拾い猫にはご注意を
拍手の採録です。
随分と前に活動報告に載せたのですが、短編の方に載せてほしいという要望をいただきましたので、こちらへ移動させていただきました。
尻切れトンボですみません。
そのときのことを後々振り返れば。
それは間違いなく気が弱って、判断力が低下したことによってもたらされた災厄と言えよう。
そう、ただ寂しかったんだと思う。
独り暮らしを始めて、最初のうちは少し落ち込むことこそあれど、忙しさが邪魔して色んなことを考えないようにしていた。
大学も、行けば行ったで楽しいし、充実もしていた。
バイト何かも始めちゃおうかなぁーとか考えてた。
が、六月にもなると、色々と余裕ができて、一人でぼーっとする時間が増えた。
家事に使う時間の節約方法が見えたからかもしれない。
とりあえず、寂しさを感じるには十分すぎるくらいの時間だった。
誰もいない部屋で一人たたずむと、何もかもから切り離された感覚がした。
まるで世界から自分一人だけ追い出されるような、そんな感覚を度々感じるようになった。
『その日』は休日で、運の悪いことに雨だった。
そんな日に限って食料はなくなるし、インスタントもない。
実家であればどうにかなったが、独り暮らしではどうにもならない。
寝て飢えをしのぐか、休みを利用し少し買いだめとくかを考えて、潔く後者を選んだ。
どのみち出なければ行けないのだから、暇な休日にいくのがいいだろう。
雨はひどい。
窓を叩く雨音だけで行く気が失せそうだが、自分を叱責して玄関へ向かった。
それが未知との遭遇の第一歩になろうとは、全く想像できないだろう。
もちろん当時のわたしだってそうだ。
靴を履き、携帯と財布、鍵を確認して玄関を出た。
それから丁寧に玄関へ鍵をかける。
独り暮らしに大切なのは、安全に対する関心である。
ついでにいえば、鍵をかけたという確認の意味で、ドアを二、三回開けようとすればいいだろう。
大掛かりな防犯はできずとも、こういう小さなことからコツコツと、だ。
それからきびすを返し、階段を降りていく。
治安がいいからと安さだけで選んでしまった、防犯設備があまりよろしくないこのアパート。
確かに女子大生が住んでいるところには見えないだろう。
地味、というかボロい。
しかし、入居者がそこそこ多く、親切な人ばかりというのはいいことだ。
今のところは、ご近所付き合いは上手くいっております。
「さて」
傘をさして、目指すは歩いて十分のスーパー。
自転車は雨の日は危ないのでパス。
ゆっくり鼻唄でも歌いながらいきますか。
雨はうっとうしいが、町が煙るように幻想的に揺らめく風景は好きだった。
いつもと少し様子の違う町並みを眺めながらご機嫌だった。
スーパーの帰り道、一つの箱を見つけるまでは。
曰く。
『誰か拾ってください』という紙を貼られた段ボール。
その中から聞こえるか細い声。
ミーと鳴く声は、聞きなれているというか、聞いたが最後の声というか。
とりあえず、頭の中で真っ赤な色がちかちかと警戒を呼び掛けるように瞬いた。
この声に負けて開けてはいけない。
開けては……。
「やっぱ無理」
無視して帰ろうと一歩踏み出したくせに、そこから二歩目が出ずに停止した。
それから、すぐに敗けを認め、服が濡れるのも構わずその場にしゃがみこんだ。
細心の注意を払って段ボールを開けると、小さな目と出会った。
「わっ」
中から出てきたのは、予想通り子猫だった。
生まれて少ししたくらいだろうか。
足は少々おぼつかないながら動いているし、目もきちんと開いている。
幸いなことに雨に濡れておらず、慌てて傘を猫の方に傾けた。
こんな子猫に雨は辛すぎる。
傘を貸してもらえたことが分かったのか、その猫はミーとまた鳴いた。
お礼を言っているのかもしれない。
じっとこちらを見つめるブルーの瞳に魅せられて、黒い毛並みに手を伸ばした。
すると子猫は抵抗することなくこちらの手を受け入れた。
挙げ句、こちらの手に刷りよったり、じゃれついたりしてくる。
「猫、親は」
ミー、じゃあ分からないんだよなぁ。
「飼い主さんは? ここへおかれて何分くらいたってるんだろう。
来るときには君、いなかったもんねー?」
猫に真面目に話しかけるのは悪い癖らしい。
若干ドン引きされることがよくある。
仕方ないじゃないか。
実家で猫を飼ってればそういう人間は育つ。
間違いなく、世の中にはたくさんいるはずだ。
「……傘、おいていくから。いい人に拾われるんだよ?」
連れて帰るわけにも行くまい。
現在わたしは借り家住まいなのだから。
そして世の借り家というのは大抵の場合、ペット不可である。
うちは……そういえばどうなんだろう。明記されてたっけ??
傘を段ボールにおき、蓋を閉めずに段ボールの中の子猫を見やった。
青い目がこちらを向いて、胸の中がぎゅっと痛んだ。
何だってこんな小さな子を捨てることができるんだ。
こんなに小さくて、無力で、一匹では生きていけない子を。
こんなに可愛いのに。
ミー、とまた鳴いた。
こちらが泣きたくなってしまう。
離れがたくて、じっと傘もささずにその場にいる。子猫が不安そうにこちらを見るので、笑って見せた。
このままでは風邪を引いてしまう。帰らなくては、と思って立ち上がった。
「雨、止めばいいね。猫。また会えるかな?」
罪悪感とか、苛立ちとか、自己嫌悪とか。
色んな感情が溢れそうで、子猫に触ることができなかった。
買ったものを入れていたエコバッグもしっとり湿っている。
早く帰ろうと方向転換すれば、か細く後ろから鳴き声が聞こえた。
助けてと言われた気がした。
ミーミーと呼び掛けるように鳴かれ、思わず振り向いてしまう。
よたよたと歩き、段ボールから出ようとしている。
段ボールの縁に前足をおき、後ろ足を懸命にあげようとあがいていた。
その間も鳴き声は変わることなく、ニャーと鳴けない子猫は小さく鳴いた。
涙が零れてその子に手を伸ばした。
手のひらに落ちてくる重みは、温かい命の重さだ。
その重さが愛しくて、そっと撫でてやる。
せっかく濡れないようにしてやったのに、濡れたわたしが触ると意味がないじゃないか。
そう思うのに、嗚咽しか出てこない口からも、濡れた手も役に立つことは、なかった。
「うちに、来る? 猫」
とりあえずこのままでは二人とも(一人と一匹とも)風邪を引いてしまう。
わたしはいいが、この子は小さいから危ないだろう。
「飼い主さんが見つかるといいね」
この時点で、飼う気はなかった。
だって独り暮らし。親の脛をかじっている身分。
どこを取っても、命を育てる責任を果たせそうにない。
精々里親を探してやることくらいしかできないだろう。
獣医さんに見せた方がいいのかもしれないし。予防接種とかあるだろうし。
ペットは可愛いが、色々とお金がかかるのも事実なのだ。
命を預かるんだから、仕方ないのかもしれないが、学生には務まらない。
昼間には家にいないし。
ミーと子猫が鳴いた。
その意味がよく分からなかったが、とりあえず家に帰らなければ。
もうほとんど意味がないけれど、傘をさして子猫を抱き締めた。
さっさと帰ってこの子を乾かそう。
このことがのちに、わたしを多いに悩ませることになる。
が、そのときはただ腕の中にいる存在が愛しくてたまらず、帰路を急いだ。
腕の中の子猫は大人しく身を任せ、ミーと小さく鳴いた。
家に帰り、まずお風呂を入れる。あとで洗濯物に使おう。
その間に、お湯で湿らせたタオルで子猫を拭き始めた。
お湯につけていいのかどうかも分からないから、仕方ない。
ついで、乾いたタオルで拭いていく。
実家の猫……シルクは大嫌いで、こうされる度に低く唸って抵抗していたが、
この子猫は違うらしい。
何をしてもたいした抵抗もせずに大人しくしている。
うちのシーくんがワガママなだけなの?
それとも、この子がいい子すぎるの??
先に乾かしちゃおうか、とドライヤーを出しても子猫はびくともしない。
シーくんはとても怖がるのに。
「猫。君、度胸があるねー。ドライヤー、怖くないんだ」
スイッチを入れ、温かい風が出始める。
ちょっとは怖がるかななんて思ったが、大丈夫だったらしい。
どんどん乾かしても、嫌がる素振りすら見せない。
ようやく乾かして、今度は自分の世話をしようと服を脱いだ。
そこで子猫と目が合う。
んー、どうしようか。
「猫、もしかして洗面所から出たい?」
ミーと鳴かれる。
それ、イエスかノーか分かんないんだってば。
「目を離すと、子猫は何するか分からないから。
風呂場の扉開けとこうか。あー、でも濡れるからなぁ」
独り言ブツブツ。
猫相手に、返事を期待できない会話をしていた。
結局、他の部屋へ行かせないために、洗面所(兼脱衣場)の扉を閉め、風呂場の扉を少しだけ開けた。
「じゃ、猫。そこで大人しくしておいてね。出たらご飯あげる。
シーくんのための餌、買っておいてよかったぁ」
ドライフードだけど、お湯でふやかせば何とかなる、はず。分からない。
まだミルクだけだったかもな。
でも、この辺にペット用の粉ミルク売っているところあったっけ?
「ごめんね、猫。ドライフードだけど我慢してね」
ミーミーと鳴き、こちらへ擦りよってきそうになる。
だから、それじゃ乾かした意味がなくなるんだって。
そっと黒い毛並みを押して、ゴロゴロいい始めた喉を撫でてやる。
しばらくすると満足したのか、ふらふらしつつ毛繕いを始めた。
ちっさいから、毛繕いするのも一苦労なんだ。
そう思いつつ、風呂に入った。
しばらくすると、一人遊びに飽きてきたのか、小さく開いた扉からミーミーと鳴き声が聞こえた。
単純に飽きたと言っているのか、はたまた寂しいのか。
とりあえず気になるので、扉を開けてやる。
黒い毛玉が転がるように入ってきて、ミーとわたしの顔を見て鳴く。
はいはいと返事をして、風呂から上がった。どうやらお腹が空いたらしい。
ドライフードを出してやらねばなるまい。
「食べられなかったら……牛乳温めてもダメだよねぇ。さすがに」
どうするかな、と髪をかきあげて笑う。
ま、拾った以上、飼い主が見つかるまでは面倒みなければ。
何せ、今この子が頼れるのはわたしだけなのだから。
ドライフードは小分けに袋づめされていてよかった。
その一つを破り、小さく一掴みを適当な皿に入れる。
これはもうこの子専用だなと、黒猫が何匹もプリントされた皿を見つめた。
それから沸かしたお湯を入れてしばらく待った後、スプーンで潰した。
お世辞にも美味しそうには見えない。
むしろ、不味そうにしか見えない。
こんなもの、この子猫食べることができるんだろうか。
「猫、ごめんね。乳離れしてたらいいんだけど。歯は生えてるかな?」
どれくらいの子が、ドライフードをふやかしたやつが食べれるのか分からない。
うちのシーくんが小さい頃はどうしてたっけな。
そんなことを考えつつ、皿を猫の前においた。
すると、猫はゆっくり皿に近づき、一度二度と匂いを嗅いで、恐る恐るという感じで口を近づけた。
思わずこちらも見つめてしまった。
猫って神経質だから、あんまりこういうことしちゃいけないってどこかで読んだけど。
仕方ない。気になるんだから。
諦めてもらうとする。つまらせたら大変だし。
一口、子猫が食べた。
そして少しおいてまた一口。
よかった。食べられたみたい。
黙々と食べられるところをみると、
案外乳離れが早い子だったのかもしれない。
子猫が食べてる間にもう一つお皿を出して、その中にお水を入れる。
それを隣において立ち上がった。
わたしも自分のごはんを食べなくては。
そこから始まった、一匹が増えた生活。
それはほんの些細な違いだと思っていた。
少しすれば、里親が決まり、元に戻るなんて考えていた。
子猫がうつらうつらし始め、わたしも眠くなり、布団に入って目を閉じるまで。
いや、目を閉じて次の日目が覚めるまで。
もっと限定するならば。
目が覚めて、自分の目の前にきれいな顔をした人間の男がいると認識するまで、だ。
しかも、裸。黒髪。
「え?」
「あ、おはよう」
ちょっと待て。
昨日わたしは何をした。
何をしたら、こんな美形(男)と一緒の布団で寝るような事態に陥る?
昨日、わたしがしたことと言えば。
「猫!!」
猫拾った!
可愛い黒い毛の子猫は拾った。確かに。
だけど猫以外を拾ったつもりはない。断じて!
「猫知らない?!」
「猫、ね」
目の前の男はゆっくりと笑んだ。
そこでやっと、彼の目がきらきらした青色だと気づく。
あれ、この配色どこかで。
「気づかないかな? 拾ってくれたのは君なのに」
わたしは、猫以外を拾ったつもりはない。
「わたしは、猫を拾いました」
「そうだね。確かにそう記憶してるよ。
ボクが猫だったときに君が拾ってくれた」
目の前の男がにっこりと笑って答えた。
ちなみに、わたしの方は笑う余裕なんて微塵もなく、ただひきつった顔をさらすくらいしかできなかった。
コレハ、ナニ。
この人、ダレ??
「に、人間を拾ったつもりはないんですけど」
「ひどいな。忘れたの? この配色」
男が長めの黒髪を指に絡ませつつ笑った。
蠱惑的な、胸を騒がせる類いの笑み。
男はベッドの上に寝そべったまま、肘をついてこちらを見ている。
裸なので(上布団で隠れてない部分は)、目のやりどころに困って目をそらした。
わたしは半分起き上がったままという、実に疲れそうな体勢をとっていた。
そのことに気がついて、体を起こそうとして失敗する。
目の前には男の顔。
「よく、見て?」
青い目がこちらの瞳の奥を見透かすように細められた。
押し倒されていたのだ。いつの間にか。
彼の左手はわたしの右手を掴み、右手は顔の横におかれている。
耳に近いその右手は、ベッドを沈めるには十分な力が入れられていた。
「昨日の、猫?」
「そう言ったけど?」
黒い毛並みに、キレイなブルーの瞳。
男の子だとは知らなかった。
しかし、本当にあのミーミー鳴く可愛い猫がこうなるの?
納得できん。
「ね、寝る!! 寝不足なんだ、そうに決まってる。それ以外にあり得ない」
布団を被ろうと掴まれていない左手を伸ばした。
目的のものが手に入ると、一気に引き上げようとした。
しようとは、した。
「何言ってんの」
しかし、その動作とは裏腹に、布団は上がってこないばかりか、掴まれていなかった左手も拘束される。
そして男の右手が器用に動き、わたしの両手首を右手一本で絡め取った。
腕を曲げて抵抗してみるが、びくともせずに腹がたつ。
「寝させるわけ、ないでしょ?
力、抜きな。掴む力強かったらアザが残るから」
男の左手が頬に触れる。
現実逃避をしてもいいだろうか。
いや、聞いてもダメなんだろうけど、目の前の現実がありえなさすぎて何をしていいか分からない。
襲われていると受け取っても??
「強情」
ちっと小さな舌打ちがして、男の顔が近づいてきた。
えっと、戸惑いの声をあげる前に瞳を覗きこまれた。
何、する気?
「よく聞きな。君は昨日、ボクを拾った。
で、ボクは猫と人に自由に変化できる。
だからここにいる。ここまではいいね」
何がいいのか分からないが、思わず頷いてしまう。
抵抗できなかったという方が正しいか。
わたしがそんなことを考えてるとは思うまい目の前の男は、満足そうに相互を崩した。
「いい子だね。で、ここで本題なんだけど」
青い目が寸前まで迫って、慌てて目を逸らそうとした。
何か近いと困るんです、びっくりするくらい美形だから。
いや、美猫?
まだ完全に信じている訳じゃないはずなのに、だんだんそれに違和感を覚えなくなってきた。
よく思い出せば、あの子猫は確かに美猫だった。
悔しいが、うちのシーくんよりはイケメンだ。
「匿ってくれないかな」
言うに事欠いて、この美猫はそう言った。
わたしの両手を拘束したまま。
顔が近いまま。
有り得ないことに、そう言ったのだ。
「はい?」
第一声は思いっきり疑問符付きだ。
ついでに語尾が厳しい口調で上がっている。
ただの聞き返しではないことが、男にもわかったらしい。
空いている手を顎に当てた。
思案するような表情だったが、どことなく胡散臭い。
怪しい。
「だから、匿って欲しいわけだよ。飼って、てこと。
別に獣医に行かなくていいし、走り回らないし」
いやいや、そんな問題じゃないし。
家に人間の男の形した何かをおくのが嫌なだけなんですけど。
「餌はまぁ、あのふにゃふにゃしたやつは勘弁して欲しいけど」
誰が養うと?
「その代わりに、君を守ってあげる」
いえ、間に合ってます。
我が家にはちゃんと鍵かかってます。
泥棒さんも多分、こんなボロいとこ(しかも貧乏学生)に来ません。
残念ながら、そういうのはいりません。
いや、本当に。
ブンブンと首を振って、拒否の意思を示してみるが、目の前の男は笑うだけで何も言わない。
逆に怖いんですけど。
「あー。聞き方が悪かったかな」
男がわたしの頬をゆるく噛んだ。
甘噛み、だろうか。
猫でいうところの。
だからといって、仕方ないとか言うつもり皆無だけど!!
あれは猫がやるから可愛いのであって!
人間の男(しつこいようだけど、やっぱり見える範囲裸)がやっても気持ち悪いだけだ!
「君に拒否権は始めから存在してない」
にやっと笑った。
わたしを組強いたまま、男は妖艶と表現するに相応しい顔をする。
そして抵抗のしようがないわたしの耳元に顔を寄せ、ゆるゆると息を吐いた。
耳朶を揺らす息を感じて目を閉じた。
その様子を見て、悪趣味にも男はまた笑った。
「人、呼ぶけど」
「そう? 別にいいけど、事後に見える格好で襲われたとか言ってもね。
押し入った形跡はないし」
にっこりと憎らしいほどの笑顔で男は言う。
つまり、完全に合意の上でのし掛かってると言いたいのか、こいつは。
ふざけるにもほどがある。
わたしは、猫を拾ったんだ。
いたいけな(多いに疑問だが)少女を襲う男を拾った訳じゃない。
「ここ、ボロいから階段使うと分かるじゃない?
でも朝、音がしなかったら、その『襲った男』は昨日侵入したことになる」
男が耳元でクスクスと笑い声を漏らした。
言いたいことが分かって唇を噛む。
「それにしては、昨日の夜静かだったよね」
ぐうの音も出ない。正解だ。
怪しい男を見た人間さえいないだろう。
しかも、普通の人は猫が人間になるなんて信じない。
つまり、何が言いたいかと言うと。
人を呼んだところで、窮地に立たされるのは自分なのだ。
自分から男を招き入れた挙げ句、押し倒されたと騒ぐ少女。
……の言い分を信じてくれる人って、どれくらいいるんだろう。
「ね? 決めちゃいな」
ボクは何も君を傷つけたいわけじゃない。
「どちらかと言えば、温かく迎え入れてくれた君に感謝してるくらいだ。
ところで、名前は?」
男がするりと拘束を解く。
両手首が解放されて、ホッと息を吐いた。
押し倒されていると言うのは、なかなか辛いものがある。
しかも猫に。
「言わなきゃダメなの?
ってか、猫こそ何て名前なの?」
名前を聞くときは、まず自分からが常識だろう。
解放された手を握りしめて、目の前の男に聞いた。
この美形を『猫』と呼ぶのは少し気まずい。
少しどころか、かなり気まずい。
何か罪悪感とか感じてしまう。
「言ったら拾ってくれる?」
「まさか。うち、ペット禁止ですから」
拾うわけがない。
この借り家がペット禁止かどうかも知らないくせに、男をどかしたくてそう嘘を吐いた。
吐いたところでどうなるということもないのかもしれないが。
無駄な抵抗でもしないよりはマシだろう。多分。
「名前ね」
猫が笑ったあとにこちらの瞳を覗きこむ。
それからゆっくりと笑みを深くし、分かったように口を開いた。
悔しいことに、それはどきりとするくらいの破壊力を持っていた。
「みーくんとでも呼ぶ?」
「みー、くん??」
元の名前を短縮したら、みーになるの?
「ミーミー鳴くから、みーくん。可愛いでしょ」
「本名じゃないの?」
「捨て猫に本名があると思ってるの??」
みーくん、と名乗った(?)男は首を傾げながらそう言った。
確かに、吾輩は猫である。
名前はまだない、状態だもんなぁ。
捨て猫って自分で名前つけないのかな。
黒猫のクロとか。安易すぎるか。
「可愛いけど、猫はそれでいいの?」
「いいもなにも。
ボクにとっては、その『猫』って名前が気にくわないんだよね。
だから、そうじゃないならいいよ」
猫は『猫』じゃないか。
いや、名前をつけると愛着が湧くからいけないんだ。
だって、名前つけたら何か余計かわいく見えるもん。
庇護欲っていうか、何ていうか。
「なら、みーくんね」
ミーミー鳴くから、黒猫の青い瞳を持った君はみーくん。
そんなことを思いつつ、わたしは口を開いた。
「名前決めたからって、匿うって決めた訳じゃないですけどね!!」
「えー。ほだされたでしょ?? 匿ってよ」
確かに、ほだされた。
ちょっと捨てるのは可哀想だなって思った。
拾った動物は責任を持って世話しましょう……。
身勝手に捨ててはいけません。
決まりきった言葉が頭をめぐるが、いかんせん目の前にはいるのは男だ。
完全に、動物というか人間。
まかり間違っても、ペットではない。
「で? 君の名前は?」
ベッドに寝転がったまま、彼はわたしを見つめた。
わたしは起き上がって、ベッドから出ようと手をついた。
名前を呼ばれてしまえば、囚われてしまうような気がした。
「逃げないの」
ベッドから降りようとして足を出した瞬間、ベッドにおいていた手が掴まれた。
さっきまでわたしを拘束していた手と同じはずなのに、どうしてかその戒めは柔らかかった。
「放して」
「残念だけど、名前を教えてくれないならしばらくこのままだね」
笑顔のままそんなことを言われて、思わず眉が下がってしまう。
言いたくない訳じゃない。
ただ言ったあと、名前を呼ばれたあとに自分が彼を拒絶する自信がないのだ。
ただでさえ心はすでに拾う方に傾いている。
多分、猫に戻られたら天秤は一気に傾くだろう。
「志帆」
「しほ。可愛い名前だね。志帆、か」
しほ、と彼は唇からたった二文字の音を紡ぎ出す。
柔らかな声色で、彼はわたしを呼んだ。
彼に呼んだつもりがなくても、わたしには呼ばれたような気がした。
その声は温かな戒めとなって、今にもわたしを縛り付けそうだ。
その証拠に、掴まれた手を離されたのに、逃げることができなかった。
「志帆、あのね」
そのとき、家の回りが騒がしくなったのを感じた。
と同時に、みーくんが低く唸った。
猫が敵を威嚇して、毛を逆立てるような感じだろうか。
いや、それよりよほど怖かった。
綺麗な色合いをした瞳は、野生の光を取り戻して光り、らんらんとしている。
生き生きとしているというよりは、本能をむき出しにしているような印象だ。
「みーくん?」
「言ったろ?」
守ってあげるって。
そう言って彼はわたしを抱えあげる。
荷物のように抱き上げられて、だらしなく着ていたシャツの襟を引っ張りあげた。
腰のところを持ち、彼はわたしを小脇に抱えている。
随分軽々持ってますけど、わたし一応標準体型です。
つまり、重くもないが特別軽くもない。
それなのに彼は、わたしを抱えて余裕そうに笑った。
「君を、何者からも守ろう。
匿って、くれるんでしょ?」
一人で勝手に逃げた方がいいんじゃないですか? と思ったのは、わたしだけか?
違うだろ。一人で逃げた方がずっと楽だし、安全なはずだ。
彼はどうしてわたしを巻き込んだ?
「みーくん、あのさ」
「黙ってないと、舌噛むよ。いいの?」
玄関から一番遠い窓をあける。
それから身を乗り出して、彼はにやりと笑った。
嫌な予感がするのは、わたしだけじゃない気がする。
間違いなく、他の人も思っただろう。
「さて、一旦ここから出ようか」
「どうして」
「君を抱えてると、やつらを相手にできないし、君に傷でもついたらどうすんの?」
しっかり捕まっててよ、志帆。
その呼び方に返事をする前に彼は窓から飛び出した。
そして、軽い足取りで屋根に登りあげる。
不可能でしょ、と思っていたわたしは、呆気なく屋根の上に膝をつけた。
ありえなさすぎて、頭の処理が追い付いていない。
どうすればいい? というか、どうしてこんなことに?
わたしはただ、子猫を拾っただけなのに。
何をどうしたら、映画みたいな状況に陥ることができるんだ。
一大学生が。不思議にもほどがある。
「どこで間違った、わたし」
「君は何も間違っちゃいないなよ」
そんなセリフ、誰が信じるんだ。
現にわたしは日常からずれて、今屋根上にいる。
下には黒い服をまとった人たち。
片手に携帯もって、何かいってる。明らかに悪い人みたい。
映画に出てくるみたいな。
銃とか出さないだけまだマシか。
いや、人様の家をあんな大人数で囲んでるんだから、普通の人なわけがないんだろうけど。
「ちょっと特殊なだけ」
「みーくんがでしょ」
つっこみが虚しく響いて、わたしは項垂れる。
誰より平凡だと思っていたわたしが、ありえないことに巻き込まれていた。
「志帆、捕まっててよ」
みーくんはそう前置きして再びわたしを担ぐ。
今度は肩に乗せられて、ない腹筋に重圧がかかった。
胃が競り上がってきたような感覚に噎せれば、みーくんが眉を下げた。
「あー、大丈夫?」
「むしろ、わたしをおいて逃げればいいよ。
わたしは追いかけられる理由がないもの」
みーくんの問いかけに返せば、なんとも複雑な顔を返された。
え、でも事実ですよね?
「志帆、やつらがボクを追いかけてると思ってんの?」
「違うの?」
みーくんが身を屈めて屋根の上を歩く。
そういえば、この人裸じゃなかったっけ??
しかし目の前に見える背中は黒い服に覆われていて、いつの間に? と首を傾げた。
布団から出るところから記憶がない。
いろんなことに気を取られすぎていて、今の今まで気づかなかった。
「こんな猫捕まえて、一体どうするっていうの。
君に決まってるでしょ、やつらの狙い」
「こんな大学生こそ、捕まえてどうするの」
みーくんの呆れ顔に、同じく呆れた調子で返した。
猫から人に変化するモノの方がよほど捕まえるに相応しいと思うのだが、違うんだろうか。
少なくとも、一大学生を捕まえるより有意義だと思う。
いや、間違いなくそうに決まってる。
「志帆、君は分かってないね」
みーくんが少しだけ眉を寄せて笑った。
呆れたような顔の形なのに、そこには隠しきれていない複雑な感情が籠っているような気がした。
気がしただけだから、みーくんが本当にそう思っているかは分からないけど。
「君がどれだけ尊いか、分かってない。ねぇ、知ってる?」
みーくんが屋根を飛び越えて、わたしを下ろした。
鳩尾の辺りを撫でるわたしの手を取り、親指でわたしの手の甲を滑るように撫でる。
優しいその仕草は、わたしではない『誰か』に向けられたような気がした。
みーくんと目が合い、それを確信する。
今のみーくんは、わたしを見てる訳じゃない。
さっきみたいなからかう顔じゃなくて、まるっきり真剣な顔をしてる。
「ボクは君のために死ねるよ」
「みーくんのいう『君』って誰? わたしじゃないよね?」
みーくんが目を見開いた。
それからはっとして、息を飲み、穏やかに笑う。
今度はわたしを試すような、少し意地悪な笑い方だった。
それは間違いなくわたしに向けられたもので、そのことに少し安堵した。
今、彼はわたしを見ている。
わたしを捉えた青色の瞳はただ穏やかで、何も読み取れなくなっていた。
「どうして?」
「どうしてって、言われても」
分からない。
分からないけど、わたしじゃないことくらいは分かった。
わたしを見ている彼を目の前にすれば、どうして分かったのかという確信が揺らぐ。
わたしを映す瞳を見れば、そこに別の人を映していた影を忘れてしまう。
「わたしじゃないことは分か」
そのとき、みーくんに引き寄せられて体が浮いた、と同時に腕に熱が走った。
声を出す暇もなく過ぎ去ったそれは、じくじくとした痛みを代わりにおいていく。
腕をとっさにおさえて痛みの正体を探る。
しかし傷はなく、服も何ともなかった。
血も出てない。
それなのに何故か鈍い痛みは消えなくて、痛みを押し殺すように腕を強く握った。
「志帆、腕を離して」
自分の左腕を握りしめていた右手に、みーくんの手が重ねられた。
それでも何もないところから吹き上がる痛みに耐えきれなくて、手を外すことができない。
おかしいということしか分からない。
異常な事態だということしか知らない。
わたしはそれから逃れることもできない。
それを理解できず、闇雲にもがくしかない。
「志帆、大丈夫だから。腕を外して」
猫撫で声でみーくんが呼びかける。
猫が、猫撫で声って。
訳の分からないことを口に出して笑う。
現実逃避なのか、耐えきれない痛みに感覚がおかしくなったのか。
今のわたしには判別もつかない。
「……志帆、お願いだから言うとおりにして」
懇願の声に冷静さを取り戻して、そっと押さえていた手を外そうとする。
手から力が抜けたのが分かったのか、みーくんが小さく息をはいた。
それからゆっくりと袖をめくり、腕をさらして安堵の声を出す。
そこにあったのは、赤い線がわずかに走った肌。服は傷ついてないのに、
その肌はなにかが掠めたように少しだけ腫れていた。
思えば、どこか熱を持っている。
炎症を起こしたような。
「かすっただけだね」
何がよかったのか、と正直掴みかかりたかったが、彼の笑顔を見るとなにも言えなかった。
赤くなった肌を心配そうに見つめていたわたしを尻目に、彼はわたしの腕に唇を寄せた。
それから、本物の猫がするように舌を出して舐める。
猫がすれば可愛らしいその仕草も、人間の形をした彼がすればすごく大人っぽい。
どちらかといえば、やらしい。
「志帆」
「あ、のっ。何で、舐めっ!!」
「ま、治療みたいな?」
すっと彼が離れれば、肌の赤みが薄らいでいた。
びっくりして目を見開けば、イタズラっぽく笑われる。
熱も引いていて、じくじくとしていた痛みも和らいでいた。
「だから言ったでしょう?」
守ってあげるって。
脳の内容量はそこまでが限界だったらしい。
次の瞬間から記憶がない。
わたしは人生で初めて、気を失うということを体験した。
できれば二度と体験したくない。
……もっというなら、猫が人になるのを見たり、黒ずくめの連中に追いかけられたりという体験もしたくない。
これってワガママなんだろうか。
目が覚めた。
唐突な覚醒に目を数度しばたいて、辺りを見渡した。
変な夢を見ていたようで、自然と笑いが漏れた。
一体どんな夢を見るというのだ。
「猫から人間、かぁ」
目を閉じて、彼の容貌を思い出そうとするが、うまくいかなかった。
夢で見たイケメンというのは、うまく再現できないものか。
それにしては、黒髪と青い目はひどく印象的で、わたしの心を揺さぶった。
「みーくん」
ためしに呼んでみる。
口にのせたその名前は違和感なく響いて、部屋の空気を揺らした。
自分の行動がおかしすぎて笑った。
いるわけないのに。
そう思った瞬間だった。
キッチンの方から音がして、今しがた呼んだ人物が顔を出した。
驚いて肩が跳ねた。
それにかまわず、目の前の男はにっこりと笑ったままわたしの名を呼ぶ。
「あ、気がついたの? 志帆」
足早にこちらへ来た彼がわたしの額に手を当てる。
ベッドの上で身を引いたのに、彼の手はしっかりとわたしの額を捉えていた。
ひんやりとした手は額から頬に移り、やがてあごまで行きつく。
親指の先が唇に当たって思わず震える。
「夢じゃ、なかった」
「何言ってるかな、君は。気を失ったくらいじゃ、今の状況は変わらないよ」
みーくんはそう言って、人差し指でわたしの顔の輪郭をなぞる。
触れるか触れないかというわずかな感覚はわたしの背筋を粟立てさせた。
怖すぎる。
「気分、悪くない?」
「気分は」
夢じゃないって自覚した瞬間悪くなりました、と言うわけにもいかなくて、首を振る。
口に出さないのがせめてもの抵抗だった。
そんな抵抗、無意味なんだろうけど。
「影響はないみたいだね、よかった」
「影響?」
わたしのおうむ返しに彼はうなずいた。
「腕を見せて」
そう言うが早いか、彼はわたしの腕をとり、了承を得ることもなく捲った。
出てきた肌はいつもどおりで、何ら変わりはなかった。
赤い線なんかも入ってなくて、痛みも熱も感じない。
まるで、始めから何もなかったかのように。
「痕も残ってないみたいだし、きれいに消えたね」
よかったのかどうなのか、非常に疑問のところではある。
そんなことを考えていると、青い目といきなり出会って、焦った挙げ句に視線をはずす。
「な、なにっ」
ベッドの上で後退するわたしに、彼はきれいに微笑んで見せた。
妖艶だ、と思わず感じた。
引かれた唇に、細められた目。
何より醸し出す空気が、妖しかった。
ぞくりと背筋に何かが走るような。
「ボクを拾って?」
「なっ」
気付いたらベッドに押し倒されていて、目を見開いた。
二度はさせないと身構えていたはずなのに、呆気ないほど簡単にわたしの体はベッドに投げ出されていた。
悔しいより驚きが先にたつ。一体どうして。
「い、いやっ」
「助けてあげられるよ」
「無理」
懸命に抵抗するのに、手は押さえつけられて足はからめられ、一切の身動きを禁じられる。
その上、額を額で押さえられれば、首を振ることさえできない。
唯一残されているのは口だけで、それさえも近づいてくる彼のそれでふさがれそうだった。
「また、狙われるかも。
痛い思い、したいの?」
しかし塞がれるより早く、わたしは自分の意思で口を閉ざした。
いや、言葉がでなくなった。
腕の痛みを思い出して体が震え、喉が凍りついた。
何も言えなくなって、押し黙った。
あの痛みがもう一度襲いかかる?
冗談じゃない。
「ねぇ、志帆。よく考えてみて」
君は弱い。
「痛いのは嫌でしょう? ボクだって君が傷つくのは嫌だ」
まるで悪魔の声だ。
わたしの考えやなにかを全て溶かしてしまおうとする。
「いっ」
あぁ、そうだと、彼は笑んだ。
美しくも禍々しい、あの笑顔だ。
「君に選択権はなかったね」
守ってあげるよ、文字通り命懸けで。
そんなものいらないのに、そんなことしてほしくもないのに、彼はわたしに向かってそんなことを言う。
言いたいことも、聞きたいことも山ほどあったが、予想以上に近い顔に頭が沸騰した。
正常な思考回路なんてあるわけがなくて、ただ強要されるままに頷いた。
また気でも失ってしまいたい気分だ。
「志帆、君は誰より尊いんだ。覚えておいて」
みーくんの声がこだまして、わたしはまた瞳を閉じた。
再び目覚めたとき、全てが夢であったことを望んで。
猫から人間になる彼も、黒ずくめの人たちも、みーくんがわたしの奥に見る人も。
全部全部なかったことになっていればいいのに。
なかったことになれば、わたしはいつもの平凡な生活に戻れるのに。
「覚えておいて」
この声は瞬く間にわたしの中を掻き乱すんだ。
遠くにいってしまった日常を思う。
あの生活のほうが安全でよかったと。
その一方で分かってはいるのだ、わたしはどんな道順をたどろうと、絶対に雨に濡れた あの子猫に出会うのだと。
まるでそれは、運命が仕組んだみたいに。
……今気付いた。友人の名前と一緒だ。彼女と出会う前から音だけ決めてたのですが、多分漢字は彼女から拝借したんだと思います。覚えてないけど。
序章、みたいな感じで何一つ明確になされないまま終るという。
伏線、その他もろもろは出しっぱなしにしてみましたー。
もともとあった魔術のお話から派生したものだったので、設定はすかすかだったりします。




