第23話 密命
ヴァイスは静かに目を閉じ、わずかに息を吐いた。
「……ただし、評議会には報告はするが」
ヴァイスはゆっくりと首を横に振った。
「だが、あの子にはまだ何も背負わせん」
静かな言葉だった。
「すべてが決まるまでは……
アーデルハイドには、普通の暮らしをさせる」
窓の外。
騎士学校の灯りが、遠く夜景のように揺れている。
「友と笑い、
学び、
悩み、
時に馬鹿なことで騒ぐ……
本来あの年頃の子供が持つべき時間を、今はまだ奪いたくはない」
その声音には、
統治者としてではなく――
一人の大人としての願いが滲んでいた。
セレスは何も言わなかった。
ただ静かに目を伏せる。
カイルもまた、小さく息を吐いた。
そしてヴァイスは、ゆっくりと二人へ視線を向ける。
「状況が固まり次第……
わし自身の口から、あの子にはすべてを話そう」
その言葉は、
エデン=ノア最高司祭としての決意だった。
セレスとカイルを見つめるヴァイスの眼差しには、静かな覚悟が滲んでいた。
もう後戻りはできない。
エデン=ノアの運命そのものが、あの少女へ繋がり始めている。
ヴァイスはゆっくりと口を開いた。
「……今後、状況が変わるようなら」
空気が張り詰める。
「アーデルハイド=セラフィーネに対する、第十二翼兵装適合実験を前倒しする」
その瞬間。
セレスの指先が、わずかに止まった。
カイルもまた無言のままヴァイスを見つめる。
ヴァイスは視線をセレスへ向けた。
「セレス。
実験準備を秘密裏に進めてくれ」
低く、重い命令だった。
第十二翼。
それはエデン=ノア最大の禁忌であり、
同時に最後の希望でもある。
セレスはしばらく沈黙した後、小さく頷いた。
「……了解したわ」
その声に、いつもの軽さはなかった。
ヴァイスは次に、カイルへ向き直る。
「カイル」
白銀の騎士は静かに背筋を正す。
「その際は――白狼全隊員を招集せよ」
空気がさらに重くなる。
特殊殲滅隊《白狼》。
不死隊第1大隊における、カイル直轄の実戦部隊。
それを“全隊員”招集する意味を、
ここにいる三人は誰より理解していた。
もしも――
不測の事態が起きた時。
もしも適合実験が制御不能に陥った時。
その時は、人類を守るために。
必要ならば、
アーデルハイド=セラフィーネを排除する。
それが今、ヴァイスが口にした命令の本当の意味だった。
重苦しい沈黙が部屋を満たす。
拳が、わずかに強く握られていた。
脳裏に浮かぶのは、
瓦礫の中で震えていた幼い少女の姿だった。
だが――それでも。
彼は軍人だった。
カイルはゆっくりと目を開き、
静かに敬礼する。
「……承知しました」
「……話はここまでだ」
ヴァイスの低い声が、重苦しい空気を断ち切った。
静寂が落ちる。
誰もすぐには言葉を返さなかった。
それほどまでに、
今交わされた内容は重かった。
ヴァイスはゆっくりと席を立つ。
「セレス」
呼ばれたセレスが顔を上げる。
ヴァイスは短く言った。
「あとは頼む」
それだけで十分だった。
アーデルハイドへの説明。
突然中止となった演習への対応。
騎士候補生達への情報統制。
そして――
この異常事態を“日常”へ戻すこと。
すべてを含んだ言葉だった。
セレスは小さく息を吐き、
静かに頷く。
「……ええ、任せて」
だがその表情には、
わずかな疲労が滲んでいた。
今日一日で、
あまりにも多くのものが動き始めてしまった。
ヴァイスは静かに目を閉じた。
――せめて今だけは。
あの子に、
普通の少女として笑っていてほしかった。
◇
医務室の自動扉が静かに開いた。
白衣姿のセレス=クロイツが中へ入る。
その瞬間。
室内にいた医療スタッフ達の空気がわずかに変わった。
セレスは何も言わない。
ただ静かに周囲を見渡し、小さく視線を送る。
それだけで十分だった。
スタッフ達は即座に動き出す。
投影モニターの記録終了。
検査端末の停止。
散乱していた測定用コードの回収。
誰一人として無駄口を叩かない。
迅速だった。
そして数分後。
「失礼します、先生」
最後の職員が一礼し、
医務室から退出する。
自動扉が閉まり、
室内には静かな機械音だけが残った。
ベッドに腰掛けていたアーデルハイドは、どこか落ち着かない様子で周囲を見回した。
「……なんか、大事みたいになってません?」
困ったように笑う。
だが、その蒼い瞳にはわずかな不安も混じっていた。
セレスはいつものように軽く肩をすくめる。
「騎士学校の医務室なんて、少し異常値が出れば毎回大騒ぎよ」
そう言いながら端末を操作する。
だが内心では、自分でも驚くほど冷静を装えていることに気づいていた。
アーデルハイドは少し迷ったあと、小さく口を開く。
「……私、何かありましたか?」
その言葉に、
セレスの指先がわずかに止まる。
ほんの一瞬だけ。
だがすぐに、何事もなかったように操作を再開した。
「疲労と神経過敏反応。
それと、少しだけ適合波長が乱れただけ」
「適合波長……」
「演習で無理したんでしょ。
あなた、集中すると周囲見えなくなるタイプだから」
少しからかうような声音。
アーデルハイドは「あ……」と気まずそうに視線を逸らした。
「……それは、ちょっとあるかもしれません」
「ちょっと?」
セレスが呆れたように笑う。
「演習データ見たけど……
あんな突撃する候補生、そうそういないわ」
「う……」
「しかも怪我してるのに止まらない」
「…………」
「カイルに似てるわね」
不意に出たその名前に、
アーデルハイドがぱちりと目を瞬かせた。
「え?」
セレスは端末から目を離さないまま続ける。
「無茶するところ。
自分より先に他人守ろうとするところ。
ああいうの、昔から変わらないのよ」
アーデルハイドは少しだけ考え込む。
今日の演習。
瓦礫地帯。
吹雪。
そして――自分を見ていた白銀の騎士の姿。
「……カイル隊長って」
小さく呟く。
「なんで、あんなに私のこと気にしてくれるんでしょう」
静かな問いだった。
セレスは少しだけ目を細める。
本当の理由を、
彼女は知っている。
あの日。
崩壊したラグナフィールで、
カイルが救い出した少女。
それが目の前にいるアーデルハイドだった。
だが、今はまだ話す時ではない。
セレスは小さく息を吐き、
柔らかく笑った。
「さあね」
そして肩をすくめる。
「でもあの人、昔から子供放っておけないのよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。
不器用だけど、優しい人」
その言葉に、
アーデルハイドはどこか安心したように小さく笑った。
「……なんかわかります」
セレスは端末操作を終えると、小さく息を吐いた。
「はい、検査終了」
空中投影されていたモニター群が一つずつ消えていく。
静かになった医務室の中で、
アーデルハイドは少しだけ肩の力を抜いた。
「……よかった」
その反応に、
セレスはふっと笑う。
「なによその顔」
「だって、先生達、すごく慌ててましたから……
私、どこか悪いのかと思いました」
「悪かったらこんな普通に会話してないわ」
即答だった。
アーデルハイドは少しだけ安心したように笑う。
その顔を見て、
セレスは不意に視線を細めた。
……本当に、まだ子供だ。
騎士候補生としては優秀。
精神耐性も高い。
状況判断も早い。
だがこうしていると、
年相応の少女にしか見えなかった。
セレスは医務棚を開き、
小さな包みを取り出した。
「はい」
「……?」
アーデルハイドが受け取る。
中には小さな糖菓子が入っていた。
白い砂糖を薄くまぶした、
騎士学校ではわりと人気のある保存菓子だった。
アーデルハイドが目を瞬かせる。
「えっ、いいんですか?」
「検査頑張ったご褒美」
どこか素っ気ない言い方だった。
だが声音は柔らかい。
アーデルハイドは少し迷ったあと、
嬉しそうに笑った。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見た瞬間。
セレスの胸の奥が、わずかに締め付けられる。
思い出してしまう。
かつて自分にも、
こんなふうに笑っていた家族がいたことを。
セレスはそれを振り払うように、
軽くアーデルハイドの額を指で小突いた。
「でも次は無茶禁止」
「いたっ」
「あなた、絶対自分の限界わかってないタイプでしょ」
「う……」
図星だった。
セレスは呆れたように肩をすくめる。
「いい?
強い人間ほど、自分を壊すのも上手いの」
その言葉には、
どこか実感が滲んでいた。
アーデルハイドは少しだけ真面目な顔になる。
「……先生もですか?」
不意の問いだった。
セレスは一瞬だけ黙る。
そして小さく笑った。
「昔はね」
それ以上は語らない。
だがアーデルハイドは、
その短い言葉の奥に何か重いものを感じ取った。
少しだけ迷ってから、
アーデルハイドは小さく頭を下げる。
「……今日はありがとうございました」
真っ直ぐな言葉だった。
セレスは目を細める。
「別に。
私は仕事しただけよ」
そう言いながらも、
その表情はどこか優しかった。
そしてセレスはふと、
銀髪の少女を見つめたまま静かに思う。
――だからこそ。
まだ、
壊れないでいて。
医務室を出たアーデルハイドは、小さく息を吐いた。
騎士学校の廊下は、すでに夕暮れ色へ染まり始めている。
窓の外では、白い天鱗粉が静かに舞っていた。
「……なんだったんだろ」
小さく呟く。
背中に残る妙な熱。
検査中の張り詰めた空気。
そして、セレス達の表情。
どこか胸の奥がざわついていた。
だが――
「考えてもわかんないか」
アーデルハイドは軽く頭を振る。
今はまだ、
答えのない不安よりも、
目の前の日常を優先したかった。
教室の扉を開く。
その瞬間だった。
「アデル!!」
真っ先に駆け寄ってきたのはミシェルだった。
勢いよく席を立ち、
銀髪を揺らしながらアーデルハイドの肩を掴む。
「大丈夫!?
本当に平気!?」
その声は、
明らかに取り乱していた。
周囲の候補生達も一斉に立ち上がる。
「おい歩けるのか!?」
「さっき医務班に運ばれてただろ!?」
「顔真っ白だったぞ!?」
「マジで大丈夫なのか!?」
演習場で。
アーデルハイドが突然崩れ落ち、
医務班に運ばれていく姿を。
彼らは実際に目の当たりにしていた。
だからこそ、
教室の空気にはまだ不安が残っていた。
アーデルハイドはその勢いに少し圧倒されながらも、
困ったように笑う。
「だ、大丈夫だって」
「全然大丈夫そうに見えない!」
即答だった。
ミシェルは本気で怒っているような顔をしている。
「医務室運ばれてたんだよ!?
しかも演習まで急停止したし!」
「う……」
言い返せない。
アーデルハイドは視線を逸らした。
周囲の候補生達も心配そうな顔を崩さない。
その視線を受けて、
アーデルハイドは少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
……こんなに心配してくれる人がいる。
それが少しだけ嬉しかった。
「ほんとに大丈夫だから。
疲労反応って言われただけだし」
そう言って苦笑する。
だがミシェルはまだ納得していない。
「ほんとに?」
「ほんと」
「隠してない?」
「隠してない」
「ほんとにほんと?」
「ミシェル近い近い」
アーデルハイドが苦笑する。
その反応に、
周囲から小さな笑い声が漏れた。
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
ミシェルはようやく小さく息を吐いた。
「……よかったぁ」
その声は、
心の底から安心したものだった。
アーデルハイドは少し照れくさそうに笑う。
「そんな心配しなくても……」
「するよ!」
ミシェルはむっとした顔で言う。
「友達なんだから当然でしょ」
その言葉に、
アーデルハイドは一瞬だけ目を見開いた。
――友達。
その響きが、
胸の奥へ静かに落ちる。
ラグナフィールを失ってから。
孤児院へ来てから。
騎士学校へ入ってから。
少しずつ増えていった、
自分の居場所。
アーデルハイドは小さく笑った。
「……ありがと」
その笑顔を見たミシェルは、
どこか安心したように笑い返す。
だがその時だった。
教室後方で、
一人の男子候補生がぽつりと呟く。
「……でも、演習強制終了って普通じゃないよな」
その瞬間。
教室の空気がわずかに止まった。
アーデルハイド自身も、
胸の奥が小さくざわつくのを感じる。
だが次の瞬間。
ミシェルが勢いよく振り返った。
「訓練用ホログラム暴走しかけたんでしょ!
たまにあるって先生言ってたじゃん!」
驚くほど自然な返答だった。
情報管理局長の娘らしい、
即座の状況処理。
「あー……そういや聞いたことあるかも」
「高負荷演習だと稀にあるってな」
空気が少しだけ戻る。
ミシェルはそのままアーデルハイドへ振り返る。
そして小声で囁いた。
「……今日はちゃんと休みなさい」
その声は、
いつもの明るさより少しだけ優しかった。




