8.
頬に感じるザラザラした固い地面、生暖かい涎の不快な感触に目が覚めた。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
ちゃんと睡眠を取れたのはいつぶりだろうか。
身体を起こすと濡れた頬には地面の跡がくっきりついていた。
「何か……」
不思議な感覚だった。
昨日まで感じていた恐怖、焦燥、逼迫、どれもが遠い出来事のように感じる。
身体に泥のように纏わりついていた疲労感もなくなり、まるで生まれ変わったかのようにさえも感じる。
「ん~んッ!」
襟元を引っ張り頬を拭うと、立上り大きく伸びをしてみる。
体中から小気味よい音が響く。
清々しい気分だった。
「腹……減った……?!」
空腹を感じるのも久しぶりだった。
何かが変わった。何故かは分からないが、そんな気がする。
「とりあえず、コンビニ行ってみるか」
これまでの出来事がまるで全てが夢だったかのような、そんな清々しさとともに、俺は一歩踏み出した。
コンビニはウチの店から1ブロック離れた場所にある。
バイト前後によく立ち寄っていた店だ。
昨日は男を探すことに必死で商品の事にまで気が回っていなかったが、もしかすれば何か食べられるものが残っているかもしれない。……だが、そんな期待をしていたが、荒れ果てた店内の棚には商品は何一つ残っていなかった。床に散乱しているものはぐちゃぐちゃに踏みつぶされ、変色し、嫌な臭いを発していた。
「……駄目、か」
一瞥すれば分かる。
もはや食べ物のカテゴリーから外れたソレらを手に取ることもせず、俺はコンビニを後にした。店はいくらでもあるのだから。
……しかし、コンビニのすぐ傍にある、幟の折れたコーヒーショップも同様だった。
酸っぱい香りが充満した店内は、かつての賑わいがまるで嘘のように感じる。
キッチンの方に回れば、重ねておいてあるパンは緑色に染まり、冷蔵庫などは1秒と開けていられなかった。
「くそッ、喰うもんないじゃないか!」
隣の定食屋も、近くの居酒屋も、どこかしこも。
食べ物はおろか、飲めるものさえない。
蛇口を捻っても水は出ず、たまに見かけるペットボトルは異様に膨張している。
食べるものが見つからないと分かれば、飲めるものが見つからないと分かれば、
その欲求は一気に高まる。
特に、6月の嫌な蒸し暑さと相まって、喉の渇きは最悪だった。
「なんでッ、なんでどれも腐ってるんだよ!!」
何の店かもわからない、異臭の漂う薄暗い店の中、俺はどこで拾ったかも忘れた大ぶりの包丁を、叫びながら振り回していた。
その後、ひたすらに探し回っても見つからなかった。
食べ物も、飲み物も、もちろん例の男の姿も。
◇ ◇ ◇
曇天の下、深く太陽が傾いている気配がする。
未だ何も……全く何も見つからなかった。
(何でなんだよ何でなんだよ何で何で何で――ッ!)
目覚めた時の気分など、まるで夢幻かのようだった。
このまま食べのが見つからなかったら!
このまま飲むものが見つからなかったら!
そんな思いが身体を衝き動かしていた。
耳を立て、目を見開き、少しでも何かを見つけようと――
「――ッ」
「――」
何か音が降ってきていた。
辺りを見渡してみる。
何もない……いや、結局ここに戻ってきていた。
ウチのカラオケボックスの入っている雑居ビルの下。
そして、あの日と同じように空を仰げば、微かに、本当に微かな声が聞こえてきていた。
(――上? ……屋、上ッ!?)
考えるよりも先に身体は動いていた。
光も音もない屋上へ続く階段へ踏み出し、駆け上がる。
階段の間隔は体が覚えていた。
何度か踏み外し、行き過ぎて壁にぶつかりながらも駆け上る。
四階……五階……そして屋上へ。
駆け上った先、普段は固く閉ざされているはずの屋上の扉は口を開け、不自然な笑みを浮かべるように歪み、扉としての役割を果たしていなかった。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
上下する肩を宥め、息を整えながら屋上を覗き見れば、果たして――
そこには、あれだけ探し回っても見つからなかった例の男が、あの黒い女と二人、抱き締め合っている姿が見えた。
「やったぞ百合っ! やったんだ!」
「ど、どうしたのキョーちゃん?! いきなり抱き着いて……」
困惑する女に「キョーちゃん」と呼ばれた男は、一人、喜びを爆発させているのが遠目からもよく分かる。
(何を喜んでる何で喜んでいる俺はこんなに俺はこんなに俺はこんなに――)
「抜けたんだよ、やっと……この時間になっても大丈夫なら、間違いないッ!」
「抜けたってなに? それに……ここって……?」
「繰り返して繰り返して、色んなも物を犠牲にして……ようやく救われ――」
――その単語を耳にした瞬間、スッと心に夜の帳が降りたような気がした。
犠牲にした?
救われた?
俺を巻き込んで
俺を苦しめ
俺を閉じ込めて
自分たちだけ
自分たちだけ――?
「ああああああああッ!」
………………
…………
……
目の前には黒い女の顔があった。
息さえ届く距離。
口から血の泡を吐き、土色になっていく見慣れた光景。
手元の硬い感触を引っ張ると黒い女は大きく痙攣し、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
ズシリと重い感触に手元を確認すれば、血濡れた大ぶりの包丁。
「ゆ……り……? なん、で……」
女の横に膝をつき、ズボンを赤く染める男の不快な声が心に障る。
「オレを庇って……なんで……もう、助かったと――」
また、この女は俺の目の前で死んだ。
だからどうした?
お前が俺を引き摺り込んだんだ
お前が俺の世界を殺したんだ――
「――死ねよ」
心の中で渦巻く黒いマグマのような感情のまま、俺は包丁を振りかぶった。
◇ ◇ ◇
空を覆う雲からは、いつの間にか幾条もの雫がこぼれ落ちてきていた。
身体はとうに冷え切っている。
目の前には、赤い泉の中、まるで抱き合うように横たわる男女の姿があった。
「……消えない」
どれだけ見つめても、死体は消えない。
「――った」
あの吐き気も起こらない。
「……ぉぉぉおおおああああッ!!」
その現実が示すことはただ一つ。
「抜け出せた。抜け出せたっ。抜け出せたぁッ!
やったやったやった、ついにやった! 俺はついに抜け出せたんだ!」
確証は無かった。
しかし、確信はあった。
もう、あの地獄のような繰り返しの毎日から抜け出せたんだ。
「ようやく先に進める。ようやく先に進める」
明日から何をしよう。
明日からどうしよう。
彼女作って、就活して、いっぱい遊んで、何でもできるような気が――
乾いた身体を癒す雨の中、解放されたことによる全能感が、いくつもの未来図を脳に描き出した頃、俺はようやく気付いた。
いつの間にかあげていた笑い声を止め、屋上の端、手摺柵の所に駆けよれば、眼前に広がっているのは見慣れない廃墟の街の姿。
「……ははは、明日って」
自嘲の言葉がこぼれ落ちた。
明日をのぞむどころか……
俺は振り返り、横たわる男に近付くと、その身体を力いっぱい蹴り上げた。
「何なんだよこれは。何なんだよここはッ! 何なんだよお前、これどうなってんだよ!」
俺は蹴り続けた。何度も。何度も。
やがて気が晴れるよりも先に体力が尽きた俺は、男の横に腰を落とした。
ズボンに雨が染み、不快感が肌に直接伝わってくる。
だが、そんなことはどうでも良かった。
「くそっ、くそっ、くそぉ……こんな終わり方なんて……」
食べ物さえ見つからないこんな世界で、自分がたった一人辿る末路、それを想像してしまう。
そこには絶望しかなかった。
「何でこんな事になったんだ。何が悪かったんだ。俺が……俺が何をしたっていうんだよ。あんまりだ。ひどすぎる。こんなのって……」
嘆いたとしてもどうしようもなかった。
それでも、嘆かずにはいられなかった。
「何で俺なんだよッ!」
意味のない行動だと分かっていても、責めるしかできなかった。
既に物言わぬ男を。
だが、気付く。
その男のポケットからあるものがこぼれ落ちている事に。
さっき、散々蹴った衝撃で出てきたのだろうか、例の、あのおもちゃのような銃。
男が引き金を引いた瞬間に世界が変わった……たぶん。
タイミング的には間違いない。
これが、あの繰り返しの世界の、過去に戻るための装置……のはず。
俺は、その銃を手に取る。
掌に収まりそうな大きさの銃は、意外なほど重量を感じさせた。
銃など持ったことはないが、その重さは、これが本物の銃のようにも思えるものだった。
男に倣うように、こめかみに銃口を押し当ててみる。
もし、これが本物の銃だったら。
あれは、たまたま偶然のタイミングが重なっただけで、あの現象の原因は他にあったら……
自殺、死――
血管に、神経に、氷粒がはしる。
筋肉が凍り付き、勝手に全身が震えだす。
もしかすると、今日見つけられなかっただけで、他にも人がいるかもしれない。
この街の外は、普通の世界が広がっているかもしれない。
明日目覚めれば元の世界に戻っているかもしれない。
死ねば終わりだ。
死んだら終わりだ。
そんな思いが、まるで俺の行動を押し留めるように、次から次へと湧き上がってくる。
「死ぬのは嫌だ死ぬのは嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない……無理だ」
希望的観測と生存欲求、幻想と現実。
二つの間で、俺は動けずにいた。
自分に突き付ける銃が、不規則に何度もこめかみへとぶつかる。
だけど、理屈では分かっていた。
もう、俺にはこの銃の引き金を引く道しか残っていないということが。
この世界が続いていくのなら、助かっても、この二人を殺したという事実が残る。
やり直さないと。
自分の平穏を取り戻すためにも、やり直さないといけない。
「……引くぞッ! ……引くぞッ!」
荒い息を何度も吐きながら自分を鼓舞する。
息が乱れる。
手が震え、銃口が暴れる。
「……引くぞッ! 引くぞ引くぞ引くぞッ!」
深呼吸をする。
乱れた呼吸を無理やり整え、大きく息を吸う。
やる!
やる!
やるッ!!
眼を閉じ、引き金に掛けた指を勢いよく引いた。
「んん゛――!」
乾いた発砲音は響かなかった。
代わりに、世界が歪む感覚。
そして――
いつか聞いた、あの『カチリ』という歯車が嵌るような音が、頭の奥深くで静かに響いた。
<了>




