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larme ~短編集~  作者: いつき
ルームシェアシリーズ
PR
26/50

ルームシェア、始めました

 拍手採録

 題名どおり、同居モノ。

『ルームシェア、始めます』




 大学へ入って早半年。夏休みも終わり、後期の授業が始まった。

 無駄に長い夏休みが終わってすぐの授業というのは、何だか折角慣れた前期の感覚もすべて忘れていてひどく大学へ行くのが面倒になっていた。

 というのも、私が遠距離通学者だからだ。

 電車で一時間半という長い道のりをひたすらに通う。おかげで毎日五時台に起きなければいけないのだ。

 ……身だしなみなんてどうでもいいので、リップを塗って完成という顔(完璧かどうかはさておき)を差し引いても、早く起きなければいけない。そんな苦痛ってない。

「もう一人暮らししたいー」

「あー、すれば?」

 隣でお弁当を食べていた友人が苦笑いする。

 彼女はいいよ? 実家が大学から十分の近所なんだから。おかげで八時半に起きても間に合う。

 私より三時間も長く寝てるって一体どういうことだろう。

「でもさぁ。通うって言った手前、何か今更言うのも情けない……」

 一人暮らしに障害はつきものだ。私は家事が得意なわけでもないし、生まれてこの方修学旅行以上の長い旅をしたことがない。

 つまり一週間以上家を離れたことがないのだ。

 家に帰らない暮らしなんて想像できないし、何よりも絶対に寂しいと思う。

「耐えられそうにない」

「都、あんた心配しすぎ。やれば何とかなりそうよ?」

「なりそうにない」

 ボソリと呟いてから、何故自分はそんな苦労をしてまでこの学科に通いたかったんだと頭を押さえた。

 もっと近い学校は……。残念ながら国公立ではなかった。仕方ないので一番近い公立大学を選んだのだ。

 学校自体に不満があるわけでもないし、学科だって好きなことを勉強している。不満なんて持つのは、行かせてくれている両親に申し訳ないとも思う。

 思う、が。

 それとこれとは別だ。とりあえず、家から離れていることが憎い。

「言ってみようかなぁ」

「いざとなったら、うちでご飯食べさせてあげるし」

 友人のありがたい言葉に元気付けられ、駄目元で言ってみる勇気が出た。とりあえず、話してみよう。




「だから、お母さん言ったのに。一人暮らしの方がいいよって」

「でも、通学の方が安いでしょ? 京子も大学行きたいらしいし」

 とりあえず、母に相談してみると、思いの外あっさりと賛成された。

 どうやら、母もわたしの大変さが分かるようだ。確かに、お弁当だって作るの大変だよね、毎朝朝早くに。

「京ちゃんは、まぁ、そうだけどー」

 困ったねぇ、なんて大して深刻そうではない声で言った。それから少し考えて、にっこりとこちらを見て笑う。油断するなかれ、この顔は色々とヤバイ。

 悪巧みではないけど、爆弾を落とすときの顔だ。しかも、ものすごーく天然で悪気がないから、何とも言えない。悪気はないのだ。

「お父さんに聞いてみてからじゃないと分からないけど。……美里ちゃんのところへ行ったらいいんじゃないかなぁって思うなぁ。お母さんは」

 美里ちゃん。美里ちゃんって……。

「従姉の?」

 そうそう、と私の従姉の名前、お母さんから見た姪っ子の名前を出した。

 お母さんの妹の娘さん。なのに、私より年上。

 お父さんが新婚を満喫したいとか言って、結婚して数年は子供を作る予定がなかったらしい両親とは違い、叔母のところには早くから子供がいた。(というか、単純に早くできてしまったらしい)

 母は三姉妹の長女なのだが、何事にもゆっくりおっとりなので、それくらいが丁度いいのかもしれない。

 三姉妹生まれの母よろしく、女系家族の血はしっかりと我が家にも受け継がれているらしい。

 我が家もきちんと姉妹だった。

 お父さんは女の子が好きだからいいけど、お母さんは息子が一人欲しかったから、もしかしたら残念に思っているのかもしれない。

 それならもう一人くらい作ればよかったのに。

「丁度美里ちゃんは一人暮らししてるでしょう? あ、大学卒業したから広いところに移ったって言ってたね」

 だから、どうした。

「お母さんがルームシェア頼んであげるわ。はるちゃんところに電話しとこうー」

 はるちゃん、と母が呼ぶのは叔母の春華さんのことだ。

 美里ちゃんは従姉であるのと同時に、小さい頃の遊び相手だ。

 四歳も歳が違うと、遊ぶ時間は次第に少なくなっていったが、それでも楽しい相手であることには変わりない。

 美里ちゃんは好き。優しいし、頭いいし、しっかりしてる。

 たまに電話もくれるし、こっちに帰ってきたときは必ず声をかけてくれる。

 そんな美里ちゃんの家に遊びにいけるかもしれないから、なんて理由で大学を選んだのもまた事実で。

 美里ちゃんの行ってた大学は、がっちがちの理工学系で、私には縁のないものだったから行けないんだけど。

 でも近くの大学には行きたかったのだ。

 このことは美里ちゃんにだけは言っている。

「え、でも美里ちゃんに悪いよ。もうお仕事してるし」

「はるちゃんに言われてたのよ。都ちゃんが大学行きだしたらルームシェアしてくれない? って」

 あれで結構心配性なのよね、なんてお母さんが言ってルンルン気分で電話をかけ始める。

 こうして、何故か父に相談する前にルームシェアが決まっていた。

「お父さん何て言うと思う?」

「別に、智くんは何も言わないと思うけど。智くんは私がいればいいんだもの」

 にっこりと笑った母の言葉は非常に納得したくないが、事実だ。悔しいことに、私も妹も母に勝てたためしがない。

 子供なら誰しも一度は聞いたことがある質問だろう。

『お父さんは、お母さんと私、どっちが好き?』

 と。

 いたいけな子供が、しかも我が子が聞いたのだから、そんなときくらいは『そんなの都に決まってる』と言ってくれてもいいのに、父は即答した。

『もちろん、朔華さん』

 その一言がどれだけ私のプライドやら何やらを傷つけたか。

『都も京子も大好き。だけどね。俺が一番好きなのは、朔華さんなの。世界で一番、愛してるんだ』

 よくもまぁ、娘の前で恥ずかしげもなく。

「確かにそうかもだけど」

「美里ちゃんもよく帰ってきてたじゃない? だから、都ちゃんもよく帰ってくればいいよ」

 さらりと髪を撫でた母に抱きつけば、ぎゅっと抱きしめ返された。



 ルームシェア、始めます。




――――――――――――――


『ルームシェア、始められません』




 ルームシェアの話は意外なほどすんなり通り、二週間後にはすっかり引越しする話になっていた。

 元々春華叔母さんは私をここへ入れたがっていたらしく、部屋も一つ丸々空いてるのだとか。

 理由を聞けばすんなりと。

「都があんな距離に耐えられるわけないと思ったから」

 とばっさり言われた。

 確かに、と思う一方で姪っ子にその言い方は何だろうかと思ってしまう。

「だって、都。あんたものぐさだし、時間無駄にするのが嫌な性格でしょう? わたしに似てるからねぇ。お姉ちゃんより似てるよ、多分」

「そうかなぁ。都ちゃん、私にそっくりだと思うよ?」

 顔はどちらに似てもほぼ一緒なので、あまり論点にはならないらしい。

 私としては子供っぽい二人の容姿より、三姉妹の末っ子である藍華叔母さんに似たかった。 そのほうが大人っぽく見えるのだ。

「ともかく、美里に連絡しといたから。美里も喜んでたわよ。でもその前に部屋を見といたほうがいいかもね。今週の土曜日に行って、一泊してらっしゃいよ。連絡は入れといてあげるから」

 その言葉を、信じるんじゃなかったと今なら言える。




 土曜日、手土産を持って言われたとおりの住所の前に立つ。少し古いけど上品な壁のアパートだった。

 とても一部屋空くような間取りがあるとは思えないのだが。

 それでも表札を確認し、そこにきちんと『藤本 美里』と書かれていることに安堵してインターホンを鳴らす。

 一秒、二秒、三秒……。

 出てこない。

 春華叔母さんから連絡が行っているはずなので、いないことはないと思うんだけど。

 もう一度鳴らすと、がちゃがちゃと音がして、扉が開いた。しかし、そこにいたのは仲のよい従姉ではなかった。

「はい、どちらさま?」

 パジャマ姿の、男性。癖の強い黒髪に、すらりとした肢体。筋の通った鼻筋と、少々軽薄そうな瞳。メガネをかけてこちらを見る彼は、どこからどう見ても美里ちゃんじゃない。

「あの、どちらさま?」

 呆然とする私に、男性は再び話しかける。びっくりと目を見開いた私は一度、二度と瞬きをして、ようやく言葉を出せるまでになった。

 とはいえ、冷静になったわけではなかった。

「あの、ここは……。藤本 美里さんのお宅ですか?」

「だから、どちらさま? 見も知らない人に確認されても、答えようがない」

 三度、男性がこちらの素性を聞きたがった。

 見も知らないのは、私のほうだ。

 あんたこそ誰だよ、女の名前が書かれている表札の家から出てきて。私が会いたいのはあなたじゃない。

 だけど言い返せずに、自分の名前を言おうとした。

「池平、都です。あの、美里ちゃんの、従姉なんですけど……。来週から、ここで住むことになってる」

 ぴしっと彼の顔が固まる。

 それから私と彼の間にしばらくの沈黙が訪れて、男性ははっとした。

「えっと、つまりルームシェアするってこと?」

「お部屋、空いてるって聞いたんですけど」

 二人で沈黙。

 それからようやく冷静になったらしい彼は大きなため息を吐いて、部屋に入ろうとした。

「あの!」

「はい?」

「……あなた、誰? 美里ちゃんの、彼氏さん、ですか??」

 むしろ彼氏以外がパジャマ姿で美里ちゃんの部屋にいたら驚きだが。

「そう、だね。うん、彼氏。多分」

 多分、ってどういうことだ。

「とりあえず、上がって。美里呼んでくるから」

 どうぞ、と部屋を指し示されて『あんたの部屋じゃないだろう』とツッコミを入れる。

 だけどそういうわけにもいかなくて、大人しく部屋に入った。

 間取りは至ってシンプル。玄関を入ってすぐ右に台所があり、そこから二つの部屋に続く。一方で、玄関を入って真っ直ぐに行くともう一つの部屋で、左に曲がればトイレとお風呂らしきところ。

 私はすぐ右にある台所……キッチンをとおり、言われるがままに小さな机と座布団が敷いてあるところへ座った。

「美里ちゃんの、馬鹿ぁ」

 小さく出たのは、紛れもなく従姉を非難する言葉だ。

 彼氏がいるのに、ルームシェアを了承する馬鹿がどこにいるんだ。しかもその彼氏を泊まらせておいて、どうして私が来る日に限ってそんな。

「都?!」

「美里ちゃんーー」

 がたん、と音がして振り返れば、長い髪を振り乱した美里ちゃんがいた。ちなみにタンクトップに下は下着だけというかなりきわどい格好だ。

 その後に続いた男性がふわりと上着を着せ、それから短いズボンを差し出した。

「美里、とりあえず何か着ろ」

「どうしたの、都。いきなり来て! 連絡してくれたら迎えに行ったのに」

「……春華叔母さんが連絡するって言ってたよ」

 三人の間に気まずい沈黙が流れた。

「あー、母さん、たまに抜けてるから」

「えっと、とりあえず今日は帰るね。ルームシェアは一旦白紙ということで」

 一旦白紙どころか、絶対に白紙だ。

 彼氏がいる人のところなんかに住めるわけないだろ。いくら美里ちゃんがいいと言ったって、気を遣うのは必須だ。

 そして、私は誰かにそんなに頻繁に泊めてもらうつもりはない。やはり半年くらい待って、来年の春から一人暮らしができる部屋を探そう。

 ……いや、一人暮らしを諦めようかな。

「ま、待ってよ。都。まさかうちの親に言うつもりじゃないよね?」

「……言わないなんて選択肢、どこから出てくるの? 美里ちゃん」

 ふわりとため息を吐くように言えば、美里ちゃんは顔を引きつらせた。こちらを怒らせた、もとい不機嫌にさせたと自覚したらしい。

 別に美里ちゃんが悪いわけでも、彼氏さんが悪いわけでもないのだから、そこまで眉を下げなくてもいいのに。

「ごめんってば!」

「別に怒ってるわけじゃないよ。連絡が行ってなかったんだから、今回は事故でしょ。引越しの当日にやられたわけじゃないし、対処できるうちに分かってよかったよ。

来年の春には来れるように準備するから、美里ちゃんが気にすることじゃ」

「待ってってば!! お、お母さんに言うの?! 彼氏できたって?!」

 あぁ、やっと美里ちゃんが焦っている理由が分かった。私を怒らせたと心配してるわけじゃないらしい。

 彼女が心配なのは、このことを親に知られたときのことなのだ。こちらの思いなんて、丸きり無視か。

 私が、どれだけ焦って、気まずくて……知らなかったことがショックだったかなんて、考えてもないわけか。

 私は好きな人ができたら逐一報告してたと言うのに。

「うん、言おうかな? 春華叔母さん、厳しかったよね。確か。あ、叔父さんも厳しかったっけ? 言ったら、どうなるだろうね」

 にっこりと笑って言えば、彼女は少しだけ顔を引きつらせた。今度こそ、私を怒らせたことに気がついたらしい。

 そうだよねぇ、ここまでして分からない方がおかしいよね。

「都、もしかして、今すごく怒ってる?」

「うん、すっごく怒ってる」

「ひょっとして、黙ってたことに対して?」

「それもあるけど。美里ちゃんが彼氏さんのことを親にばれないようにしてることが? と、いうかそれしか考えずに私のことを全く考えてくれないこととか?」

 隠す必要もないから言うと、『ごめんってばぁ』と美里ちゃんが抱きついてきた。

 抱きついてこられても、ルームシェアを止めるにはそれなりの理由がなければ、私だって親に説明がつかない。

 幸いなことに、美里ちゃんは成人してるのだし、そんなに怒られないと思うけど。

 私の年の子が同棲してるわけじゃないんだし?

「ねぇ、都ぉ」

「だって、ルームシェア止めるなら理由が必要でしょ? 私にそれ以外どうやって説明しろって言うの?」

 そう言うと、美里ちゃんはしょんぼりしたように肩を落とした。それからため息を吐いて、彼氏さんに向かって言う。

「よし、別れよう」

「「はぁ?!」」

 彼氏さんと私の声がはもった。

 二人して、予想外の言葉に恐れて思わず立ち上がる。

「ちょ、何言ってんの。美里ちゃん」

「そうだぞ、美里。ご両親に挨拶ならするから!」

 二人して説得に回る羽目になろうとは思わなかった。

 ま、でも言うけどね。

 私にだって両親に説明する義務があるし、第一いきなりルームシェア止めるなんて何か理由があったと感付かれるだろうし。

「美里!」

「美里ちゃん!」

「うぅー。あ……、ちょっと待って。そうだよね、別れるなんて早急すぎる。うん、そうそう。そうだよ。ここはあれだ、使えるものは使おう」

 一人で勝手に何かを決めたらしい。どこかへ連絡をして一言。

「あ、隆介? お姉ちゃんですー。あのねぇ。部屋変わらない? そうそう、アンタ前から広い部屋がいいって言ってたでしょ。だから、部屋を口止め料にこっちこない?

……あ、本当にー。よかったぁ。これでわたしも安心した。うん、それじゃ来週ね?」

 携帯片手に何を言い出すかと思えば。

 というか、今誰にかけた?! 隆介って言った? 言ったよね、確かに言ったよ、この人。

「美里ちゃん? 今、隆介って言った?」

「うん。隆介の部屋と交換するー。そうしたら都は気を使わなくってもいいでしょ? それにほら、あんたら幼馴染だし、同い年だし」

「……だけどね、美里ちゃん。隆介は、男の子だよ」

 隆介。藤本 隆介はこの美里ちゃんの弟だ。

 つまりは従兄だ。同い年の、従兄。

 もうかれこれ数年も会ってない、会いたいなんてことも思わなかった人。小さい頃に何度苛められたことか。

 いや、小さい頃から何度周りから比べられたことか。嫌な記憶が沸き起こり、きゅっと唇をかみ締めた。

「美里ちゃん。もしかしなくても、私と隆介をここで暮らさせるつもり?」

「そうしたら都はルームシェア止める言い訳しなくていいでしょ?」

 どこまでも自分勝手な美里ちゃんに腹が立ち、きっと睨みつけると彼女は悪気がなさそうに笑う。

「大学に通う時間、少なくて済むからいいよ。隆介は家事もできるし、信頼できる。こんないい相手はいないよー。従兄妹だから何かあるとは思えないし、隆介も後先考えず行動するタイプじゃないしね」

 そう、よね。そうだった。

 隆介は賢い。私よりずっと賢いし、冷静だし、よほど状況判断に優れてる。

 だけどねぇ。

「美里ちゃんなんて大っ嫌い!!」



 ルームシェア、始められません。




――――――――――――――


『ルームシェア、始まりそうです』




 結局どうなったかと言いますと。

 美里ちゃんの思うようになりました。

 学校から少し離れた美里ちゃんの家と、隆介の家を交換し、隆介の家に美里ちゃんが、美里ちゃんの家に隆介と私が住むことになりました。

 美里ちゃんがばれたら彼氏と別れると宣言し、冷たい感じのお兄さんがその容姿に見合わない必死の土下座をし、私は口を噤むということになってしまいました。

 本当なら何もかも話したかったが、さすがにあの修羅場を二度も経験したいなどと思えるわけもなく、私は人生最大の嘘を親につくことになった。

 吐かざるを得なくなった。不可抗力だ。そうに決まってる。

「で、どうして隆介がここにいるの?」

「口裏会わせようと思ったらお前がさっさと帰ってたから」

 今目の前に入るのは、来週から共に生活を送ることになった同居人。美里ちゃんとはよく連絡を取るけど、隆介とは連絡してなかった。

 ずっと、だ。

 正月に会うこともあったがお互いに干渉しない立場を取っていたので、挨拶もそこそこに、いないものとして接していた。

 一人暮らしをし始めたことは聞いていたが、まさか近くに住んでいるのだとも知らなかった。

「あの、今回のことで学校から遠くなったんだよね」

「当たり前だろ。元々学校から近いところを選んでたのに、姉貴の都合で遠くなった」

「……ごめん」

 久しぶりに交わした会話がこれと言うのは、何だか情けない。情けないけど、何を話せばいいのか分からないこれまでに比べたら、いいのかもしれない。

 いいんだろう、実際。

 数年ぶりに話した彼は昔のままで、私のような後ろめたさやぎこちなさはまるでなかった。

 私が悩んで悩んでやっと出した答えに、まるで何も考えてなかったかのように答える姿は相変わらず苦手意識の塊だった。

 私は、昔から隆介が恐い。恐くてたまらない。出来のいい隆介が、心底恐かった。多分、馬鹿にされているという自覚があるからだろう。

「別に、お前が悪いわけじゃねぇだろ。姉貴が悪いんだから、しょうもないことで謝んな」

「うん。そう、だよね」

 ここは私の家なのに、どうしてか安心できない。こんなときに限ってお母さんは買い物に行っているし、当事者であろうはずの美里ちゃんは実家に顔を見せている。

 お父さんはお母さんと買い物をエンジョイしている頃だろう。

 ただいま、この家には隆介と私しかいない状態なのだ。

「で、とりあえずおれと一緒に暮らすことは秘密にする、と」

「美里ちゃんの秘密がばれちゃうから」

「ほんと、お前ってつくづくお人よしだよな。姉貴がばれたくないって言ってるだけで、お前には関係ないのに」

 呆れた声に、仕方ないじゃない、と返したかったが何も言えなかった。お人よしなんじゃない、と思う。

 ただあんなに必死にお願いされたら、聞くしかなくなると思う。

 隆介はあそこにいなかったから、そんなことが言えるんだ。

「ばれないようにするために、伯母さんたちが来たときはおれが外にでてればいいんだよな?」

「でも、あまりこないと思う。隆介のところもあまり来ないんでしょ? 叔母さんたち」

「そりゃ、お前のところは娘で、おれのところが息子だからだろ。姉貴はな、家にいない人間だから母さんも父さんも諦めてるんだよ」

 そうかな、と思う。ああ見えて、春華叔母さんも、瑲也叔父さんも自分たちの子供をとても大切にしてると思う。

 多分、新しい生活を邪魔しちゃ悪いと思って行かなかったんだろうなぁ。二人して意外に気遣いをしすぎるのだ。言いたいことはすっぱり言うのに。

「部屋は二部屋あるし、大丈夫だろ。んじゃ、おれ帰るわ」

「え、ごはん……」

「あー。そうだったな、伯母さんたちに夕飯頂くって言ったんだっけ」

 立ち上がろうとした隆介に言えば、彼はそっと息を吐いて再び座った。ここへいたくないなら、そう言えばいいのに。

 隆介は相変わらず『いい子』だった。私の両親の期待も裏切らない、いい子。何でもできる、何でも上手にこなす。

 私より、ずっとずっと出来がいい。

 彼と比べられるのが嫌で、中学は別のところへ行こうとした。行こうとしたけど、中学受験なんて言い出せるはずもなくって、結局中学三年間は同じところへ行った。

 高校は意外に簡単に離れることができた。彼が予想以上に出来がよかったからだ。

 彼はめでたくこの辺一体で有名な進学校である高校へ行き、私はそのまま母達が通った南ヶ丘高校へ行った。

 大学も全く違うところへ行って、多分この先接点などないだろうと思っていた。

 多分、正月とかにしか会わずに、いずれその接点さえ失っていくのだろうと思っていた。

 そうであれ、とずっと願っていたのだ。

 ずっと。ずっと。

「なぁ、都」

「へっ。な、何?」

「お前、まだおれのこと避けてんの?」

 咄嗟に何も言えずに固まると、『まだ避けてんのか』と彼は苦く笑った。今まで一度だって見たことのないその表情に、びくりとする。

 知らない。こんな人知らない。

「避けて、ないよ」

「避けてたじゃん。小学校高学年くらいから」

 それは、違う。避けてたんじゃない。単純に、近づくのを恐れていたんだ。

 何度も言われたから、嫌というほど分かる。

『本当に従兄妹なの?』

 というその言葉。

 小学校低学年の頃はまだ何も分からず、比べられる環境でもなかったからよかった。美里ちゃんも、隆介も好きだった。

 誰より仲がよかったし、同じ年頃の男の子の中で隆介が一番素敵だと思ってた。

 だけど少しずつ、隆介が自分と違うことに気付いていった。

 私の両親も、隆介の両親も、私と隆介を比べるようなことは一度として言わなかったから気付かなかったけれど、周りは違った。

 先生がまるで笑うように『従兄妹なぁ、似てないな』と笑うんだ。

 友人が馬鹿にするように『本当にそうなの?』と無邪気に聞くんだ。

「ただ……」

「ただ?」

「比べられることに、気が付いたの。隆介の近くにいると、比べられるって気付いたから、だから」

 比べられないように逃げた。自分が努力するんじゃなくて、自分と比べられないように遠ざけた。

 苦手意識は消えることなく、深く私の中に根付いた。家族は誰も比べないから、家族がいるところでならきちんと話せた。

 だけど……。もう外で話そうなんて思わない。

「何、お前。まだ気にしてんの?」

「気に、してる。すごく。すごく、悲しかったから」

 そう、悲しかった。

「もう誰も比べねぇよ」

「知ってる」

「知ってるのに、まだおれを避けるのか?」

「避けないように、努力はしてるよ」

 言い訳を許さない彼の言葉が恐いんだ。彼はいつだって正しいから、嫌なんだ。

「なら、こっち向けよ。都」

 ぐっと息を飲み込む。それから意志を固めて、思い切って顔を上げた。そこにあったのは意外に真剣な眼差しをした隆介で、思わず固まった。

 こんな顔をしてたっけ? 小学校以来しっかりと見ていない彼の顔を見て考えた。

 瑲也叔父さんに似た、黒々とした髪と瞳。意志の強そうなしっかりとした目は、叔母さんそっくりで。

 それでも『男の子』だ、と感じるのは平田家に脈々と受け継がれている童顔の血ゆえだろうか。もうそんな年でもないだろうに、まだ『男の子』だと思ってしまう。

 うちのお母さんも、春華叔母さんも童顔だ。

 平田家三姉妹で唯一その公式に当てはまらない藍華叔母さんも、年齢よりは若く見られるというし。

 精悍な顔立ちは、多分瑲也叔父さん似。若い頃の写真とそっくりだ。男の子だけど、男の人。

 不思議な、中途半端なその顔にどうしてだか、ひどく動揺してしまう。

「やっと、こっち見たな。あのまま一緒に住むのは、おれも嫌だし。どうせなら、お互い遠慮なしだろ? 従兄妹だし」

 そっと差し出された手を握り、そしてゆっくりと注意して微笑んだ。

 隆介には分からない。

 ずっと一緒にいて、周りを見なかったあなたには絶対に分からない。だけどそれは隆介のせいじゃない。

 だから、精一杯笑おう。笑えば、私もいつかこの呪縛から解き放たれるだろうから。

 比べなくてもいいんだって、思える日が来ると思うから。

「よろしく、隆介」

「よろしく」

 差し出された手に力を込めて、私とは違う造りの手を感じた。いつの間にか違っている彼の手に、私の手もまたそうなのかと感じる。

「やっと、笑った」

 彼が少しだけ、昔の面影を映して笑った。私にはもうどうやったって作ることのできない笑顔で、少し羨ましかった。

「おれとお前、それから姉貴にその彼氏。全員共犯だから」

「私はともかく、隆介は被害者でしょ?」

 まだ少し、苦手意識は直らない。多分、外で会うと避けちゃうんだろう。だけど、昔から大切だった従兄だから。

 もう一度、あの頃に戻れたらいいって、心の中では思ってたのかもしれない。

「ルームシェア、しようか」



 ルームシェア、始まりそうです。




――――――――――――――


『ルームシェア、始まっちゃいました』




「おーい、都。朝」

 お母さん、もうちょっと寝かせて。今日は……。

「月曜日っ!!」

 そうだ、月曜日。起きなきゃ、電車の時間がっ。早く出ないと電車行っちゃう。一限目に遅れちゃったらどうしよう。

 そう思って飛び起きると、目の前に人影が見えた。

「はよ、都」

「……」

 目の前にいるのは、何故か隆介で。ここは、私の部屋で。どうして??

「お前、昨日からルームシェア始めただろ? 悲鳴、上げんなよ」

 思わず口を開けた私を見つつ、彼はにやりと笑った。スタスタと何でもないように言いおいて、隆介は部屋から出て行く。

 その後姿を見送りながら、はっとして出て行く彼に叫んだ。

「かっ、勝手には入んないでっ」

「あ? だってお前、もう結構ギリギリだぞ?」

 言われて時計を見てみれば、すでに八時を過ぎていた。

「やだっ。今日一限目からあるのにっ」

 ベッドから飛び起きて、すぐさま洗面所に走る。顔を洗って、歯磨きをしているとのんびりとした様子の隆介がこちらを見て笑った。

「で? 入っちゃ駄目なんだっけ?」

「あ、ありが、とう。起こしてくれて」

 一応の礼は言わねばならず、歯ブラシを咥えたままモゴモゴとお礼を口にした。一方の隆介はそれに満足したらしく、よし、と一言出してキッチンへと向かった。

 着替えて、髪をとかして、一応鏡を見て確認する。化粧? そんなものするだけ無駄です、時間がないんです。

「都。弁当」

「へ?」

 こん、と後ろから何か当てられて振り返れば、『この弁当箱だろ?』と聞かれた。そこにあったのはお弁当箱で、きちんとおかずが入っている。

「う、ん。私の」

「作っといたから。……今日だけだけど」

 後ろから付け加えられた言葉は聞かなかったことにして、手渡された弁当をまじまじと見つめた。色彩豊かな、可愛らしいお弁当。

 女の子が作ったんじゃないの、これ。目の前の立派な男が作ったんですか、本当ですか。女子力分けてほしいんだけども。

「隆介って、本当によくできた子だよね。お嫁さんにいけるよ」

「行かなくて結構。朝飯いらねぇなら片付けるけど?」

「食べるっ」

 くるりと背を向けて歩き出そうとする隆介のあとに続いて、キッチンに入る。食パンがきちんと焼かれており、マーガリンやジャムが並んでいた。

 ついでにお弁当の残りがお皿に乗っていて、お箸まで出ている。

 完璧な朝食の風景だ。私が一人暮らしを始めたら、絶対に出ない代物だろうと思う。多分、パンさえ焼かない気がする。

「本当に、隆介って」

「嫁には行かねぇって言ってるだろ」

 言いかけた言葉に、隆介はすかさずつっこんだ。未だぎこちなさの残る会話だったが、幾分か緊張は緩和されていた。

 とはいえ、隆介がここまでこちらの生活に首を突っ込むとは思わなかった。

 元々彼は愛想はいいが、実のところ人に心を開かないタイプの人間だと思う。だから、今日も遅れるなら私の自己責任ということで放置しても、彼らしいといえば彼らしいと思っていた。

 それなのに、彼は私を起こしにくるし、お弁当まで作ってくれる。

「隆介、ちょっと変わった?」

「どこら辺が?」

「うーんと、雰囲気?」

 雰囲気自体はあまり変わらないのかもしれないが、それ以外に何と言えばいいのか分からずそう答えた。

 雰囲気、というよりも行動だろうか。昔はもっと、私に無関心だったし、冷たかった。私のことなんて眼中にない、みたいな。そんな感じだった。

 だから話さなかったし、一緒に遊ぶなんてことも年を経るごとになくなっていった。

「昔は、もっと何て言うんだろう。冷たかったような気がする。私も近づかなかったから、会話自体なかったし」

「そりゃ、お前があれだけ顕著に避ければ、おれだってお前がこっちを恐がってることくらい分かる」

 正確には恐がっていただけではなかったのだが、今更訂正する気も起こらなかった。

「気分悪くしてた?」

「まぁ、少しはな。それでも、おれさえ近づかなかったらお前は笑ってたし、姉貴とは仲がよかったから」

「ごめんね」

 パンを咥えつつ言えば、『ハイハイ』と呆れたように返事をされた。

「おれ、今日先行くけど。都は?」

「あ、うん。もうちょっとあと」

 まだ大丈夫。朝ご飯食べて、お皿洗って。うん、それくらいならできる。

「お皿、洗っとくよ。朝ごはんとお弁当作ってもらったし」

「ん、サンキュ」

 こくん、と小さく頷くのを見て小さく笑った。変わってないところを見つけてしまったのだ。

「何だよ」

 笑われて不機嫌そうな彼に向かって、私は何と言えばいいのだろうか。何も浮かばずに、ただ口元に広がった笑みをかみ殺しつつ彼のほうを見る。

「だって。隆介さ、昔からじゃない?」

「だから、何が」

 不機嫌な声が棘を持つ。いつもなら絶対怯えるけど、今日は違った。

 だって、不機嫌な理由は昔からのクセを指摘されたから、なんて可愛らしいものだから。

「『ん』って言って、こくんって頷くの。えー、懐かしい。まだそれクセなんだ」

「……よく覚えてんな」

「覚えてるよー。可愛かったもん」

 小さい頃は、仲がよかった。ずっとずっと昔は、大好きだった。

 ずっと もう、思い出せないくらい前の話だけど。だけど確実に目の前の隆介は、あの頃の『隆介』と同じ人物だった。

 少し意地悪で、しっかり者で、私を苛めて楽しみながら本気で泣いたら心配してくれるような。

 そう、大好きだった従兄だ。

「懐かしいねぇ」

「嬉しそうだな」

「意地悪で可愛かった隆くん思い出したから。……あ」

 ついクセが出てしまうのはこちらも同じようだ。直したと思っていた隆介の呼び名が出て、こちらも分が悪くなる。

 相手も同じように感じたらしく、にやりと笑ってこちらに向かって首を伸ばした。

「何? まだそう呼んでんの?」

「ちがっ。懐かしかったから間違っただけ! もう呼ばないから」

 そう呼んでた時期もあったんだと、今更ながらに思い出していた。

「へぇ。もう呼ばない、ね」

「呼ばない!」

 呼ばなくなったのはいつ頃だったか。近づかなくなった頃だから、小学校に入って数年経ったくらいだったろうか。

 あの頃の思い出は、私にはもうあやふやすぎて、どうしたらいいのか分からなくなる。

 何が悲しかったとか、何が嫌だったとか。具体的なことは少しくらいしか覚えてないくせに、『悲しい』、『嫌だ』という気持ちは根深く残っている。

 多分、根に持つタイプなのだと思う、私。

「ま、いいや。じゃぁ、行ってくるから」

「行ってらっしゃい」

 私も早く着替えて支度しよう、と思いながらお皿を片付けてから家の中の戸締りをする。それから鍵を持って靴を履き、鞄を持って玄関から出た。

 いつもどおりでない朝だったが、私たち以外はいつもどおりの朝なのだ。鍵を閉めて、玄関に向かって一言。

「行ってきます」




「えっ。従兄と同棲?!」

「声でかい、従兄と『同居』または『ルームシェア』」

 事の次第をあっさりと話してしまった私は、不機嫌な顔を作りつつお弁当を頬張った。

 可愛らしい見た目どおりの味で、ちょっと驚く。本当に、完璧な人間って何やらしても完璧なんだなぁ、とか変なところで感心した。

 だってさ、こんなに小さなお弁当箱に何品をおかず入れるんだよ? 体だって大きいから、手だってそれに比例するように大きいはずなのに。

 あの大きくなった手が、こんなお弁当箱に一つずつおかずを詰めていたのかと思うと。何だか、可愛らしいのを通り越して笑えてくる。

 いえ、ありがたいですけど。

「えー、いいなぁ。イケメンの従兄と同棲とか、まんま少女漫画じゃん」

「イケメンかどうかはさておき、頭のいい完璧超人であることは間違いないね」

 性格はあまりよろしくないけど、と心の中で付け足しておいた。

 最後の最後で優しいことを知っているが、それまでが優しくないことは事実だ。色々言いようがあるけど、要は私を苛めるのが好きなのだろう。

 小さい頃から何だかんだ言いつつ苛められてた気がする。

「えー。少女漫画」

「そんないいものじゃないだろうけど」

 本当なら美里ちゃんと楽しく、あまり気遣いなく過ごせたはずなのに。

「で、当番とか決めるんでしょ? で、お風呂でばったり会っちゃったりなんか」

「香帆、少女漫画の見すぎ。当番は……」

 どうしよう、何も決めてない。お夕飯だって洗濯だって掃除だって、何だってあるじゃないか。

「決めてないんだ」

「決めてないよ、そんなの」

 とりあえず、今日のお夕飯は私が作るべきなんだと思う。さすがにお弁当を用意させたのに、夕食まで作らせるとか、どうなんだ。さすがに。

「ま、夢の同棲生活じゃない? ネタがあったら教えてー」

「ネタなんてない」

「あるわよ! お弁当作ってもらってるとか、起こしてもらってるとか、それだけでもうネタ。相手がイケメンとか、もう、少女漫画にするしかないと思う」

 これ以上言い合っても埒が明かないので、適当に聞き流しつつ携帯を開く。

 昨日まで登録されていなかったメールアドレスを呼び出し、文面を考えた。隆介にメールを送るなんてはじめて。

 メールアドレスなんて、聞こうともしてなかったけど。さすがに連絡先が分からないのは不便だからと教えあったのだ。

 今まで考えもしなかったメールをするという行為に、知らず眉を寄せた。

「メールするの?」

「うん、お夕飯作るから」

『お夕飯、何がいいですか。お弁当を作ってもらったので、私が作ります』

 読み返せば、何とまあ色気も可愛げもないメールだろう。黒一色、顔文字さえ入っていないそのメールを見ながら苦笑いする。

 それでも何か付け足す気になれず、そのまま送信。帰りにスーパーに寄ろうと勝手に考えながら、携帯をしまった。


ルームシェア、始まっちゃいました。




――――――――――――――


『ルームシェア、慣れません』




 学校が終わり、その足でスーパーに向かおうとする。

 が、この大学に来て以来家に真っ直ぐ帰っていた私は、正直どこをどう行けばスーパーに至るのか分かりもしない。

 長い道のりを帰るせいで、いつも脇目も振らずに帰っていたのがアダとなった。どうすればいいんだ……。

「都??」

「香帆、どうしよう。スーパーの行き方が分かんない」

 ぽつり、と呟くように言えば、隣の友人は一度首を横にかしげ、それからようやく合点が言ったように笑った。

「あぁ。じゃぁ、一緒に行こうか。お母さんにメールして、あたしも買い物済ませるよ」

 気のいい友人はそう言って席を立ってくれた。

 今日は丁度四限目で終了の日。丁度夕方といっていい時間で、買い物にも十分適している。これが五限目までの日だとそうもいかず、多分少し遅くなるくらいだと思う。

「ちょっと待ってね。買って帰るものを聞くから」

 はいはい、と返事をして、自分も携帯を開く。するとメールが入っていて、すぐに隆介からのものだと分かった。

 何が食べたいか決めたのだろうか。難しいものじゃなかったらいいんだけど……。いや、難しいものじゃなかったらいいとかそんなんじゃない!

 むしろ全力で簡単なものがいい! カレーとか、シチューとか!

 そこまで考えて、自分の料理のレパートリーのなさに泣けてくる。これで一人暮らしを考えていたとか、正直どうなのよ。

 自分自身に突っ込みを入れつつ、恐る恐るメールを開いた。するとそこには想像しているのと全く違うことが書いてあって。

「都ー?」

「香帆、どうしよう」

「うん?」

「……隆介、ここに来てるって」

 呆然としたように呟くと、香帆はにやりと笑って携帯を振った。

「なぁんだ。お母さんに聞いたらお買い物いいって言われたから、付き合うだけ付き合おうと思ってたけど。付き合う必要ないじゃん」

「香帆ー」

 情けない声がでて、そこでようやく自分が動揺しているという事実に行き当たった。いや、動揺するだろう。

 つい最近まで話すこともなかったのに。

 慣れない。慣れすぎない。どうやって対応していいのか。どんな態度でいればいいのか。

「つ、ついて来ようよ」

「えー」

「もしかしたら、香帆好みのイケメンかもよ?!」

 必死に頼んでみるが、香帆は全く行く気がないようだだ。こうなってしまえば、彼女を動かすのは無理で、多分何を言ってもついて来てはくれない。

 今すぐ逃げたい衝動を押さえつけ、恐る恐る携帯を開いてもう一度隆介のいるところを確認しようとする、瞬間。

「都ー。イケメンが校門で待ってるー!」

 別の友人に呼ばれて体が大きく飛び上がった。そのあまりのありえなさに、隣の香帆は爆笑、別の友人は驚いた。

「え、えっ」

「だから、見慣れないイケメンが校門であんたを待ってるんだって」

 誰だろう、なんて考えるほど勘が鈍いわけじゃない。

 むしろ今しがた確認しようとしていたメールには、確認するまでもなく『校門のところで待ってる』と書かれていた。

 ここまでくると、逃げようとすることさえ馬鹿らしく思えて、やっと鞄を持つことができた。

 が、ノロノロとその時間を延ばそうとしているのがバレバレなその態度に、香帆が『早くしなよ』と急かした。

「香帆は、あいつの本性を知らないから言えるんだ」

「当たり前でしょ、会ったことないんだから」

 そのとおりだと言えばそれまでで、それでもやっぱり慣れないことは慣れなくて。結局香帆に引きずられるように校門に向かった。

「遅い」

「ごめん、ちょっと準備に戸惑って」

 会って開口一番、隆介はむすっとした顔で文句を言ってくる。

 文句を言いたいのは私の方なのに、何故か何も出てこずに唸るだけだった。

「ご飯、作るよ」

「期待してないから」

 そこは嘘でも、『期待してる』って言ってほしい。そりゃ、今日の彼のお弁当みたいに上手くはいかないかもしれないけど。

 何も言えず、ただだんまりを決め込むことになる私を見て、隆介は苦く笑った。

「カレー」

「へ?」

「だから、カレーでいい。変に難しいもんリクエストして失敗されるより、簡単だけど確実なのがいい」

 彼の精一杯の譲歩だろう。私にも助け舟だ。文句を言わずに乗ることにする。

「隆介は、チキンカレーが好きだったよね」

「まだ覚えてんだ」

 隆介が屈託なく笑った。そう、たまにそういうときがあった。

 よく苛められていたけど、その分こういう笑顔を出すのも私の前だけで、そのときは少しだけ嬉しかった。

 後にその笑顔さえ見なくなるんだけど。

「覚えてるよ。隆介が唯一わがまま言ったって、春華叔母さん言ってたもん」

 カレーね、瑲也はシーフードが好きなのに、隆介はチキンなの。だから作るとき、毎回ケンカになって結局半々作るの。

 なんて、叔母さんから聞いたときは叔父さんも大人気ないなぁとか、隆介もワガママ言うんだなぁとか思ってた。

 何だか少しだけ、隆介が近くなった気がして嬉しかったのを、今でもしっかりと覚えている。

「じゃぁ、今日はチキンカレーにしよう」

 カレーならできる。数少ない料理のレパートリーの一つだ。誰が作っても美味しくなる、日本のカレールーって偉大だって誰か言ってたっけ。

 全く同感だ。私が作っても普通に美味しい。

「あ、でも隆介。私、スーパーの道知らない」

「……知らないのに、買い物するってメールしてきたわけか」

 隆介が呆れたようにそう言って、苦笑いするようにこちらを見る。その様子を見て、やっと今日うちの学校に来たわけを聞こうと思い至った。

「そう言えば、どうして隆介はここにいるの? 友達いたんだ?」

「あー、うん。まぁ」

 友達でもいたのかな。その人に会いに来たついでなのかな。それならその友達も連れてくればよかったのに。

 何なら私は香帆のところで時間潰せたのに。(お母様と仲がいいのだ)

「都が、方向音痴だって思い出したから」

「ん? あぁ、もう大丈夫。大分慣れたよ、この辺。心配しなくても、あの頃と違って人に道を聞けるようになったから家には帰れるのに」

 昔、一人で美里ちゃんのところに遊びに行って辿り着けない、なんて事態に陥ったことがある。多分、隆介はそれを思い出してるんだろう。

 確かにあのときは焦った。

 行っても行っても、知らない道。周りを歩くのは知らない人。道を聞く、なんていう簡単な方法さえ分からず。

 そして、道を聞くことを思い出しても美里ちゃんの家をどう説明したらいいか分からず、ただ途方にくれていた。

「あのときは隆介が探してくれたんだっけ?」

「そうそう。なかなか来ないから心配になって。まさか伯母さんたちも都がおれの家に来るなんてこと知らなくて、大騒ぎになった」

 そのあと、一人で出て行ったことをすごく怒られた。後にも先にも、お父さんとお母さんにあそこまで怒られたことはないと思う。

 普段娘に甘いお父さんも、優しくて怒ることがないお母さんも、とても怖い顔をしていた。

 そのあと、二人に泣かれて。それから、絶対に二人に心配をかけちゃいけないんだと思い知らされた。

「都、すごく泣いてて」

「心細かったよ。すごく。もう帰れないんじゃないかって思ったときに、隆介が来てくれた」

 いつも少し恐かった遊び相手。意地悪ばっかりしてきて、いつも泣かされてきたのに。それなのに差し出された手は同い年とは思えないほどしっかりとしていた。

「で、今は方向音痴治ったって? スーパーまでの道も分からないのに?」

「行き慣れた道では迷わないってこと」

 さすがに、もうそんな年ではないから滅多なことでは迷わない。というか、迷いそうなことを初めからしないことにしている。

 知らない道を一人で歩かない、とか。地図を持っていくより先に、交番の位置を確かめておく、とか。

 そのせいだろうか、近頃では道が分からないという事態に陥ってもさほど動揺しなくなった。本当は、迷わないのが一番なんだろうけど。

「小学校で迷ったことある都がねぇ」

「すごく昔の話でしょ。しかも、一回しかないし」

 ゆっくり進みながら、見えてきたスーパーに目を細める。肩を並べて歩いているが、大して急がなくても歩調が合っていることに今更気が付いた。

 今更、気が付いた。

 隆介が優しくなっていることに。雰囲気が変わったんじゃない。まるで別人みたいに、隆介が変わっている。

 それがいいことなのか分からずに首を傾げて、それから何故そうなったのかということに思いを馳せた。

「あぁ、彼女ができたとか」

 なるほど、納得できる。彼女ができたら、それは優しくなるわ。いくら苛めっ子でも、好きな子には優しくなるだろう。

「は?」

「いや。隆介の雰囲気というか、性格が変わったこと。彼女できたからか、と思って」

 と、そこまで言って、空気で彼が怒っていることを感じる。

 しまった。調子に乗った。彼があまりに離れる前に戻っているから、つい気軽に話しているけど、私に対して彼は不可侵を守っていたのだ。

 私が、不可侵を破らない限り。

 今更気が付いたところで、さきほどの言葉を取り戻すことはできないが、とりあえず謝っておいた。

「ごめん、調子に乗った」

「……雰囲気変わったことは分かるくせにな」

 返ってきた声から怒気は抜けていて、思わず息を吐いた。苦手意識は薄れたが、未だに少し引き腰になってしまうのは止められない。

「ま、おれも少し大人になったんだよ。お前同様」

「そっか」

 彼女、ね。

 確かに小学校のときも中学校のときも、そこそこもてていたような気がする。

 気がする、というのは中学校にもなると私が完全に近づかなくなり、隆介の近状は噂でしか聞かなくなったからだ。

 叔母さんに聞けばよかったのかもしれないが、その頃の私は隆介の話題が出ることさえ嫌だったので、聞くこともなかった。

「さっさと買い物終らせて、カレー作るぞ」

「うん。あ、え?」

 作れ、じゃなくて?

「お前に任してたら、食いっぱぐれる」

 にやりと笑った彼は、小さい頃同様少し意地悪そうだった。



 ルームシェア、慣れません。




――――――――――――――


『ルームシェア、とんでもないです』




 今日は嬉しいことに休日だ。

 ということで、辛いことは全てしてしまおうと昨夜は遅くまでレポートをしていた。で、気付いたら寝てた。

 年頃の少女とは思えないことだが、あとでシャワーでも浴びようと思っていたのにすっかり朝だった。

「シャワー、浴びてこよ」

 シャワーで頭をすっきりさせて、再度レポートに挑戦しよう。

 そしたら、多分これも最後までできるはず。

 簡単にくくっていた髪はすでに少し崩れていて、ゴムを取ってから手櫛で梳いた。癖のついてしまった肩までの髪をかきあげつつ、ぐっと背中を伸ばしながら扉を出る。

 ちらりと見えた時計は六時で、随分と長い間寝ていたことに気が付いた。確か、最後に時計を見たときは二時くらいだった。

 シャワーの音で起こしてしまうだろうか。あと少し経ってからの方がいいだろうか。

 でも気持ち悪いし。……下の人に迷惑かな。

 とりあえず、顔だけでも洗おうと決意した。

 ここは洗面所と脱衣所が一緒になっているので、ついでに服も着替えてしまおうと部屋着を持って立ち上がった。

「ねむい」

 ぼんやりとした視界に、頭。

 寝起きの思考回路は上手く働かず、何故か電気がついている洗面所を戸惑いもせずに開けた。

「あ……」

「なっ」

 一時停止、そのあとに思考回路はショート。ぷすんという音が耳元で聞こえた気がして、体の全てが動かなくなった。

 見えたのは、男の上半身。

「あっ、あのっ」

「とりあえず、落ち着け。んで、そこの扉閉めろ」

 相手は意外と冷静で、何でもないようにこちらを向く。

 目を逸らすことも、瞑ることもできず、ただ呆然と立ちすくんでいた私にそれは幸運で大人しく指示に従った。

 パタン、と引き戸を引いて扉を閉じる。

 それから頭の中に巡る様々なものを一度整理しようとしたが、何一つ上手くできずにその場に座り込んだ。

「え、えっ」

 私は、顔を洗いに来た。

 うん、洗いに来た。ついでに着替えようと思って、あと迷惑じゃなかったらシャワーを浴びようと思って。

 で、思って洗面所の扉を開けたら……。

 隆介がいた。

 裸の。

 いや、上半身しか見てないから、本当に裸かどうかは分からないけど。しっかりとした体つき。無駄なものは何も付いていないように見えた――。

「なっ、何もっ」

 何も見てないなんて言えたらどれだけありがたいだろう。

 しかし、私の記憶能力でも、さすがに見たばかりの映像を消すなんてことはさすがにできなくて。

 意識すればするほど、笑えないほど鮮明が再生されて俯いた。思い出すなと自分に言い聞かせても、やっぱり無駄なことで俯いた顔を上げられなかった。

「都、大丈夫か」

「大丈夫、じゃ、ない」

 がらっと開けられた扉の向こうから声が聞こえてきて、顔を上げずに答えた。大丈夫なわけがない。

こんな、大丈夫なわけがないっ。

「あー。まぁ、な」

「ごめん、寝起きでボケてた」

 言い訳のようにそう言って立ち上がり、くるりと回れ右をして部屋へ戻る道を行く。

 寝てしまおう。寝て、忘れて、それからシャワーを浴びてなかったことにするのがいい。

それがいいに決まってる。

「いや、いいんだけど。本当に大丈夫じゃなさそうだな」

 真っ赤だ。

 呆れたように言われて、思わず下げていた顔を上げる。恥ずかしい。

 従兄相手に意識するなんて。ずっと昔は、一緒に遊んでお風呂だって入ったことがある相手なのに。意識するなんて今更なのに。

 振り向いて目の前にあったのは、少し意地悪そうな顔。こっちをからかおうとしているみたいな、顔。

「照れたとか?」

「ちがっ」

 咄嗟に出た否定の言葉だったが、すぐさま『何が違うんだ』と聞き返されてつまった。

 こんなに赤くなって、思考回路がショートして。それで、どの口が照れてないというのか。

「ふぅん。変わらないな、その赤面症。お前のとこ、姉妹だから慣れてないのか、こういうの」

 うちの姉貴の、可愛げのない反応とは随分違うもんな。

「……照れて、ないから」

 ぶわっと再発した赤面が、私の顔どころか全てを染めていく気がした。

 全部、全部。

 赤く、紅く、朱く。どこもかしこも、血の色に。私の中を巡る、その色に。

「意地張って」

「張ってなんか!」

 ばっと顔を上げて反論する。顔を上げたと思っていたのに、いつの間にか再び俯いていたようだった。

 どうりで隆介の意地悪そうな顔が見えないわけだ。

 再び見えた彼の顔は、すっかり私を苛めていた頃の顔で。何が楽しいのかニヤニヤと笑ってこちらを見ていた。

「照れてない?」

「照れて、ない」

 ぐっと目に力を入れて、彼の顔を見つめる。意識なんてしてない。ただちょっとびっくりしただけだ。

 学校でも、どこでも男の子と親しくする機会なんて皆無だったから、少し意識しすぎているんだと思う。

 思春期特有の、異性を意識しすぎるその感覚は、未だに治まらず私の中にあった。仕方ない。だって、意識するべきときに、違うことに気を取られていたのだから。

 今更になって、そういう感情の成長をしなければいけなくなっていた。

「試してみるか」

「何。あっ、ちょっと」

 ぐっと、手を握られて少しずつ治まっていた顔の赤みが戻ってくる。血が巡る。顔を、握られている手を、心臓から流れ始める血がドクドクと音を立てる。

「やだ、放して」

 いつの間にか、隆介は洗面所から出ていて、立ち上がって後ろに下がっていた私を追い詰めていた。

どんと背中に当たる壁の感覚に身をすくめれば、私の右手を捕らえている彼の手が目に入る。

 私の右手首を掴んでまだ余る、その大きな手に予想以上に動揺して。顔の横につかれた、見慣れぬ手の大きさに肩が震えた。

 完全に、掴まっていた。

 掴まれている右手。

 押さえつけられている、体。

 触れているのは右手だけなのに、まるで全身に触れられているみたいな。

「い、意地悪しないで」

「別に、意識してないならこれくらい平気だろ?」

 にやっと、彼が意地悪く笑った。私を苛めるのが楽しくて仕方がないというように。小さい頃によく見た、苛めっ子の顔だ。

「隆介っ」

「何だよ」

 ゆっくりと近づく体が熱い。熱いのに、その熱は収まらずに広がっていくばかり。どうしていいか分からず体をよじれば、面白そうに顔を近づけられた。

 かぁっと体の芯が燃えた。

「照れてない、ねぇ?」

 どうすればいいのか分からずに、へなへなとその場で腰を抜かした。もう自分がどんな顔をしているのかさえ分からない。

 分からなくていいのかもしれないけど。今、絶対に情けない顔をしている。

「さっきまでの威勢、どこ行った?」

「っ!」

 涙が浮かぶ。反論も何もできない。掴まれた手はいつの間にか離れていて、顔の両側に手がつかれていた。

 黒い瞳が私を射抜く。平田家に伝わるその配色は、私にも受け継がれているけど、顔の作りは全く違った。

 今更そんなことを思い出していて、似ていない瞳に自分が映っていることを知った。

 映っている、と認識できるくらいに顔が近い。息が、かかるかもしれない。そっと息を呑んで手を握り締めた。

「こういう、冗談に慣れてないの。止めて」

 震える声で、懇願する。意地を張るなんてこと、すでにできなくて、許しを請うように隆介の手を掴んだ。

 腰が抜けた私に合わせてしゃがんでいた彼は、一瞬虚を突かれたように目を見開いて、やがて体を起こした。

「冗談ね」

「悪趣味」

 震える声は、未だに治まらずに喉がきゅっと絞まったように声が出なくなった。それでも文句は言いたくて、体を起こそうとして失敗しながら言った。

 彼の声は相変わらず笑いを含んでいたが、その中には少しだけ違う感情が含まれているような気がして顔を上げた。

 いや、私の思い違いか。目の前の隆介は相変わらずの表情で、意地の悪そうな笑顔しか浮かべていない。

「都も、変わらねぇな、昔のまま」

「え?」

「意地を張るくせに、最後の最後にはあっさり敗けを認める。しかも、涙目で」

 呆れたような、今日をそがれたような声を出し、隆介が体を起こした。座っていた体がゆっくりと立ち上がり、私の目の前に手を差し出される。

 大人しくその手に掴まると、驚くほど容易く体が持ち上げられた。私が自分の足に力を入れるより早く、私の体は持ち上がった。

「意地を張って、負けるのが嫌なの」

 言い訳のようにそう言って、視線を背けた。それくらいしか、逃げる術を持たない私は、それでも彼の視線から逃げたかった。

 まだよく分からなかった頃は、変な意地を張って泣かされていた。

 しかし、引き際を見極めることができるようになってからは、あっさりと白旗を挙げることが多くなった。

 もう二度と、隆介の前では泣きたくないと思う。泣き顔なんて、晒したくないと思う。

 そう考えている私を尻目に、隆介は少し笑いながら首を傾げた。

「で、都。お前、シャワー浴びに来たんじゃねーの? まさか、覗きに来たわけでもないだろ?」

「の、のぞっ」

「図星?」

 思いもよらないことを言われて、冷静さを取り戻しかけていた頭が再び沸騰した。瞬間湯沸かし器もかくや、という早さで赤くなった私を見て、隆介は今度こそ笑った。

「悪い。そこまで免疫ないと、さすがに」

「全然悪いと思ってないっ!」

 近くにあった彼の体を押し退けて、私は一人で立つ。ふらつく足に力を入れて、彼をきっと睨みつけた。

 それから手に持っていた着替えを抱え込み、大きく息を吸い込む。

「隆介のバカッ!!」

 それだけ言い置いて、私は走って洗面所に入った。それからばたんと音を立てて扉を閉める。

 体にまとう服を脱ぎ捨てて、扉の向こうで響く笑い声に体を震わした。未だに、色んなことを流せない我が身が憎い。

「ばか」

 今度の言葉は、先程よりもずっと弱かった。



 ルームシェア、とんでもないです。




――――――――――――――


『ルームシェア、少しいいかもしれません』




 天気予報というのは見なければ意味がない。


 今日は二限目からの授業で、ちょっとだけ朝寝坊ができる。

 できるけど、寝過ごしていいわけではない。二限目の開始は、十時四十分。現在、十時十五分。

「ちょっ」

 ベッドから飛び起きて、今日もまたやられた……と頭を抱えた。確か、今日は私がお弁当を作る日だった。

 作る日だったのに、何故かキッチンの机にはお弁当があって。

「またやっちゃったよ」

 『貸し一つ』というメモがぽつりと置かれていて、ため息を吐いた。今日こそは起きようと思っていたのに。

 後悔を口に出しても、寝過ごした事実は変わるわけがなく。

 大人しく時計に目をやって、すごすごと着替え始めた。その過程に、天気予報を確認するなんて事項含まれていなかった。

 外は少し曇っている程度で、雨が降るなんて考えていなかった。




「降るなんて考えてなかったんだよ!!」

「あー、ハイハイ。要は傘持って来てないんでしょ」

 香帆が言ったとおり、今日の私は運の悪いことに傘を持ってない。折りたたみ傘さえ持ってない。

いつもは持っているはずなのだが、荷物を整理するときに出してそのままらしい。

 さっきからがさがさと鞄を探ってみるが、出てくる気配はなかった。

「うぅ、どうしよう」

「送っていこうか?」

「いいよ、別方向だもん。香帆が濡れちゃう」

 窓の外は土砂降り。

 恨めしく視線を向けてみるも、その空模様が変わるはずもなくてため息を吐いた。雨が止むことはなさそうだ。

 というか、段々酷くなっている気がする。

「でも、帰れなくない?」

「う、ん。そうかもしんない」

 どうしようかなぁ。この近くに、コンビニってあったっけ? そこで傘を買えば、何とか帰ることはできると思う。

「この近くにさ、コンビニってあったっけ?」

「あー、正門出て、右に行ったらすぐ信号があるから、それを渡って左に曲がったところにあるよ。すぐだね」

 すぐ、だったら行けるかな。

 少し濡れるのは仕方ないとして、帰ったらすぐお風呂入らなきゃ。

「何? そこまでだったら入れてあげようか?」

「いや、いいよ。走って行ける距離だから」

 一瞬だけ、脳裏に人影がちらついた。今までだったら、絶対にちらつくことのない影だった。

 助けを求めることさえ、自分に許さない人間の影。そんな人を思い浮かべた自分を責める影。

 それなのにどうして、どうして一瞬その人影がちらついたのか。そして私は、どうしてその人影を『彼』だと認識してしまったのか。

 気付かなければ、よかったのに。彼が、来てくれたらいいなんて、そんなこと。

 彼と離れて一度だって思い出さなかったのに。

「本当に大丈夫?」

「平気平気」

 香帆を見送り、私も少しだけ空を眺めて帰ろうかとため息を吐いた。ざぁーっと降り続く雨。暗い空。

 大粒の雨がまるで行く手を阻むように降っていた。

「走ろ」

「この雨の中を?」

 びくっと肩が震えて、その声がしたほうを向いた。

「ど、して」

「お前、今日もまた起きてこなかったから」

 どうせ天気予報なんて見てないんだろうなと思って。

「でも、だって……!! もし、見てたらどうするの? とっくに帰ってたらどうするの??」

 だって、もし――もし。

「隆介、無駄足踏むかもしれなかったんだよ」

 喉が痛くて、肺が痛くて。声が途中で萎えた。

「でも実際、お前は傘を持ってなくて」

 そうだけど。

「一人で走って帰ろうとした」

 コンビニに行くつもりだったんだけど。

「おれに電話するっていう方法なんて取らずに」

 そんなこと、思いつかなかった。

「お前は、いつだってそうだ」

 『いつだって』?

「迎えに、来てくれて……ありがとう」

 他の言葉は、出てこなかった。何を言っていいか、分からなかった。何を言っても、怒らせそうだった。だから、ただお礼を口に出した。

「ほら、傘」

 差し出されたのは、私が愛用している少し大きめの傘。紺色に白いドットが散った、私が持つには少しだけ可愛すぎるんじゃないかと思う傘。

 雨の模様に紛れそうで、紛れないその傘は、気に入っているものだった。

「帰るぞ」

 怒った顔は未だ治らず、不機嫌そうな声もそのままで。彼は歩き出した。少し早い彼の歩幅に合わせようと足を速める。

 それなのにどうしてか追いつけなくて、半ば走るようにしてついていく。まだ追いつけない。速い。

 この前は、合わせてくれていたんだと改めて気が付かされて。

 それが嬉しいのか悔しいのか、はたまた全く別の感情なのか分からなくなった。

「隆介っ。隆介、隆介っ」

 呼んでも、呼んでも、彼は振り向かない。振り向いて、くれない。

「隆くん!!」

 びくっと彼の肩が動いた。それから肩から力が抜けたみたいになって、そして笑われた。

「……何、都」

「今度から、連絡するから」

 だから、ね。

「隆介も、連絡くれたら迎えに行くよ?」

「大学の場所も知らないのに?」

「ゆ、有名な大学だから、聞いたら分かるよ!!」

 苦し紛れに、足が止まった彼を追い越して歩く。すると彼は歩き出して、ゆっくりとした足取りで私の隣に並んだ。

「じゃ、今度雨降るときは忘れていこうかな」

「えっ。わざとは駄目!」

 くるっと振り向くとすぐさま彼と目が合った。何故か急に気まずくなって、そっと下を向く。

 どうしてだろう。

 一緒に住み始めて少しずつではあるけれど、苦手意識が薄れてきたと思っていたのに。

 何故か。

 前のように話せなくなっていた。一緒に暮らす前のように、ぎこちなくなっていく気がした。

「都?」

「うん? あ、本当に駄目だからね。そんなことしたら、濡れて帰ってもらうから」

 それを誤魔化そうと早口になり、一層訝しく見つめられる。その視線に耐え切れずに再び方向転換して、隆介の先を歩いた。

 目を合わせたら、何かがはじけてしまいそうだった。

「お、晴れてきた」

「え。あっ、本当だ」

 隆介が後ろで声を上げ、それを合図に私も傘を少しだけ傾けた。予想していた雨粒はすでになく、先ほどまで曇天だった空から太陽の光が覗いていた。

 厚い雲から、白い光が一筋二筋と落ちてくる。その光を目で追う暇もなく、雲が散れ散れになっていくのが見えた。

「晴れたな」

「大人しく待ってればよかった」

 何気なく出た言葉だったが、すぐさま後ろにいた隆介を思い出して口を噤んだ。さすがに失礼すぎる。

「ほぉー。わざわざ迎えに行ってやったおれに、その態度か。いい度胸だな」

「いや、だからっ。隆介が手間かけなくてもよかったってことが言いたかっただけで」

 言い訳するがすでに遅く、隆介がこんっと私の頭を叩いた。軽く握られた右手の中指が、絶妙な位置で私の額を打つ。

 綺麗な音がしたそれは、予想以上に痛くて思わず頭を押さえて身を屈めた。

「いっ」

「痛かったか?」

 痛い、と言おうとして、面白そうにこちらを見ている隆介と目が合う。意地でも痛いなんて言ってやらない。

 そう思ってふいっと向こうを向いた。

 顔を合わせず、見えてきたアパートの階段を駆け上り、一足先に部屋の前に着く。鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回してから、素早く部屋に入り込んだ。

 ちらり、とこのまま鍵を閉めてやろうか、とも考える。しかし小心者の私は、隆介を本気で怒らせると恐いということをよく知っているので何もできなかった。

 と、いうか。

 これ以上気まずくなるのは避けたい。できれば、穏便に生活していたい。

「都ー? 怒った??」

「怒ってない」

「怒ってるだろ」

 くすくすと何が面白いのか、隆介は笑いをかみ殺しながら扉を開けた。それから靴を脱ぎ、先に入っている私のあとをついて洗面所にまでやってきた。

「相変わらず、手洗いうがいを徹底してんな」

「風邪、引きたくないし」

 水で手を濡らし、CMで有名な泡が出てくる石鹸を手に取る。しゅわしゅわするそれを掌に広げ、ゆるく両手に伸ばしながら手の先、指の間、爪の間まで洗っていく。

 手首までを完全に洗い終えると、水で綺麗に濯いで次にコップを取り出した。

 コップにうがい薬を入れ、少しだけ色が変わったそれを口に含む。

 すーっとするミントの香りが印象的なそれで口をすすぎ、洗面台にそれを吐き出して普通の水でもう一回。

 ガラガラと上を向いてうがいを徹底していると、隣で隆介が不思議そうに見ていた。

 煩いくらいに小さい頃から言われているので、ここまでくればクセだ。

「今日のご飯って何?」

 洗面所から出ながら聞いた。夕食のメニューを聞くのがここ最近の日課だ。だって、美味しいから。

「さんまの甘露煮」

 さらっと言うが、これはなかなか難易度が高い、気がする。まず圧力鍋を満足に使いこなせない私からしたら、かなり難しい。

 でも美味しいよね、生姜の風味があって。で、骨まで食べれるし。

「あとはー、味噌汁と」

 冷蔵庫を見つつ、彼は言う。すらすらと献立が浮かぶのはすごい。私ではまず無理だ。材料を見つつ、バランスを考えつつ、なんて。

 主菜があればいいんじゃない? とか考える私はとことん料理に向いてない。

 隆介が作ると、主食(だいたいごはん)、主菜、副菜、汁物がついている。

「別にさんまの甘露煮を副菜にしてもいいけど、都は食べないからな」

 そんなことを言いつつ、『人参の胡麻和えとかかな』と軽い副菜を考えている。

「手伝おうか?」

 少しだけ決まりが悪い。だって、美味しいけど量があるんだもん。あんなの、女の子だったら大抵入んない。

「じゃ、人参を細く切って」

 ピーラーと人参を渡される。

「手、切るなよ」

「あのね、下手だけど基本はお母さんから習ってるから!」

「その伯母さんがそもそも危ないんだろ……」

 天気が晴れたからか、隆介は機嫌がよさそうに笑った。なんかいいなぁって、少しだけ思った。苦手意識がなくなる気がした。



 ルームシェア、少しいいかもしれません。




――――――――――――――


『ルームシェア、意外なことになってます』




 その日はごくごく普通の日だった、気がする。一限目から授業のある私と、午後から授業だという隆介。(しかも二時間しか授業がないらしい)

 その日は、私の分だけお弁当(と呼べるのか微妙なもの)を作り、なるべく音を立てないように出ていく。

 とはいえ、三回に二回の頻度で朝起きている隆介なので、その日はある意味珍しいといえば珍しかった。

 それでも、私はごく普通の日だと思っていたし、事実朝の時点では普通の日だった、気がする。

 キッチンの机に、『先に行ってきます』という書き置きを残して鍵をとる。チャリンと涼しい音がしたが、そんなに響くことはなかった。

「レポート大変って言ってたもんね」

 誰にともなくそう呟いて、部屋から出た。

 しっかりと鍵をして、きちんとかかったことを確認して大学に向かった。秋というには暑くなりそうな晴れ具合だった。




「で、今日は自分でお弁当をつめた、と」

「何、その明らかに怖いものを見る目は」

 香帆はゆるく笑い、いやいやと首を振る。しかしその瞳には、はっきりと称賛以外の感情が灯っている。

 お弁当の中身についてでしょうか??

「従兄さんって偉大だなぁと思ってるだけだよ。週に二回こんなので、夕食は都ほとんどやらないし」

 確かに、そんなにできがいいわけじゃないけど。でもちょっと頑張ったよ、うん。今日は朝早く起きることに成功したから。

「違う。やる気はあるけど触らせてもらえないだけ」

 やらないんじゃなくて、やらせてもらえないんだ。触るな、という厳命で。

 一度お味噌汁を沸騰させた挙げ句に吹き零れさせ、お魚焦がしたからだろうか。それとも危うく指を切りそうだったからか。

 理由などいくらでも見つけられそうだが、それらの理由の結果手を出すことを禁じられた。

 まぁ、その代わり食器洗いが私の担当になったので、イーブンであると思う。

「いや、従兄さんの負担の方が多いから」

「えー。洗濯物もしてるよ?」

 今さら恥ずかしがる必要もないし、もろもろの費用がかかるのでまとめて洗濯をしている。

 いつの間にか下着まで干されていたことには驚いたが、隆介はあっさりと『従妹の下着を見て喜ぶ趣味はない』と言っていたので気にしないことにした。

 引っ越したときに下着新しくしたし。

「で、その従兄さんと今日デート?」

「買い物デート」

 香帆のからかいを軽く流せば、『つまらない』と文句を言われた。真面目に取り合うつもりは全くないので、はいはいと適当に返す。

 デートとか、笑う。

 隆介と、私が?? あり得ないにもほどがあるだろうに。

「じゃあ、今日は従兄さんが来るまでここにいるの?」

「うん。ついたらメールしてくれるって」

 携帯を取り出して、何気なく振る。彼の授業は四限まで。ここへ来るまで三十分だとしても早く帰れそうだ。




 そう思っていたのに、時間になってもメールは来ず、電話もない。几帳面かつ実は真面目な彼にしてみれば珍しいことこの上ない。

 何かあったのかな??

 携帯電話を取り出すと、メールも電話も入ってない。こちらから電話しようか。でも何か厄介なことに巻き込まれていたとしたら、電話は迷惑か。

 でもでも、メールだと気付いてもらえないかもしれないし。

「す、すぐ消すくらいなら、いいよね」

 誰にともなく聞いて、電話帳から彼の番号を呼び出す。

 着信履歴から探す方が早いと思い出すのに、そう時間はかからなかったがそのときにはすでに見つかっていた。

 着信履歴を探す方が早い。……それほど、連絡していただろうか。

 数コールしたらすぐに消そう。

 そう考えつつ耳に押し当てた携帯。ひんやりとしたそれで、ようやく自分が焦っていることに気付いた。

 数コールしないうちに、音は切れて次いでひどくぼんやりとした声が聞こえる。

『もしもし? 都??』

「隆介、今どこにいる? あの、一人で買い物に行くから、迎えに来なくていいよ」

 とりあえず、入れ違いになるのだけは不味いので、言いたいことを先に言っておく。

 彼のことだから、電話できないほどの用事があったのだろうと思うと、理由を聞くのも憚られた。

『あ、……くそ。もうそんな時間か』

「隆介?」

 ちっと小さな舌打ちが携帯の向こうで鳴った。あまり想像できないが、隆介がしたのだろう。

『悪い、今から行くから』

「いいよ。何か用事があったんでしょ? もう大学出たから、帰ったら聞くよ」

 まだ大学を出ていなかったが、ここまで言わないと隆介が来てしまいそうで慌てて付け足した。

 携帯越しに不機嫌そうなため息を吐かれたが、こればかりは私のせいではない。これ以上文句を言われないように携帯を切り、さっさと歩き出した。

 用事があるのに、たかだか夕食の買い物に手伝わすのも如何なものだろうか。一人でできることは一人でやるべきだ。

 足取りも軽くスーパーに行き、自分で買える分だけ買って帰路を急いだ。

 もうすっかりと慣れてしまった道を歩き、家を目指す。その途中に見知った背中が見えて立ち止まった。

 しかし、その背中はしゃがみこんだ人の背中で、ちょっと声をかけるのを躊躇ってしまう。

「……隆介?」

 おろおろと声をかけ、その背中に手を当てる。すると彼はゆっくりと振り向いて、小さく笑った。

「あー、都。おかえり」

「うん、ただいま。どうしたの? こんなところで」

 よく見れば、顔色が悪い。いつもより青白い。体調、悪いのかな。

「隆介さ、もしかして体調悪かった?? 気付かなかったから、電話しちゃった、ごめんね。大学休んだりしたの? しんどい? えっと、ごめんね? 電話しない方がよかったね。あ、本当にごめっ」

 自分が冷静さを欠いているのは十分分かっていた。

 分かっていたのに、どうしてか言葉を止められず、何度も『ごめん』という謝罪を繰り返す。どうして、こんなに謝っているのか途中で分からなくなっていた。

「都、謝りすぎ。別に、気分が悪くても電話には出れるし」

「でも、迎えに来ようとしてたんだよね?」

 二人の間に微妙な沈黙が下りて、隆介は顔を逸らせた。何か間違っていたのだろうか。でも、実は優しい隆介だから、案外心配してくれていても不思議はない。

「ごめんね、隆介。気付けてたらよかった」

「無茶言うなよ。昨日は何ともなかったんだから、お前には無理だろ」

 青い顔で、小さな声で、それでも隆介は私の言葉にフォローを入れてくれる。

 こんな、子だったろうか。こんな優しさを、ずっと持っていただろうか。

 私の知っている隆介は少し意地悪で、私が落ち込むくらいじゃ慰めてなんかくれなかった。ただ私が泣けば気を遣ってくれてはいたけど。

 今私、泣きそうな顔をしてるのかな。

「肩、貸すよ」

「いいよ。お前ちっさいから、ふらついてこかしたらやばいだろ」

 ゆっくりとしゃがんだ状態から立ち上がり、隆介は言った。

 それから、体調が悪いのに買い物袋を持とうとするので、さっと身を避けると嫌な顔をされる。でも、体調悪い隆介にこんなもの持たせられない。

「都。あのな、今たまたま気分悪くなってしゃがんでたけど、別に荷物を持てないほどじゃ」

「駄目」

「都」

「隆くんの馬鹿! もう知らないからっ」

 幼子のような(実際、このセリフは小さい頃に何度となく呟いている)言葉を彼に向け、さっさと彼に背を向ける。

 少し歩いて、ちらりと振り向けば彼が再びしゃがみこんでいたので、急いで近寄った。

「えっと、隆介? 気分悪い? 家帰れる?? あの、誰か、呼ぼうか」

 呼ぼうか、と提案してみるも、すぐ呼び出せるくらい親しい友人など限られているし、その友人に男性は含まれていない。

 つまり、隆介を運ぶには私も友人達も非力すぎる。肩を貸すくらいはできるが、背負うとなると……。

 隆介の肩に手をおくと、彼が顔を上げた。え、と思う間もなく彼は立ち上がり、すっと私の手から買い物袋を奪い取った。

「あぁ!!」

「単純だよなぁ、お前って」

 にやり、と笑った顔は相も変わらず私を苛めるのを楽しんでいる。まだ少し顔色は悪かったが、さっき見たよりはまだよくて、少し安心した。

 それでも、買い物袋を渡す気にはなれないけど。

「隆介っ」

「隆くんって呼ばないのか」

「っ!!」

 クセを指摘されて、かっと顔が赤くなるのが分かる。未だに怒ったときや照れたとき、冷静になれないときは決まってその呼び方が出るのだ。

 もう仕方ないと諦めてもよさそうだが、残念ながらその境地にはまだ至っていない。

「馬鹿っ!! 買い物袋返して」

「いや、約束破ったからこれくらいしないと」

 約束と呼べるものでさえないのに、彼は私に言い返す暇さえ与えずさっさと歩き出す。立ち止まっていた私を越えて、家へ向かって歩き続けている。

「返してったら」

「重いもの、持たせられないだろ」

 そういうところは、初めて知ったような気がする。前は、どうだったろうか。私たちがまだ仲のよかった、あの頃だったら。

 同じように、彼は言っただろうか。

 それとも、離れていた時間の長さで変わってしまったのだろうか。昔のこと過ぎて、あの頃の彼はもうほとんど思い出せない。

 思い出せないから、迷う。

 今の彼は、あの頃の彼とどこがどう違うのか。

「都、あんまり心配すんなよ。すぐ、治るから」

 本当に機嫌を損ねたと思ったのか、表情の全くない私の顔を見たらしい彼はこちらへと戻ってきた。

 それから、買い物袋の片方を差し出して、『一緒に持つか?』と誘ってきた。その表情は、泣き出した私をどうやって泣き止ませようかと考えていたあの頃の表情で。

 少しだけ決まりが悪そうに。だけど、ほんの少しの笑顔を混ぜて。

 泣かして面白いのか、泣き顔が変すぎるのか、眉を寄せているのに口角は上がっているのだ。

「一緒に、持つの?」

「お前の機嫌が直るんなら、それくらい譲る」

 意地っ張りなのか、それとも彼なりの優しさなのか。彼の手から片方だけ買い物袋の取っ手を受け取る。

 それから歩き出すと、隣からそっとため息が聞こえた。安心したのか。私の機嫌が直って?

「隆介は、優しかったよね」

「何だよ、いきなり」

「それとも、優しくなったのかな」

 独り言のように呟いて、あとは彼の言葉にひたすら沈黙を守った。今更になって、考えることがあったのだ。

 あのとき、彼を避けなければ。私が、彼と自分の違いについてきちんと理解し、受け止めていたら。今のように、気まずくなったりしなかったのだろうかと。



 ルームシェア、意外なことになってます。




――――――――――――――


『ルームシェア、色々と厄介だと思います』




 ルームシェアというのは、休みにどちらかが出かけないと一日中顔を合わせるはめになる。それが嫌だとか、別に言うわけじゃないけど。

 言うわけじゃないんだけど。

「何か、今更緊張する」

 そんな今更なことを思ってしまうのだ。

 小・中・高と彼を避けなければ、一体どうなっていたのかという思考に陥って以来。ずっと、彼といるのが怖くなってしまった。

 今更そんな思考に陥るなんて、どうしたというのか。どんなに考えたところで、変えられないのに。

 返られないと十分すぎるほど分かっていてなお、考えてしまう自分が恨めしい。

 そうなると、どうしてか彼を無意識に避けてしまっているようで。ここ最近、隆介からの視線が少し痛い。

 今だって彼と一緒にいるのが嫌で、起きたのにいつまでもぐずぐずと部屋に居座っている。本当は、お腹だって空いたし。折角お互い長年の誤解が解けたのだから、仲良くしたい。

 それなのにどうして、避けてしまうんだろう。

「これじゃ、前と何も変わらない」

 恐くて避けていたあの頃と、何も変わらない。

 避けなければ、どうなっていたのか。

 そんな思考に陥って、また彼を避けようとしている。こんなの、本末転倒だ。

「馬鹿なのは、いつだって」

 誰も考えていないのに、一人で卑屈になって。自分の中に閉じこもって、ひたすら自分は『不幸なのだ』と勘違いする。

 それはひどく子供っぽくて、相手を傷つける行為だと今なら分かる。

 分かっているのに、どうして今の自分はまたそれを繰り返そうとしているのか。彼を、傷つけようとしているのか。

 馬鹿みたいで、悔しくて、苦しくて。それでも、彼にそれを伝えるのが恐かった。

 また、あの優しくなった従兄を傷つけてしまうのかもしれないと思うと、たまらなく、恐い。

 コンコン、と扉をノックされる。

 返事もせずに、ベッドの上で体を起こした。起こして、少し迷って結局返事ができずにいる。

「都」

 呼ばれているのに、返事ができない。

「起きてないのか?」

 どうしてか、喉から声が出ない。

「気分、悪いか?」

 優しい声に、何も言えなくなる。胸が詰まる。心臓の裏側が痛い。どこからか、人の手が入ってきて掴まれてるみたい。

 後ろから、心臓を取られるみたいに、痛いんだ。

 声が萎える。涙が溢れる。どうして、どうしてこうなんだ。自分を責めても何も変わらないけど、責めずにいられなかった。

 どうして、あの頃の私は彼を避けてしまったの??

「都ー。お前起きてるんだろ? って、どうした」

 扉が開いて、それから少し顔を出した彼が驚いた顔をしてこちらにかけよる。扉を開けたら、従妹が泣いてる……なんて、確かにびっくりする状況だろう。

 しかも、ボロボロと涙を流し、事情も説明しないなんて。

「体調悪いか? どこか、痛いとか?」

 違う。違うよ。

 それを伝えたくて首を振るのに、彼には強がっているように見えたらしい。額に温かい掌が触れて、今度こそ体が震えた。

 熱がないことを確認するとふっと息を吐いて、それからそっと私を抱き寄せた。そして、落ち着かせるように背中を撫でる。

 散々苛めたあと、決まってやったあの手つきだった。それが分かると、余計に泣けてきて。ただ縋りつくことも、体を全部預けることもできずに下を向いた。

「どうした??」

 黙っている間に、彼の頭の中には様々な思いが浮かんでいるらしく、次々と彼の想像が口から出されていた。

 彼に分かるわけのないこの思いを、どうやって説明したものか迷いながら必死に息をする。

 泣きすぎて役に立たない肺を一生懸命に動かして、息を吸う。

 ゆっくりと叩かれるリズムが、緩やかに私を包む。それが安心できるものだと、私は昔から知っていたはずだ。

 この手は、本当の意味で私を傷つけない。絶対に、傷つけることなんてない。

 どんなに、意地悪しても。

 どんなに、からかってきても。

 それを私は、ずっと知っていたのに。

「もし……。ねぇ、もし」

 それは、馬鹿らしい『もしも』の話。

 もう、想像さえ許されない、自分で壊したはずのあったかもしれない『未来』の話。もしあのとき、私が少し我慢して、比べられることに慣れさえすれば手に入っていた、『今』の話。

「もし、私が……あのとき。隆介のこと、避けなかったら。隆介のせいにせずに、自分で頑張れたら。比べられることに、慣れていれば」

 そしたらもっと、違う二人の『道』はあったのかな。

「もしかしたら」

「都が、今笑ってるから」

 泣いてる私の顔を、隆介は掴んだ。有無を言わさない力が、痛いほどで。それでも温かい掌が、ほんの少し嬉しかった。

「だから、あれが……正解だったんだ」

 髪をかき上げられる。涙を拭われて、頬に指が滑って。濁った視界に隆介の顔が映った。今、彼の顔が見たいのに、どうして私の視界は曇ったままなのか。

 今、見たいのに。

「あれが、正解だったんだよ。都の心を守る、最善の策だったんだ。都が、一人で背負うには重すぎた。比べられることに、慣れることなんてない。慣れたらきっと、都は今ここで笑ってなかった」

 笑って、なかった。

「都は、一人で抱え込む人間だからな。一人で、悪い方ばかりに考える人間だから。比べた人間が馬鹿なんだって、言い返せないくらい優しい人間だから、あれでよかったんだ」

 違うよ、と途切れ途切れに伝えようとしたが、新たに流れ出てくる涙に息が漏れた。息が漏れて、肺が潰れるほど痛くて。

 いっそ潰れたらどんなにいいかと思う。

「都は、自分で自分を守っただけだ。おれを傷つけたとか、そんなこと考えなくてもいいし、後悔しなくてもいい」

 私は、ずっと後悔していたんだ。隆介から離れたことに。自分で、自分から、隆介を避けたことを。

 避けなければ、もっと早く戻れたのに。

 見ないフリをしなければ、もっと浅い溝で済んだかもしれないのに。

 そう思うと、逃げた自分が許せなかったんだ。

 隆介が、大好きだから。

「おれが、都のことをもっと知ってたらって」

 隆介が、小さくクツリと笑った。喉の奥を震わせて、少しだけ苦いものを含んだ笑い声だった。

「おれが、都にもっと優しくしてたらって」

 それは、いつもいつも苛めてきた隆介とは全く違っている声で。

「いつも考えてたよ。お前に避けられ始めてから、今日までずっと。実は、また避けられ始めてるんじゃないかと、ここ数日もずっと」

 また、傷つけようとしていたんだね。

 心配してくれるのに、私はまた一人で抱え込んで蹲って、立ち止まろうとしていた。臆病にも、我が身だけを守ろうとして。大切にしたいものに、目も向けずに。

 小学生の頃から、成長しないで。

「ごめっ」

「実はさ。怒らないで聞いてほしんだけど」

 姉貴が、どうしてあの日、彼氏を呼んでたと思う??

「え?」

「おれが頼んだ。お前と暮らせるように仕組んでほしいって。お前の本心が聞きたいからって。姉貴におれが」

 頼んだ? 隆介が、美里ちゃんに??

「え、でも。彼氏さんが」

「あれは被害者だな、完全に。何も知らされてなかったよ。おれと姉貴だけが本当の共犯者だ」

 どうして。何で。そんなこと。

「そうしないと、お前おれの話聞かないだろ」

「それはっ」

 あの頃はそうかもしれない。

 何か無理やりのきっかけがなければ、自分から隆介と話そうとは思わないだろう。多分、なんとしてでも逃げていたはずだ。

 実は、彼氏さんと美里ちゃんを裏切ろうかと本気で考えたこともあった。

「話す機会がほしかったし、誤解があるなら解いておきたかった。避けられる理由も知りたかったし、元に戻れるなら戻したかった」

 私の知らない、隆介がいた。

 私の考えてもみなかった、真相があった。

 その真相は残酷で、優しくて。嬉しくて、苦しくて、どうすればいいのか分からない思いを作った。

「でもなぁ、ヤバイことにさ」

 隆介の手が、添えられていた頬に指の感触がする。隆介の指が頬の輪郭をすべり、私の顎のラインを指でくすぐった。

 その慣れない感覚に身を竦めれば、『これだもんな』と笑われる。

「久しぶりに会ったら、何にも変わらなくって驚いた」

「え?」

 変わらなかった、なんてことはない。あの頃よりずっと卑屈で、あの頃よりずっと素直じゃない。

「あの頃の、ままじゃないよ?」

「あの頃のまんまだよ」

 人の気も知らないで、煽って煽って煽りやがって。

「何?」

「鈍感で、相変わらず暗くって」

 言い返せずに言葉に詰まるが、涙は消えていて自分自身が驚いた。いつの間にか泣きやんでいる自分は、案外現金なのかもしれない。

 隆介が傷つかずにいれるなら、いいのかもしれない。

「でもおれのこと一つも疑わないで。――鉄壁の守りだよな」

 首を傾げても、口から疑問符を出しても。彼は私の問いに答えてはくれない。そのうち、ヒントをやるよと言われて、再び首を傾げるしかなかった。

 ヒント

 って、何??

「なぁ、都。知ってるか。実はおれ、来年の四月で成人するんだぞ」

「知ってるけど。私だって、同じ月に成人するし」

 それがどうしたというんだ。

「一応、健全な男だ」

「そうだよ」

 一応も何も、普通に健全な男の子ですよ。いや、健全な普通の男の子よりはずっと色々できる人だと思うけど。

「で?」

「身の危険、感じたことないわけ?」

「あー、美里ちゃんに一緒に住めって言われたときはどうしようかと思ったけど。でも、相手は隆介だよって言われて、気にしなくなった」

 いじめっ子の隆介だが、常識は弁えてるし、『いい子』であることには変わりない。

 うちの両親を悲しませたり、私を本気で泣かせるようなことはできない人間だ。

 もっとも、あの頃よりずっと優しいから、苛められることさえ少なくなっているし。

「気に、しなくなった??」

「うん。隆介、『いい子』だし。あと、先考えずに行動するタイプの人間じゃないし」

 冷静で、賢くて、正しい従兄。いつだって自慢で、コンプレックスで、大切だった。

「確かに、あと先考えないタイプじゃないけどな」

「でしょ?」

「ただ、後先しっかり考えたら、わりと迅速に行動するぞ、おれは」

 そうかもしれないなぁ、と思ったときにはすでに遅く。

 何故か私はベッドで仰向けに倒れていた。どうしてだろうと思う間もなく、視界に隆介が入ってきて、きょとんと首を傾げた。

「隆、介……??」

「とりあえず、お前には危機感ってやつを植え込む」

 身をもって、な。

 不穏な呟きとともに、降り下りてきたのは優しい感覚。自分と隆介との間には、無縁だと思っていた唇への熱。

 それはあっという間に体を巡って、私の心拍数を引き上げた。

「おれ、好きな子は未だに苛めるタイプだから」

 覚悟しとけよ。

 その声は、声変わりをしたとしても分かってしまうあの頃のトーンで。背筋が凍るのは仕方がないことだった。

 その笑顔も、滑る指も、あの頃とは違うけど。でも。

「ルームシェア、いいな」

「よ、よくないんじゃない、かな」

 涙を流す余裕ももうなくて、とっくに乾いた目じりにキスを一つ落とされた。

 その事実が、また一つ体に熱を灯す。消えない、はっきりと見えてしまう熱だった。



 ルームシェア、色々と厄介だと思います。


 逃げられないし。

 『drop』の子世代編です。でも親御さん達あんまり関係ないので、短編の方に入れました。

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