第2巻 プロローグ
ルミナス教皇国――首都聖都ルクス=エリア。
かつて世界でもっとも神に近い国と呼ばれた場所だった。
純白の聖堂群。
幾重にも重なる祈りの鐘。
空を覆う巨大結界。
黄金の光に包まれた宗教国家。
だが。
その栄光は、既に終わっていた。
崩壊した街並み。
砕け散った白亜の塔。
大地へ突き刺さる無数の瓦礫。
聖都全域は、既に原型を留めていなかった。
黒煙が空を覆う。
炎が崩壊都市を赤く照らしている。
終灰が降っていた。
まるで世界そのものが燃え尽きた後の灰のように。
街の至る場所に、レムナントの残骸が転がっている。
四肢を断ち切られた異形。
潰れた単眼。
黒い体液を流しながら沈黙する怪物達。
だが。
倒れているのは、怪物だけではなかった。
民間人。
ルミナス教皇近衛軍。
ヴァルグリム帝国兵。
誰もが等しく死んでいた。
折れた剣。
砕けた銃。
千切れた軍旗。
白銀の聖印旗は血と灰に汚れ、
黒鉄の帝国旗は半ば焼け落ちている。
瓦礫の隙間から覗く無数の手。
助けを求めるように空へ伸びたまま動かない腕。
崩れた建物の下敷きになった兵士達。
焼け焦げた遺体。
原形すら残っていない肉片。
聖都全域が、巨大な墓場と化していた。
静かだった。
あれほど激しかった戦闘音は、もう存在しない。
聞こえるのは。
燃え続ける炎の音だけ。
そして――。
聖都中央。
完全崩壊した大聖堂跡地。
巨大なドームは消失し、
天井だったはずの場所から暗黒の空が見えていた。
崩落した地盤。
裂けた大地。
その最深部。
まるで地の底のような巨大空洞。
そこだけは、異様だった。
金色の羽が舞っている。
無数に。
空間そのものを埋め尽くすほど大量に。
淡い黄金光を放ちながら、
静かに、
ゆっくりと。
まるで神の亡骸が朽ちていくように。
その中心。
崩壊した祭壇跡。
血。
瓦礫。
黄金粒子。
その全ての中央で。
一人の少女が、静かに立っていた。
俯いたまま。
動かない。
長い黒髪。
血に濡れた黒い軍服。
細い肩。
だが。
少女の背中から伸びるものだけが、
この世界の理から完全に外れていた。
六枚。
三対の翼。
黒。
ただの黒ではない。
深淵のような漆黒。
そして翼の内部を走る、
金色の光。
黒と金が混ざり合い、
脈動している。
翼は機械にも見えた。
生物にも見えた。
装甲。
骨格。
羽。
結晶。
無数の黒金粒子を放ちながら、
ゆっくりと空間を侵食している。
その翼が微かに開くだけで。
周囲へ散らばっていた黄金の羽が、
震えるように浮かび上がった。
まるで。
神そのものが跪いているかのように。
――――ヴァルグリム帝国。
世界北方最大領土を持つ軍事国家。
黒鉄の国。
そう呼ばれていた。
終末戦争以降。
多くの国家が宗教と封印に縋る中、
ヴァルグリムだけは違った。
祈らない。
縋らない。
神の救済を待たない。
人類は、人類自身の力で生き残る。
それが帝国の思想だった。
国土の大半は雪と鋼鉄に覆われている。
巨大工業都市。
無数の兵器工場。
超大型列車網。
重武装要塞都市。
空を埋める防空砲台。
地平線まで続く軍用機甲部隊。
国そのものが、一つの巨大兵器だった。
帝国市民は幼少期から戦闘教育を受ける。
生き残るため。
奪われないため。
怪物に喰われないため。
そして。
神に滅ぼされないために。
その思想は軍にも色濃く現れていた。
ヴァルグリム帝国軍。
総兵力およそ百二十万。
世界最大規模。
だが。
ヴァルグリム帝国は、
決して狂った軍事国家というわけではなかった。
帝都では蒸気暖房が街を温める。
雪の降る石畳を、
通学途中の子供達が駆けていく。
工業区では職人達が巨大機械を整備し、
市場では焼き立ての黒パンと温かなスープが並ぶ。
夜になれば酒場には兵士達が集まり、
誰かが演奏する古い楽器の音色が響く。
人々は笑う。
恋をする。
家族を愛する。
明日を願う。
それは他国と何も変わらない、
普通の人々の暮らしだった。
ただ一つ違うのは。
誰もが、
戦場を知っていること。
父が戦死した者。
母をレムナントに喰われた者。
兄弟を失った者。
この国では、
戦争と死は遠い話ではない。
だからこそ人々は強くあろうとする。
涙を流しながら。
歯を食いしばりながら。
今日を生きていた。
そして。
そんな黒鉄の国から、
もう一つの物語が始まる。
光ではない。
祈りでもない。
神に抗うための翼。
世界を変える、
もう一人の少女の物語。
翼に選ばれた、
黒翼の少女の物語が。
雪が降っていた。
外周部都市連結列車が、
低い蒸気音を響かせながら停車する。
白い蒸気がホームを覆った。
重厚な黒鉄扉が開く。
軍人。
技術者。
学生。
多くの人々が列車から降りていく中。
一人の少女が静かに足を踏み出した。
黒髪。
紅い瞳。
漆黒のコート。
年齢は十代半ばほど。
細い身体とは裏腹に、
その瞳だけが異様なほど静かだった。
少女――レギア=ノクス。
彼女はホームへ降り立つと、
ゆっくりと帝都を見上げた。
空を覆う《カーテン》。
幾重にも連なる封印塔。
雪の中を走る武装列車。
重武装兵士達。
巨大工業都市。
外周部都市とは何もかもが違う。
ここが。
ヴァルグリム帝国の中心。
人類最大の軍事国家。
そして。
帝国中央軍学校の存在する場所だった。
周囲では、
同年代の少年少女達が緊張した様子で列車を降りている。
誰もが才能を見出され、
帝国全土から集められた者達だった。
未来の士官候補。
未来の将軍候補。
あるいは――未来の怪物。
レギアはそんな喧騒を横目に、
静かに目を細める。
雪が肩へ積もる。
外周部都市。
戦場。
死。
家族。
様々な記憶が脳裏を過ぎる。
だが。
もう列車は戻らない。
レギアは小さく息を吐くと、
巨大な帝都を見上げた。
黒鉄の国。
ヴァルグリム帝国。
その中心で。
後に世界を揺るがす、
黒翼の少女の物語が始まろうとしていた。




