第14話 譲れぬ想い
感情を爆発させたセレスの慟哭を、ヴァイスは黙って聞いていた。
言い返す言葉など、あるはずがなかった。
あの日。
セレスの夫が光に飲まれた時、ヴァイスもまた、その場にいた。
彼は見ていた。
第十二翼兵装の核が暴走し、青白い光が深層域を満たしていく様を。
人の形をしていたものが、もはや人の理から外れていく瞬間を。
そして――その光の中へ、セレスの夫が消えていくのを。
セレスは叫んでいた。
名を呼び、止めろと叫び、お願いだから返してと泣き叫んでいた。
だが、ヴァイスは彼女を慰めることすらできなかった。
彼がしたことは、ただ一つだった。
高度封印術式を最大出力で起動し、深層域そのものを完全封鎖すること。
それが最善だった。
それ以外に、人類を守る手段はなかった。
だが――それは同時に、セレスの夫を救う道を完全に閉ざすことでもあった。
十二翼兵装の発光が完全に収まるまで、誰一人として深層域へ立ち入ることは許されなかった。
そして、沈黙の後。
第十二翼兵装は、深層域のさらに下層へ移送された。
それを封じられるだけの封印技術を総動員し、幾重もの結界と術式と聖堂システムの鎖によって、再び世界から隔離された。
夫の身体は、戻らなかった。
回収されたのは、奇跡のように焼け残った二つだけだった。
ひとつは、結婚指輪。
もうひとつは、セレスと夫が共に写った写真を収めた、ロケットペンダント。
だが、それすらもすぐには彼女の手に渡らなかった。
汚染検査。
高次元干渉の解析。
封印処理。
安全確認。
そうして、夫の遺品がセレスの手元へ戻るまでに――一年を要した。
一年だ。
愛した者を失い。
骸すら抱くことを許されず。
最後に残った指輪と写真さえ、奪われたまま。
その一年を、セレスがどのように生きたのか。
ヴァイスは、知っている。
知っているからこそ、何も言えなかった。
セレスの怒りは正しい。
慟哭は当然だった。
憎まれても仕方がない。
それでも、ヴァイスはあの日、封印を選んだ。
人類を守るために。
世界を終わらせないために。
そして、その選択によって――
一人の女から、夫の最期を看取る権利さえ奪ったのだ。
「……なぜ、あの子だけが守られるのですか……!」
震える声だった。
だが次の瞬間、その声は抑えきれない激情となって爆発した。
「私は夫を奪われた……!!」
セレスの瞳から涙が溢れる。
「人生を奪われたんです……!!」
握り締めたロケットペンダントが、かすかに音を立てた。
「この世界には、理不尽が溢れている!!
不条理な悲劇なんて、そこら中に転がっている!!
家族を失った子供も!
突然すべてを奪われた人間も!
救われないまま死んでいった者達も!」
声が震える。
怒りと、悲しみと、どうしようもない絶望で。
「なのに……!!」
セレスはヴァイスを睨みつけた。
「なぜ、あの子だけが守られるのですか!!」
深層域の静寂に、その叫びだけが響く。
「あの子だけが特別なのですか!?
第十二翼適合者だから!?
世界を救う可能性があるから!?
だから犠牲を払ってでも守る価値があると!?」
涙が次々と零れ落ちる。
「では……私の夫は何だったんですか……!」
絞り出すような声だった。
「あの人は……世界を救えなかったから、切り捨てられたんですか……!」
ヴァイスは答えなかった。
答えられなかった。
セレスの言葉は、八つ当たりではない。
それは、人が“救済”という言葉に抱く、最も醜く、最も正しい感情だった。
救われる者と。
救われない者。
選ばれる命と。
切り捨てられる命。
その境界を見せつけられた者だけが抱く、痛みだった。
「……私は」
セレスの肩が震える。
「私はただ……
あの人に、生きていてほしかっただけなのに……」
最後の言葉は、叫びではなかった。
壊れたように零れ落ちた、小さな本音だった。
床に崩れ落ちたセレスは、そのまま嗚咽を漏らしていた。
肩を震わせ、
ロケットペンダントを胸に抱き締め、
壊れたように涙を流し続ける。
深層域には、封印装置の低い駆動音だけが響いていた。
その姿を見下ろしながら――
ヴァイスは、長い沈黙の後にゆっくりと口を開いた。
「あの子は――その理不尽と不条理に、家族を奪われたのだよ」
静かな声だった。
だが、その一言には重い痛みが滲んでいた。
「父を失い、母を失い、弟を失った」
ヴァイスは目を閉じる。
まるで、あの日の炎景を思い出すように。
「血に濡れた瓦礫の中で、たった一人、生き残った」
セレスは涙に濡れた瞳でヴァイスを見上げた。
ヴァイスは逃げなかった。
その視線からも。
その怒りからも。
「……そうだ、セレス」
ゆっくりと告げる。
「はっきり言っておこう」
低く、重い声だった。
「これは――私情だ」
深層域の空気が静まり返る。
「お前の言う通りだ」
ヴァイスは認めた。
聖職者としてでも、
封印管理者としてでもなく。
一人の老人として。
「あの子だけが特別だ」
セレスの瞳が揺れる。
「私は、あの子を守りたい」
ヴァイスは静かに続けた。
「救われなかった子供達を、私は数え切れないほど見てきた」
「泣きながら死んでいった者もいた。
助けを求めながら瓦礫に潰された者もいた。
親の亡骸を抱えたまま、動かなくなった子供もいた」
その言葉には、長い年月の重さがあった。
「私は聖職者でありながら……
一人として救えなかった」
自嘲するように、ヴァイスは目を伏せる。
「だからせめて、今度こそと思ってしまったのだよ」
白髪混じりの老人は、静かに笑った。
ひどく疲れた笑みだった。
「あの子には、生きてほしいと」
それは、正義ではなかった。
公平でもない。
世界を導く崇高な理念でもない。
ただ――
あの日、生き残ってしまった小さな少女に、
もう二度と涙を流してほしくないと願ってしまった。
老人の、どうしようもない願いだった。
――だが。
その瞬間だった。
ヴァイスの顔から、老人としての感情が消える。
空気が変わった。
そこに立っていたのは、
一人の後悔を抱えた男ではない。
封印国家エデン=ノアを統べる者。
《最高司祭》ヴァイス=アークヴェルだった。
「……根底を変えてはならぬことも、理解している」
低く、重い声。
感情を押し殺した統治者の声だった。
「第十二翼適合者を、完全に自由にはできん」
セレスは黙って聞いていた。
ヴァイスは続ける。
「あの子はまだ幼い。
自分が何を宿しているのかも理解しておらん」
「だが、適合者である事実は変わらない」
深層域の封印装置が低く唸る。
まるで、その言葉を肯定するように。
「ゆえに――拘束、管理下には置かない」
セレスの瞳がわずかに揺れた。
「しかし、監視と護衛は配置する」
ヴァイスははっきりと言い切った。
「無論、あの子の目に届かぬ範囲でだ」
「遠距離観測。
生体波長の定期測定。
騎士学校内でのデータ回収」
「それらは継続する」
セレスは静かに目を閉じる。
拒絶はしなかった。
ヴァイスもまた、一方的に押し通すつもりではなかった。
「騎士学校入学後、段階を踏ませる」
「人として生きる時間を与える」
その言葉には、
ヴァイスなりの譲歩が込められていた。
「その後――」
僅かな沈黙。
「第十二翼兵装の適合実験を行うことを約束しよう」
セレスの肩が小さく震える。
それは技術者として避けられぬ未来だった。
第十二翼は、
いずれ必ず目覚める。
誰かが向き合わねばならない。
「……使用は強制せん」
ヴァイスは静かに言った。
「だが、知る必要はある」
「あの子自身が、
何を背負って生まれてしまったのかを」
長い沈黙が落ちる。
やがてセレスは、
涙で濡れた顔のまま、小さく呟いた。
「……本当に、残酷な人ですね」
その言葉に、
ヴァイスは否定しなかった。
否定できるはずがなかった。
適合検査から数日後。
アーデルハイドの日常は、少しずつ変わり始めていた。
最初に気付いたのは、孤児院の部屋だった。
それまで他の子供達と共用だった部屋が、一人部屋へ変更されたのだ。
理由は“高適合者の安静確保”。
表向きはそう説明された。
部屋自体は以前より広く、暖房設備も整っていた。
新しい机。
柔らかな寝具。
専用の書架まで用意されている。
子供達は純粋に羨ましがった。
「すごーい!」
「アデルのお部屋ひろーい!」
「いいなー!」
アーデルハイド自身も、最初は戸惑いながら喜んでいた。
けれど。
「……なんか、静かすぎる」
ぽつりと漏れた言葉に、ノアは苦笑した。
「前は毎晩誰か騒いでたからな」
夜。
寝静まった孤児院。
以前なら隣のベッドから聞こえていた寝息も、
子供達の寝言も、
シスターに怒られる声もない。
静かだった。
あまりにも。
「……落ち着かない」
毛布を抱えたアーデルハイドに、ノアは肩を竦める。
「贅沢な悩みだな」
そう言いながらも、ノアは気付いていた。
ここ最近。
孤児院の周囲に、見慣れない大人達が増えていることを。
教会前に停まる黒塗りの車両。
時折見かける技術局の白衣。
夜中、遠くの建物屋上で光る観測機器。
そして何より――
アーデルハイドが定期的に“検査”へ呼ばれるようになった。
「ごめんね、アデルちゃん。
少し採血するだけだから」
医療班は優しかった。
技術局職員も丁寧だった。
高価な栄養食。
最新医療。
身体検査。
精神状態確認。
どれも“善意”で行われている。
だからこそ、余計に奇妙だった。
「……また増えてる」
腕の採血痕を見ながら、アーデルハイドが小さく呟く。
ノアは視線を逸らした。
言わなくても分かっていた。
普通じゃない。
アーデルハイドはもう、
ただの戦災孤児ではない。
国家最高機密――第十二翼適合者。
その事実が、少しずつ彼女の日常を書き換え始めていた。
同時刻。
技術局上層区画。
巨大モニターには、アーデルハイドの生体波形が映し出されていた。
脳波。
神経伝達。
高次元感応値。
天使核共鳴反応。
数値は、今もなお上昇を続けている。
「……安定しています」
白衣の研究員が報告する。
「精神汚染兆候なし。
高次元侵食反応も現段階では確認されていません」
セレスは黙ってモニターを見つめていた。
その横で、ヴァイスが静かに口を開く。
「騎士学校入学まで、現行監視レベルを維持」
「護衛班は?」
「目視範囲外に配置済みです」
「遠距離観測は継続。
本人への接触は最低限に」
淡々としたやり取りだった。
まるで国家兵器の管理記録のように。
だが。
モニターの中で、
銀髪の少女はただ困ったように笑っていた。
採血を怖がる小さな子供を、
逆に慰めている映像だった。
その姿を見た瞬間。
セレスは、ほんのわずかに目を伏せる。
「……まだ子供なのですよ」
小さな声だった。
ヴァイスは答えない。
答えられなかった。
その夜。
孤児院屋上。
アーデルハイドは一人、空を見上げていた。
暗い空。
降り続ける白い終灰。
その向こう側に何があるのか、
彼女はまだ知らない。
ただ――
時折。
空の向こうから、
何かに見られているような気がした。
セレスは、ミシェルの口から“アーデルハイド”という名前が出た瞬間、わずかに目を見開いた。
まさか――と思った。
騎士学校に入学したばかりの姪と、
あの第十二翼適合者の少女。
その二人の名前が、ここで繋がるとは思っていなかった。
「……アーデルハイド?」
思わず聞き返したセレスに、ミシェルは不思議そうに首を傾げる。
「うん?
今日ちょっと話した子なんだけど……変かな?」
夕暮れだった。
技術局上層区画。
大きな窓の向こうでは、空が赤く染まっている。
セレスはその景色を眺めながら、少しだけ目を細めた。
――運命か。
ふと、遠い昔を思い出す。
騎士学校時代。
研究室に籠ってばかりだった自分に、無理やり話しかけてきた一人の青年。
ぶっきらぼうで、
真っ直ぐで、
不器用なくせに優しかった男。
やがて夫となった人。
胸元のロケットペンダントに、無意識に触れる。
「……セレスおば様?」
ミシェルの声に、セレスは小さく微笑んだ。
その笑みは、
技術局長としての冷静な顔ではなく。
どこか、昔を懐かしむ女性の顔だった。
「友達とは仲良くしなさい」
穏やかな声だった。
「え?」
「学生時代の出会いは、大切よ」
セレスは窓の外を見つめたまま続ける。
「これが貴方の“一生の親友”との、運命の出会いになるかもしれないもの」
ミシェルは少し照れたように笑う。
「そんな大げさな……」
だがセレスは知っていた。
人の人生は、
時に信じられないほど些細な出会いから変わる。
何気ない会話。
偶然隣に座った誰か。
放課後の帰り道。
その一つが、
生涯を共にする絆になることを。
だからこそ――
セレスはほんの少しだけ願ってしまった。
どうかあの銀髪の少女が、
今度こそ“失わなくていい繋がり”を得られるようにと。




