたまま言った。
「出発前に、
レギアをここへ連れて来てくれ」
エマが静かに目を細める。
「お別れですか?」
数秒の沈黙。
やがて。
ガルドは短く答えた。
「……少し話す」
それだけだった。
だが。
その声はどこか、
普段より少しだけ静かだった。
数十分後。
黒衣隊司令テント前。
レギア=ノクスは、
少し緊張した様子で立っていた。
隣には、
エマ=リーデル。
巨大な黒布製司令テント。
周囲には重武装の黒衣隊兵士達。
輸送車列。
響く駆動音。
本隊出発直前の慌ただしい空気。
その中心にいるだけで、
自然と身体が強張る。
レギアは小さく毛布を握った。
エマがそんな少女を見て、
優しく微笑む。
「大丈夫」
「怒られるわけじゃないわ」
レギアは小さく頷く。
だが。
胸の奥の緊張は消えなかった。
エマは入口警備兵へ軽く合図する。
兵士が無言で頷き、
テント入口を開いた。
「失礼します」
二人が中へ入る。
司令テント内部は、
以前と変わらなかった。
大型机。
作戦地図。
通信端末。
積み上がった資料。
そして。
中央。
ガルド=フェンリルが、
巨大な身体で椅子へ座っていた。
黒鉄装甲。
鋭い目。
変わらない威圧感。
レギアの肩が、
小さく震える。
ガルドはしばらく無言で、
レギアを見つめていた。
やがて。
低い声で言う。
「……来たか」
短い言葉。
それだけだった。
だが。
以前ほど怖く感じなかった。
エマは静かに口を開く。
「将軍、
お連れしました」
ガルドは小さく頷く。
「ご苦労」
そして。
視線だけをエマへ向けた。
「……少し外してくれ」
エマは一瞬だけレギアを見る。
不安そうな黒髪の少女。
だが。
エマは優しく微笑み、
小さく頷いた。
「すぐ外にいるわ」
安心させるような声。
レギアは小さく頷き返す。
エマは静かに一礼し、
テントを後にした。
扉が閉まる。
静寂。
暖房機の蒸気音だけが、
小さく響いていた。
二人きりだった。
レギアは無意識に、
少し背筋を伸ばす。
ガルドはそんな少女を見ながら、
低い声で言った。
「……座れ」
レギアは小さく頷き、
向かい側の椅子へ腰掛ける。
椅子が小さく軋む。
しばらく沈黙が続いた。
だが。
その空気は、
以前より少しだけ柔らかかった。
やがて。
ガルドはゆっくり立ち上がる。
黒鉄装甲が低く軋んだ。
そして。
前回と同じように、
テント奥の簡易給湯器へ向かう。
レギアは小さく目を瞬かせた。
ガルドは無言のまま、
棚から茶葉缶を取り出す。
湯を沸かす。
静かな蒸気音。
慣れた手付き。
無骨な大きな手。
だが。
紅茶を淹れる動きだけは、
妙に丁寧だった。
ふわりと、
温かな香りが広がっていく。
落ち着く匂いだった。
ガルドはしばらく蒸らした後、
静かに金属カップへ紅茶を注ぐ。
そして。
一つをレギアの前へ置いた。
琥珀色の液体。
揺れる湯気。
微かに甘い香り。
前と同じだった。
ガルドは向かい側へ座りながら、
低い声で言う。
「……前みたいに凍えてないなら、
今回はちゃんと味が分かるだろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だが。
ほんの少しだけ。
冗談みたいにも聞こえた。




