第31話 白翼2
白狼隊員と共に、ノアは医療区画上層の別室へ向かっていた。
無機質な白い通路。
幾重もの隔壁。
重武装の警備兵。
沈黙する医療スタッフ。
病院というより、軍事施設そのものだった。
やがて。
最奥の大型隔壁が開く。
その先にいたのは――白銀の聖騎士。
カイル=レオンハルトだった。
白狼隊本隊用作戦室。
壁面には演習区域の戦況記録。
各地の波長観測データ。
第七演習都市の損壊状況。
空気そのものが重い。
ノアは室内へ入り、静かに敬礼した。
「戻りました」
カイルは机に置かれた資料から視線を上げる。
蒼い瞳が静かにノアを見る。
そして。
「……ご苦労」
短い労いだった。
だが。
そこには確かな信頼があった。
ノアは敬礼を解き、小さく息を吐く。
室内には他にも数名の白狼隊員がいたが、誰も口を挟まない。
皆、空気を読んでいた。
カイルは椅子へ深く腰掛けたまま、静かに尋ねる。
「どうだった」
短い問い。
だが、何を聞いているのかは分かる。
ノアは数秒だけ黙っていた。
それから、静かに答える。
「……泣いてました」
作戦室の空気が少しだけ静まる。
ノアは続けた。
「かなり限界だったと思います」
脳裏に浮かぶ。
壊れたように泣いていた銀髪の少女。
震える声。
怯えた瞳。
“普通でいたかった”という叫び。
ノアは小さく拳を握る。
「でも」
視線を上げる。
「逃げないとも言いました」
その言葉を聞いた瞬間。
カイルの表情が、僅かに変わった。
ほんの僅か。
だが。
どこか安堵したようにも見えた。
白狼隊員の一人が静かに息を吐く。
「……あいつらしいな」
小さな呟き。
カイルは黙ったまま目を閉じる。
そして。
ゆっくり口を開いた。
「そうか」
短い言葉。
だがその声には、確かな重みがあった。
カイルは再び目を開く。
その視線は、作戦室中央モニターへ向けられていた。
そこに映るのは。
演習場で六枚の白翼を展開する、アーデルハイドの姿。
白銀の光。
神々しいほどの翼。
だが。
カイルの脳裏に浮かんでいたのは、今の映像ではなかった。
十八歳のあの日。
炎の中で震えていた、小さな少女の姿だった。
静寂の中。
ノアがゆっくり口を開く。
「……カイル隊長」
カイルが視線を向ける。
ノアは真っ直ぐ立ったまま、静かに言った。
「発言の許可を」
作戦室の空気が僅かに変わる。
白狼隊員達も小さく視線を向けた。
カイルは数秒だけノアを見つめる。
やがて。
「許可する」
短く答えた。
ノアは小さく頷く。
そして。
静かな声で続けた。
「俺を、アーデルハイドの保護任務に加えてください」
その瞬間。
作戦室の空気が止まった。
静寂が落ちる。
誰も、すぐには口を開かなかった。
それも当然だった。
今の発言は――明らかに、一隊員の立場を越えている。
保護任務の編成。
それも、第12翼兵装適合候補者。
国家機密級案件。
本来なら、ノアのような一隊員が口を挟める領域ではない。
一つ間違えれば懲罰ものだった。
作戦室の空気が僅かに張り詰める。
白狼隊員達も黙ったままノアを見ていた。
けれど。
ノアは視線を逸らさなかった。
分かっていた。
今、自分がどれだけ危うい発言をしているのか。
それでも。
もう、このタイミングを逃したら。
アーデルハイドとの約束を守れなくなる。
そんな気がしていた。
『一人にしない』
あの医療室で、自分はそう言った。
泣き崩れていた少女へ。
震えていた幼馴染へ。
だから。
今しかないと、ノアは理解していた。
たとえ規律違反だろうと。
たとえカイルの怒りを買おうと。
ここで黙る方が、ずっと嫌だった。
ノアは拳を握り締めたまま、真っ直ぐカイルを見る。
「お願いします」
低い声だった。
けれど。
そこには確かな覚悟があった。
作戦室は静まり返っていた。
重い沈黙。
誰も動かない。
カイルは椅子に座ったまま、静かにノアを見つめている。
蒼い瞳は感情を読ませない。
ノアは理解していた。
今、自分は完全に一線を越えた。
保護任務。
しかも第12翼兵装適合候補者。
国家機密級対象への配置要請など、本来一隊員が口にしていいものではない。
下手をすれば懲罰。
いや、白狼隊から外されてもおかしくない。
それでも。
ノアは視線を逸らさなかった。
その時だった。
「――隊長」
不意に、別の声が響く。
ノアをここまで案内してきた白狼隊員だった。
作戦室の視線がそちらへ向く。
白狼隊員は姿勢を正し、静かに口を開く。
「発言の許可を願います」
ノアが僅かに目を見開く。
カイルも視線を向けたまま数秒沈黙する。
やがて。
「許可する」
短い返答。
白狼隊員は一度敬礼し、それから真っ直ぐカイルを見据えた。
「先程の件ですが」
静かな声だった。
「自分も、ノアの意見に賛成です」
その瞬間。
作戦室の空気がさらに変わる。
別の白狼隊員が眉を動かす。
だが、発言した本人は一切怯まなかった。
「現在のアーデルハイド候補生に必要なのは、監視でも拘束でもありません」
白狼隊員は続ける。
「精神的支柱です」
静かな断言。
「先程の面会で、それを確認しました」
ノアが小さく目を見開く。
白狼隊員は淡々と続けた。
「ノアがいたことで、候補生は明確に安定した」
「逆に、完全隔離を継続した場合、精神状態悪化の可能性があります」
合理的な報告だった。
感情論ではない。
現場判断としての進言。
白狼隊員は最後に小さく息を吐く。
そして。
「以上です」
そう言って白狼隊員は敬礼した。
作戦室は静まり返っていた。
カイルは黙ったまま、その部下を見つめている。
そして――ふと。
僅かに笑みを浮かべた。
それは、本当に小さな変化だった。
だが。
長年カイルを知る白狼隊員達は、その意味を理解していた。
今、発言した男。
白狼隊古参隊員。
カイル=レオンハルトが最も信頼を置く部下の一人だった。
冷静沈着。
常に状況を俯瞰し、感情で判断を誤らない。
だが一度戦場へ出れば。
その男は、まるで鬼人のように戦う。
死地で味方を引きずってでも連れ帰る男だった。
白狼隊の中でも、生還率と戦果が異常に高い。
その男が。
感情論ではなく。
明確に“必要”だと後押しする。
カイルは静かに思う。
――お前がそこまで言うのか。
蒼い瞳が、ノアへ向けられる。
不器用で。
真っ直ぐで。
まだ未熟な青年。
だが。
アーデルハイドの前で見せた覚悟だけは、本物だった。
作戦室に沈黙が落ちる。
誰も口を開かない。
そして。
カイルはゆっくり椅子へ深く背を預けた。
その口元には、まだ僅かな笑みが残っていた。
そして。
カイルは静かに口を開いた。
「……いいだろう」
その一言に。
ノアの表情が僅かに動く。
カイルは真っ直ぐノアを見据えたまま続ける。
「ノア=エルセリオン」
作戦室の空気が張り詰める。
「お前を、アーデルハイド=セラフィーネの監視保護任務へ編入する」
静かな宣言だった。
だが。
その重みは絶大だった。
ノアは一瞬だけ目を見開く。
やがて、強く拳を握り締める。
「……はい!」
短く、力強い返答。
その声には、迷いがなかった。
カイルは小さく頷く。
そして。
ゆっくり視線を周囲へ向けた。
「お前達は下がれ」
低い声。
その瞬間。
作戦室の空気が変わる。
白狼隊員達は即座に姿勢を正した。
誰一人として理由を聞かない。
それが白狼隊だった。
「はっ」
短い返答。
隊員達は迅速に資料をまとめ、作戦室を退出していく。
先程発言した白狼隊員も、最後に一度だけノアへ視線を向け、小さく口元を緩めた。
それから静かに敬礼し、部屋を後にする。
重い隔壁が閉じる。
――ガコン。
静寂。
室内に残されたのは。
カイル=レオンハルト。
そして、ノア=エルセリオン。
二人だけだった。
電子端末の駆動音だけが微かに響く。
カイルは椅子へ深く腰掛けたまま、静かにノアを見つめている。
その視線は鋭い。
だが。
先程までとは違っていた。
白狼隊隊長としてではない。
もっと深い場所で、ノアという人間を見極める目だった。
少しの沈黙が流れる。
やがて。
カイルが静かに口を開く。
「……ノア」
低く、落ち着いた声だった。
「お前、あの日の屋上で俺が言ったことは覚えているか」
その言葉に。
ノアの表情が僅かに変わる。
脳裏に浮かぶ。
夕暮れの騎士学校屋上。
包帯だらけの身体。
風に揺れる白銀の髪。
そして。
白銀の聖騎士が、自分へ向けた言葉。
『お前が守りたいものはなんだ』
『理不尽から守りたいのはなんだ』
『盾になれ』
『槍になれ』
あの日。
カイル=レオンハルトは、ただ戦い方を教えたわけではなかった。
覚悟を叩き込んだ。
ノアは静かに頷く。
「……はい」
短い返答。
だが。
そこに迷いはなかった。
カイルは蒼い瞳を細める。
そして。
静かに続けた。
「なら、お前なら分かるはずだ」
作戦室の空気が、僅かに重くなる。
「これから先、アーデルハイドの周囲で何が起きるか」
低い声。
「保護任務などという生易しい言葉では終わらん」
その言葉には、確かな現実があった。
国家。
評議会。
第12翼。
人類の切り札。
そして。
“神へ近づいてしまった少女”。
カイルはゆっくり立ち上がる。
白銀の軍服が静かに揺れた。
「お前がこれから守るのは、ただの幼馴染じゃない」
蒼い瞳が真っ直ぐノアを射抜く。
「人類の希望であり――同時に、人類最大の危険になり得る存在だ」
重い沈黙。
だが。
ノアは目を逸らさなかった。
「そう長くない日に、適合実験は行われるだろう」
カイルが静かに言った。
その声には、現実を告げる重さがあった。
ノアは黙って聞いている。
カイルは続けた。
「……アーデルハイドにどんな変化が起きるか、正直俺にも想像ができん」
静かな作戦室。
モニターの光だけが白銀の横顔を照らしていた。
「下手をすれば、自我を失う可能性もある」
低い声。
「精神崩壊」
「侵食」
「肉体変異」
一つ一つ、現実を並べるように口にする。
「第12翼は、天使核ですらない」
カイルの蒼い瞳が僅かに細まる。
「あれは、人類にとって完全な未知だ」
その言葉には、長年最前線に立ち続けてきた男ですら隠しきれない警戒が滲んでいた。
「最悪の場合――」
一瞬だけ沈黙。
「存在そのものが崩壊する危険すらある」
重い言葉だった。
作戦室の空気がさらに沈む。
「……それほど、第12翼は異質だ」
だが。
カイルは視線を逸らさない。
真っ直ぐノアを見る。
そして。
静かに続けた。
「その時は」
低い声。
「アーデルハイドが苦しみ続けないよう、最善を尽くせ」
ノアの瞳が僅かに揺れる。
カイルはゆっくり言った。
「それが、お前を許可する条件だ」
静寂。
電子音だけが微かに響く。
しばらくして。
カイルが最後に問う。
「……できるか」
短い問いだった。
だが。
それは護衛任務への確認ではない。
覚悟への問いだった。
作戦室に静寂が落ちる。
ノアは数秒だけ黙っていた。
やがて。
静かに、はっきりと答える。
「……はい」
迷いのない返答だった。
カイルは黙ってその瞳を見つめている。
ノアは小さく拳を握る。
そして。
言葉を続けた。
「でも、カイル隊長」
低い声。
「俺は、あいつなら乗り越えるって確信してます」
蒼い瞳が真っ直ぐ前を向く。
脳裏に浮かぶのは。
泣きながらも“逃げたくない”と言った少女。
何度傷付いても。
何度恐怖に震えても。
最後には前へ進もうとする銀髪の背中。
ノアは静かに続ける。
「だから」
その声には、確かな覚悟があった。
「俺は、この先もあいつを守ります」
短い言葉。
けれど。
それは感情論ではなかった。
幼い日の約束。
孤児院で過ごした時間。
共に戦った日々。
その全部の上にある決意だった。
ノアは真っ直ぐカイルを見据える。
「それが」
小さく息を吸う。
「俺の、あいつとの約束ですから」
作戦室に沈黙が落ちる。
カイルはしばらく何も言わなかった。
ただ静かに、ノアを見ていた。
そして――。
ほんの僅かに。
その口元が緩んだ。
カイルは、しばらくノアを見つめていた。
その瞳には、厳しさだけではない。
どこか、懐かしむような色があった。
「……いい目をするようになったな」
静かな声だった。
ノアは何も答えない。
カイルはゆっくり椅子へ腰を下ろす。
「だが、覚えておけ」
その声が、再び鋭さを帯びる。
「信じることと、楽観することは違う」
ノアの表情が引き締まる。
カイルは続けた。
「お前がアーデルハイドを信じることは構わん」
「俺も、あの子が乗り越えることを願っている」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、最悪は常に想定しろ」
作戦室の空気が重くなる。
「守るとは、綺麗な言葉だけで済むものではない」
カイルの蒼い瞳が、まっすぐノアを射抜いた。
「時には、誰より残酷な役目を背負うことでもある」
ノアは小さく息を呑む。
それでも。
目は逸らさなかった。
カイルはその反応を見て、静かに頷く。
「その上で、なお守ると言うなら」
短い沈黙。
「完遂してみせろ」
「はい」
短い返答。
カイルはしばらく沈黙した。
そして、机の上に置かれた端末を操作する。
室内中央の投影画面に、新たな任務情報が浮かび上がった。
機密指定。
保護対象。
アーデルハイド=セラフィーネ。
監視保護補佐。
ノア=エルセリオン。
ノアはその文字を見つめる。
自分の名が、正式にそこへ刻まれていた。
カイルは端末を閉じる。
「任務開始は、この瞬間からだ」
その言葉に、ノアは静かに敬礼した。
「了解しました」
カイルは頷く。
「当面は表向き、医療区画警備補助として配置する」
「アーデルハイド本人には、明日こちらから伝える」
「はい」
「ただし、行動範囲は制限される。勝手な判断で隔離区域へ入るな」
「面会、移動、保護配置。全て俺かセレス局長の許可を通せ」
「了解しました」
淡々とした命令。
だが、その一つ一つがアーデルハイドを守るためのものだと、ノアには分かった。
カイルは最後に、少しだけ声を落とした。
「それと」
ノアが顔を上げる。
「お前自身も、休め」
思いがけない言葉だった。
ノアの表情が僅かに揺れる。
カイルは静かに続ける。
「消耗した者に、人は守れん」
その声は厳しい。
けれど。
確かに、気遣いでもあった。
ノアは少しだけ目を伏せる。
「……はい」
カイルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、短く告げる。
「下がれ」
ノアは深く敬礼する。
「失礼します」
踵を返し、作戦室の出口へ向かう。
重い隔壁の前で、ノアは一度だけ足を止めた。
振り返る。
カイルはすでにモニターへ視線を戻していた。
白銀の翼を展開するアーデルハイド。
その映像を、ただ静かに見つめている。
ノアは何も言わず、もう一度だけ敬礼した。
そして。
隔壁が開く。
白い廊下の冷たい空気が流れ込む。
ノアはその先へ歩き出した。
胸の奥には、重い覚悟があった。
けれど。
迷いはなかった。
――一人にしない。
その言葉だけが、静かにノアの中で響いていた。




