大学と高校分
彼までの距離 ~大学と高校分~
大学が始まれば、彼との微妙な距離感などすぐ忘れていってしまいそうになるほど忙しくなった。
電話はできない。メールはするけど、お互いの本心には触れぬようにあたりさわりのない会話をする。本心のない言葉を携帯の画面に打ち込み、笑ってみたりするしかなくて、登校中にため息をつく。
そんな毎日を過ごしていた。
「おはようーー。今日の新歓楽しみだね」
大学に続く道をのんびりと歩いていると、いきなり後ろから声をかけられる。急いで振り返ってみれば、同じ学科の男の子だった。オリエンテーションで一緒になった、確か名前は……。
「田中くんっ」
「うん、田上ね」
「……ごめんなさい」
「まぁ、いいけどさぁ」
高木さん、全然クラスメイト覚えてくれないんだなぁーと『田上』くんは少しだけ残念そうに苦笑いした。
名前を覚えていなかったわたし自身はそれを否定することもできずにそっと黙り込む。惜しいところまでは覚えていたんだけどなぁ。
「えっと、みなとくん、てことは覚えてるんだけど……」
「下の名前を?」
「んー、知り合いと同じ名前でね」
そう田上 みなとくん。
彼と同じ名前。だから初めて名前を聞いた時からずっとその名が頭を巡っている。間違えるわけもない。だけどその名前で呼ばなかったのは、単純に名前を紡いでしまうと否が応でも彼を呼ぶ時と被ってしまって、冷静でいられなくなるからだ。
「あー、じゃぁ、みなと君でも別に」
「ううん、田上くんて呼ばせて」
この口で、彼以外を『みなとくん』だなんて呼びたくない。どうしたって彼を思い出してしまうし、彼じゃないことにわたしは少なからず動揺して落胆してしまうだろうから。
そんなのクラスメイトの彼に失礼すぎる。呼んで、勝手に彼じゃないと落ち込むなんて。
「そっか、ざんねーん」
「次はちゃんと覚えてるからね、田上くん」
田上くんの笑顔はまるでわたしの好きな人に似ていなくて、少し安堵してしまう。
彼はこんな風に、屈託なく笑うことなど少ない。ただ愛しさを内包して、本当にわずかにほほ笑むだけだ。
あぁ、似てない。重ねることもない。落胆することだって、勝手に彼と比べてわずかな差異に気づくこともない。
それに気づいて、笑ってしまう。嬉しかったんだ、単純に。
「今日、先輩たちのおごりだって」
「え、いいのかな?」
「酒さえ飲まなけりゃいいんじゃない?」
「意外に真面目だ」
「でっしょー」
気を遣わない会話は久しぶりで、知らずに口数が多くなる。無口な彼のために必死に話題を探して、毎日頑張って話していたのを思い出して胸が締め付けられる。
そうだ、あの頃はそれさえも楽しかった。彼がどんなことを考えているのか知れたし、どんな話題が好きなのかも知れた。それを知るたびに彼に近づけた気がした。
それを思い出して、ふっと自嘲するような笑みが漏れた。
「あ、そうそう、高木さん。バスケ好きなの?」
唐突な問いに、思わず肩がびくりと震えた。予想もしなかった問いはわたしの一番痛いところを容赦なくついてきて、息が止まった気がした。
確実に、心臓が大きく鳴っている。ばくばくとうるさい鼓動が耳元で盛んに自分を責める。どうして、と声にもならない囁きが口から洩れた。当然、近くにいる彼には届いていて、田上くんは少しだけ不思議そうにした後バッグを指さす。
「いや、携帯ストラップがバスケットボールだから」
「あ、あぁ、これね」
合点が行ったと当時に息が吸えて、途端に呼吸が楽になる。ぐっと無意識に握りしめていた拳を解いて、バッグから出ていたストラップをちりんと指ではじいた。
子供っぽいだろうとそれは、こんなときでさえ外す気になれないのだからとことんわたしも物好きなんだろう。彼には内緒で買ってしまった、結構古いキーホルダー。彼とのつながりを持ったと小さく優越感を持ったのは、遠い昔のように思った。
「全然ルールとか知らないんだけど、試合見てると惹き込まれちゃって。それでつけてるの」
「好きな選手とかいるの?」
何の含みもなく問われたそれに、また息が止まりそうになる。それでも彼の質問の意図は『好きなプロの選手がいるの?』ということであるのに気が付き、緩やかに首を振った。
そんなに詳しいわけじゃないのだと言おうとして口を開けば、田上くんが先に笑う。
「俺ね、最近までバスケやってて。いや、高校でバスケ部でさぁ」
「そうなんだ。じゃぁ、田上くんの方が詳しいね、きっと」
思わぬところで見つけた共通点。気にしなければ本当に小さなものでしかないのに、今のわたしにしてみれば結構な地雷だった。
田上くんは彼と同じようにバスケをやってて、彼と同じようにあのボールを持って体育館の中を走り回っていたのか。同じように朝から走り回り、学校が終わっても走り回り、あの小さなリングの中へボールを入れることに一生懸命だったんだろうか。
「そうかなぁー」
「わたし、ゴールにボールを入れたら点が入ることしか知らないし。点数変わるって分かったの、つい最近だし」
言い訳のようにそう付け加えて、手を振った。
本当のことなのだ、実は。彼がプレーしている様子が好きで、彼が楽しそうに説明してくれるのが好きで、だから自分で勉強しつつも実のところそんなに詳しいわけじゃなかった。
彼には失礼だけど、『バスケ』自身に興味があったわけじゃないのだ。その競技をしている彼が、好きだったから。
好きな人がしているスポーツだから興味があったのだ。彼があまりに楽しそうにしているから、どんなものか興味がわいたのだ。
そのスポーツが特別になったのは、彼が、特別だったから。
「でも好きなんでしょ?」
「うん、好きだよ」
バスケが、じゃない。彼が、だ。
苦く笑って答えれば、田上くんは少しだけ驚いたような顔をして、次いで照れたように視線を逸らした。
「高木さんもそんな風に笑うんだね」
「え?」
「ううん、何でもないよ」
こんなときまでわたしは彼を思い出す。彼は今どうしているのかと、もうバスケの練習をしているのかと。
あの重いボールを自在に操り、コートを走り回り、その繊細という言葉とはかけ離れた手でゴールを狙っているのかと。
ふと掠めた思い出に、苦い思いが広がったことに気づかぬふりをして、わたしは田上くんに『好きな選手いるの?』と聞き返した。きっと知らない人の名前が出てくるんだろうけど。
「えっ、俺? あー、プロじゃないんだけどさ」
その言葉に、じゃぁアマチュアの人か、部の先輩かと首を傾げる。続けられる言葉に、目を見開くことになるとも知らず。
「日野 湊って人が、憧れっていうか、選手として尊敬してるっていうか。あーー、何て言うんだろ。とりあえず、あの人の試合がすごく好き、です」
「そう、なんだ」
名前が同じなのも手伝って勝手に親近感を持ってるだけなんだけど。あと同い年で、大学も有名なところに通ってて、と彼の言葉に何も返せなくなった。
時間が止まった気がして、今度こそうまく息が吸えなくなる。
湊くん、ずるいよ。こんなところでもわたしは、湊くんのことを記憶の隅に追いやれない。ほんの数時間、あなたから離れていたいのに。
「あ、その人が通ってた高校、ここから五駅先なんだけど、それもなんか偶然っていうか」
わたしは自分の出身高校を言うタイミングを逃して、口を閉ざした。何も言うことができなくて、ただ田上くんの言葉に静かに頷く。
そして彼がどんな思いでバスケを選んだのか考えた。
湊くんは、バスケを選ばないなんていう選択肢、始めからなかったんだね。あなた自身も、周りも、そんなこと考えてもいなかったんだ。
それが今ようやく分かった。わたしが思うよりずっと、あなたは遠かったんだ。今更正確に把握した、あなたとの距離。
それは今、大学と高校分の遠さだった。