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第2巻 第1話 黒鉄の少女

レギアは帝都の空を見上げていた。


灰色の空。


降り続く雪。


空を覆う巨大結界カーテンの淡い光が、白銀の雪雲を静かに照らしている。


巨大封印塔。


重武装飛空艦。


黒煙を吐き出す工業区画。


ヴァルグリム帝国――帝都グラン=ヴァルディア。


人類最大の軍事国家。


その中心。


冷たい雪が、レギアの頬へ静かに落ちる。


少女は小さく目を細めた。


雪を見ると、思い出す。


故郷のことを。


まだ。


何も失っていなかった頃を。


――帝国北東外周部都市ノルドライン。


雪と蒸気の街だった。


巨大工場群から立ち昇る白煙。


朝から響く機械音。


蒸気機関車の警笛。


石畳へ積もる白雪。


帝都ほど大きくはない。


だが、人々は懸命に生きていた。


工場で働く者。


防壁整備を行う者。


軍へ志願する者。


誰もが、この時代を生き抜くために今日を戦っていた。


その街の外れ。


小さな集合住宅の一室。


「レギア、起きなさい」


優しい声だった。


まだ幼いレギアは、毛布へ顔を埋めたまま小さく唸る。


「……さむい」


「今日は雪が強いからね」


母は少し笑いながらカーテンを開けた。


白い光が部屋へ差し込む。


窓の外では雪が静かに降っていた。


「お父さん、もう行っちゃうわよ」


その言葉で、レギアは慌てて飛び起きた。


「やだ!」


小さな足で床を駆ける。


居間では、一人の男が軍用コートを羽織っていた。


レギアの父だった。


ヴァルグリム帝国軍所属。


外周防衛部隊の兵士。


高い背。


少し厳しい顔。


だが娘を見る目だけは優しかった。


「おはよう、レギア」


「お仕事?」


「ああ」


父はしゃがみ込み、レギアの頭を撫でる。


大きな手だった。


油と鉄の匂いがした。


レギアはその匂いが好きだった。


「今日は外壁巡回だ」


「すぐ帰ってくる?」


「もちろんだ」


父はそう言って笑った。


レギアはそれを信じていた。


父は強い。


怪物なんかに負けない。


幼いレギアは、本気でそう思っていた。


食卓には温かなスープが並ぶ。


黒麦パン。


簡素な燻製肉。


決して豪華ではない。


それでも、レギアはこの時間が好きだった。


母の作るスープは温かかった。


父は不器用だったが、よく話をしてくれた。


工場区で起きたこと。


防壁のこと。


昔の戦友の話。


そして時々、こう言った。


「強くなれ、レギア」


父は窓の外の雪景色を見ながら呟く。


「この時代は、弱いままじゃ生きられない」


レギアは難しい顔をした。


すると父は少し困ったように笑う。


「でもな、本当に強い奴っていうのは――誰かを守れる奴のことだ」


幼いレギアには、まだよく分からなかった。


それでも。


父の言葉は、不思議とずっと心に残っていた。


その日も。


ノルドラインには、穏やかな雪が降っていた。


まだ。


誰も知らなかった。


この街へ、終わりが近づいていることを。


ノルドラインの冬は厳しかった。


朝になれば窓ガラスは凍り付き、

夜になれば外気温は氷点下を下回る。


それでも人々は生きていた。


蒸気暖房の熱気。


工場区から流れる鉄の匂い。


雪道を走る輸送列車。


白い息を吐きながら働く人々。


この街には、この街の暮らしがあった。


幼いレギアもまた、

そんな日常の中で育っていく。


朝は学校。


昼は工場区近くの市場。


夕方には母の買い物を手伝い、

夜になれば父の帰りを待った。


外周部都市の子供達は早く大人になる。


戦争が近いからだ。


学校では読み書きだけではなく、

防災訓練や簡易戦術教育も行われていた。


警報が鳴った時の避難経路。


レムナント遭遇時の行動。


軍用拳銃の基礎知識。


「外壁が破られた場合、最優先は避難」


教師が真剣な声で説明する。


教室の窓の外には、

巨大な防壁が見えていた。


都市全域を囲む鋼鉄壁。


幾重にも並ぶ対空砲台。


探照灯。


監視塔。


ノルドラインの人々にとって、

それは日常の景色だった。


だが幼いレギアは、

あまりそういう授業が好きではなかった。


怖かったからだ。


レムナント。


外の世界。


怪物。


死。


その言葉を聞くだけで胸がざわつく。


だからレギアは、

いつも授業中に窓の外を見ていた。


降り積もる雪。


白い街並み。


平和そうな景色。


それを見ている方が好きだった。


放課後。


市場通りでは、湯気の立つ屋台が並んでいた。


熱い黒麦パン。


鉄鍋シチュー。


蒸かし芋。


香辛料の効いた燻製肉。


賑やかな笑い声。


兵士達の談笑。


子供達のはしゃぐ声。


母は買い物袋を抱えながら、

少し困ったように笑う。


「レギア、またぼーっとしてる」


「……見てただけ」


「何を?」


レギアは少し考えてから答えた。


「みんな」


母は優しく目を細める。


「そうね。今日は平和だから」


その言葉を、

レギアは何となく覚えていた。


今日は平和。


つまり。


平和じゃない日もあるのだと。


外周部都市では、

それが当たり前だった。


夜。


帰宅した父は珍しく無口だった。


軍用コートには雪が積もり、

黒い手袋には薄く血が付いている。


レギアは気付かなかった。


だが母は気付いていた。


一瞬だけ表情が曇る。


「……また?」


父は小さく頷いた。


「南側で小規模侵攻だ」


レギアには意味が分からない。


父は娘へ聞こえないように、

静かな声で続ける。


「最近増えてる」


「外壁の反応もおかしい」


「……嫌な感じがする」


母は黙り込む。


暖房の蒸気音だけが部屋へ響いていた。


その時だった。


不意に。


ゴォン――――。


遠くで重い警鐘が鳴った。


レギアが顔を上げる。


父の目が変わった。


一瞬で。


さっきまでの優しい父親ではない。


帝国兵士の顔だった。


窓の外。


遠くの空が、赤く光っている。


都市外壁方向だった。


続いて。


第二警報。


第三警報。


街全体へ、機械音声が響き渡る。


『外壁第五防衛層にて戦闘発生』


『全市民は避難準備を開始してください』


『繰り返します――』


レギアの心臓が強く脈打った。


父が立ち上がる。


軍用剣を掴む。


銃を腰へ装着する。


母が不安そうに父を見る。


「あなた……」


「すぐ戻る」


短い言葉。


だが。


その声だけで、

レギアは何かがおかしいと理解した。


父はレギアの前へしゃがみ込む。


「レギア」


大きな手が頭へ置かれる。


「母さんを守れ」


レギアは小さく頷いた。


父は少しだけ笑った。


だがその笑顔は、

どこか無理をしているように見えた。


そして。


父は雪の降る夜へ飛び出していく。


扉が閉まる。


その瞬間。


レギアはまだ知らなかった。


この夜が。


自分の人生を変えることになると。


父が出て行ってから、

街の空気は明らかに変わっていた。


警報音は止まらない。


外では装甲車両の走行音が響き続け、

窓の外を無数の帝国兵が駆け抜けていく。


雪の降る夜だった。


だが。


街に漂う空気は異様に熱かった。


不安。


焦燥。


恐怖。


それらが街全体を包み込んでいる。


母は急いで避難の準備を進めていた。


防寒具。


水筒。


保存食。


最低限の荷物だけを布袋へ詰め込んでいく。


「レギア、こっちへ」


母の声は優しかった。


だが、

その手は少し震えていた。


レギアは黙って母の隣へ座る。


遠くで砲撃音が響く。


低い振動が床を揺らした。


その度に、

集合住宅全体が小さく軋む。


『外壁第五防衛層にて戦闘継続中』


『住民は避難シェルターへの移動を――』


機械音声が街へ響く。


レギアは膝を抱えながら窓の外を見た。


雪。


黒煙。


赤い光。


防壁方向の空が赤く染まっている。


レギアは小さく呟く。


「……お父さん」


母は手を止めなかった。


止めたら、

不安に飲み込まれてしまいそうだったから。


「大丈夫」


母は自分に言い聞かせるように笑う。


「あの人は強いもの」


レギアは小さく頷いた。


父は強い。


黒衣隊は強い。


ノルドラインの人々にとって、

黒衣隊は英雄だった。


ヴァルグリム帝国通常騎士団。


外周防衛を担う主力部隊。


黒灰色の軍服。


帝国剣。


重装甲。


どれだけレムナントが侵入しても、

最後には必ず街を守ってきた。


だからきっと今回も大丈夫。


幼いレギアは、

まだそう信じていた。


やがて。


集合住宅全体へ避難指示が出た。


人々が慌ただしく外へ出ていく。


泣き声。


怒号。


慌てる足音。


母はレギアの手を握った。


「行くわよ」


外は吹雪だった。


雪が強い。


吐く息が白い。


避難民達が列を作り、

警備兵の誘導に従って進んでいく。


周囲には武装した帝国兵が展開していた。


自動小銃。


携行式照明。


対レムナント装備。


誰もが緊張した表情をしている。


遠方では砲撃の閃光が断続的に見えていた。


防壁付近だった。


「急げ!」


「立ち止まるな!」


兵士達の怒声が飛ぶ。


レギアは母と手を繋ぎながら、

必死についていく。


その時だった。


遠くで歓声が上がった。


避難民達が顔を上げる。


雪煙の向こう。


黒い軍服の集団が見えた。


黒衣隊だった。


「黒衣隊だ……!」


誰かが安堵したように呟く。


兵士達が一斉に道路を開ける。


雪を蹴り上げながら、

黒衣隊が高速で駆け抜けていく。


その先頭。


レギアは見つけた。


父だった。


黒灰色の重装コート。


帝国剣。


肩へ積もる雪。


だが。


その横顔は、

家にいた時とはまるで違った。


鋭い。


冷たい。


周囲を見据える目は、

完全に戦場の兵士だった。


「前方交差路、防衛線展開!」


「射撃隊、右側警戒!」


怒声が響く。


黒衣隊が一斉に武器を構えた。


次の瞬間。


建物の影から、

黒い異形が飛び出した。


人型レムナント。


赤い単眼。


裂けた口。


異様に長い腕。


避難民から悲鳴が上がる。


だが。


黒衣隊は動じなかった。


「撃てッ!!」


銃声が響く。


火花。


硝煙。


レムナントの身体へ無数の弾丸が叩き込まれる。


しかし止まらない。


怪物は咆哮しながら突撃してくる。


その瞬間。


父が前へ出た。


雪を蹴る。


帝国剣がレムナントの腕を受け止める。


火花。


重い衝撃。


父の身体が僅かに沈む。


だが止まらない。


「ォォォォッ!!」


踏み込み。


横薙ぎ。


赤い単眼が断ち切られる。


黒い体液が雪へ飛び散った。


怪物が崩れ落ちた。


周囲から歓声が上がる。


だが。


父は止まらない。


次のレムナントへ向かっていく。


黒衣隊も続く。


剣戟。


銃撃。


怒号。


雪の中で、

帝国兵達が怪物を押し返していく。


レギアは息を呑んでいた。


初めて見た。


父が戦う姿を。


優しい父親ではない。


街を守る兵士の姿を。


怖かった。


でも。


少しだけ、

格好いいと思ってしまった。


やがて。


最後のレムナントが撃ち倒される。


避難民達から安堵の声が漏れた。


「助かった……」


「黒衣隊が来てくれた……!」


兵士達も小さく息を吐く。


父は周囲を警戒しながら、

部隊へ指示を飛ばしていた。


まだ終わっていない。


そういう顔だった。


その時。


不意に。


街全体を揺らすほどの轟音が響いた。


空気が震える。


遠方。


防壁方向だった。


全員の顔が変わる。


次の瞬間。


機械音声が緊急警報へ切り替わった。


『第七避難経路付近、防壁突破』


『レムナント侵入多数』


『迎撃部隊急行』


『繰り返します――』


その言葉と同時に。


父の表情が、

静かに変わった。

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