1.
【凄惨な表現あり】
「おい鈴木、フライヤー行ってきてくれ」
「は~い」
店長の言葉に軽く応え、バックヤードに戻ると、一枚ものの宣伝用チラシの束を手に取る。
エプロンを外し、宣伝用のジャージを羽織り、店長に行ってきますと声をかけると、俺は店の階段を一段飛ばしにリズムよく降りていく。
週の真ん中、開店直後のカラオケボックスはハッキリと言えば暇だ。
余程のことがない限り開店前に行列ができることもないうえ、客といえば常連が二・三名程度。
業務量も少なく、暇を持て余すのが正直なところ。こうした宣伝業務に割り当てられることも多い。
「うぇっ、蒸し暑っ……」
階段の下から、ぬめりのある生暖かい空気が這い上がってきた。
じっとり身体にまとわりついてくる不快感に、思わず口からボヤキが出る。
「はぁ、なんでこんな蒸し暑いんだよ。はよ夏……も、通り過ぎて秋になれっての。面倒」
二階、一階と階段を降りて外に出れば、通勤時と同じスッキリしない空が広がっていた。
まるで水の中にいるような湿度。
「はぁ……ヤダヤダ」
雑居ビルの谷間。この時間、店の前にはほとんど人通りがない。
少し開けた通りまで出ようとした俺の耳に、ビルに反響した何かの声が聞こえてきた。
「……ぉぉぉぉ」
叫び声? 雄叫び? さすがに、酔っ払いがウロつくような時間じゃない。
判然としない反響するその声を探すように頭上を仰いだ瞬間、俺の視界を何かが横切り――
どちゃッ!
水と、硬いものと、柔らかいものが一緒に潰れたような音。
不快感を伴うその音に、背筋を冷たい感覚が走り抜け、蒸し暑さとは違う別の汗が噴き出る。
本能が……上向いた視線を地面の方へ戻すことを激しく拒否している気がした。
だけど――
「……ぅ、ぁ…………ごッ!」
音が、声が聞こえてきた。
その声に含まれる人間の気配が、ソレを見ることを拒否するという選択肢を横に追いやろうとする。
『見ちゃダメだ!』
『確認しないとッ!』
相反し、せめぎ合う二つの感情。
その葛藤の末、俺はゆっくりと視線を戻す。
脳裏には既にそこに何があるのか想像できていた。
しかし――
「ゔッ!」
それを目視した瞬間、想像を上回る生理的嫌悪が全て溢れるように強烈な吐き気が湧き上がってきた。
手足があらぬ方向に折れ曲がり、血だまりの中で痙攣しているのは、明らかに人間の姿。
特に即死を免れたのが残酷だった。歪んだ顔で、消えゆく瞳が俺を捉えている。
「う……ぁ……」
何かを懇願するような、命の消えかけている目が俺を見つめている。
(なんでそんな目で……どうしたら、何が? 誰?! 逃げ……?)
俺はただのバイトでフリーター。こんな事態の想定なんて当然のようにできていない。意味が分からない理解できないワケが分からないッ。
ただ、何故だろう。
身に纏っている宣伝用ジャージの僅かな重み。それが一つの行動への意識を自分に与える。
(救急車ッ!)
店の看板を背負っているという普段の自分ではあまり考えられない意識が、目の前の人を助けるべきだという義務感を沸き上がらせた。
スマホを取り出そうとポケットに手を突っ込み、そして気が付く。
(バイト中だろッ、スマホはロッカーの中だ!)
(誰か呼ばないと。誰……店長ッ!)
動いた。
頭の中も、身体も。想定外の事態で咄嗟に動ける自分が誇らしく感じる。
助けを求めるため、店長を呼びに行くことを伝えるために落ちてきた人に近付く。
顔は衝撃で歪み判然としないが、特徴的な黒のゴスロリファッション。潰れた身体でも、胸元の膨らみで女だと分かった。
その彼女は、既にもがくことも呻くこともなく、瞳から色を失っていた。
(し……死ん!? いや、とにかく人を呼ばないとッ!)
カチリ。
頭の奥深くで、乾いた音が響いた。
まるで何かの歯車が、ぴったりと嵌まるような音。
思考が一瞬、白く凍りつく。
しかしすぐに我に返ると、俺は店に向かって駆け出した。
(アレを店長に伝えないと!)
その思いで階段を駆け上がるが、考えに引き摺られるように脳裏にあの姿が浮かび上がってくる。
折れ曲がった手足。潰れた身体。虚ろな瞳。
「ゔッ!」
再び激しい吐き気が喉の奥に湧きおこり、自分の輪郭が感じられなくなる程に激しく嘔吐いてしまう。だが、何も吐き出せない。
しばらく階段でうずくまってしまったが、吐き気がマシになると、再び階段を駆け上がった。
店内へ飛び込むと、カウンターで店長が開店時のレジチェックをしていた。
その身体に抱き着くほどの勢いで近づく。
「て……店長――」
「どうした、鈴木? 血相変えて。バケモノでも出たか?」
少しからかうように笑う店長の前で、冷静に話せるよう息を整える。
「店長……ひひひ人が、降ってきました。屋上。上。ぐちゃって」
「ははは、落ち着けよ鈴木。人が……人ッ!?」
笑っていた店長の顔色が、内容を理解した瞬間一変する。
普段笑顔の絶えない顔を引き締めると、レジの横に置いてある業務用のスマホを掴み、バックヤードの方へと声を掛ける。
「佐々木さん、少しの間、カウンターお願い」
そして、俺に場所を確認するよりも早く、大柄な体を躍らせながら店外への階段を駆け下りた。
しかし――
「なん、で……?!」
彼女が伏しているはずのその場所には、その身体はおろか、流れていた血の跡すら残っていなかった。
「死体が……消え、た?」
お読みいただき、ありがとうございます。
短いお話ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。




