9:風の神
そういえば、 明日でこの小説も一周年になります。
本来だったらもっと話数が進んでいるはずなんだけどなあ。
龍原グランドホテル屋上。 本来ならばVIP客を迎えたり、 いざという時の救急ヘリが降り立つであろうヘリポートは豪雪によってその姿を隠し、 使い物にならなくなっていた。
更に、 荒れ狂う吹雪が視界を遮り、 ヘリポート全体を視界に収めることは不可能になっている。 改めて言うが、 猛吹雪の中というのも相まって、 今のヘリポートにヘリを下ろせる腕前を持つものなど世界中を探しても見つからないことだろう。
そんなヘリポートの中央から、 恐らく中央だろうと言える位置から少し離れた場所に“彼ら”はいた。
“彼ら”は人などではなかった。 獣であった。 一体は六つの脚を持ち、 そのうちの二本の脚を器用に使い、 彼からすれば小さな銅鏡を抱えていた。 それは大森 勤造が大事そうに所有していた“御神体”であった。
六つ脚を持つ獣の名はノフ=ケーといった。 この地域では野吹の名前でも知られている存在だ。
ノフ=ケーの周囲には六体の獣人。 禍々しい猿の様な怪物。 ウェンディゴ、 上淀孤と呼ばれる彼らは、 ブツブツと何かを唱えながら、 分厚い雲により日の光がほとんど遮られた白い空を見上げていた。 その姿はまるで神に祈りを捧げる神官のようでもあった。
本来であれば、 何も見えないはずの猛吹雪の空に何を見ているのか。 何に祈りを捧げているのか。 この答えが明らかになる前に、 彼らの背後、 屋上から下へ降りるためのエレベーターと非常階段がある方向から、 物音と人の声がした。
「いた! まだ儀式は終わってないみたい!」
「よし、 松明に火をつけろ! 急げ!」
下からやって来た円と信介が声を荒げる。 信介の周囲の男達は吹雪にさらされながらも、 必死になって手製の松明に火を点けていく。
その様子を見てノフ=ケーは自分の失敗が取り戻せるチャンスが来たことに気が付きほくそ笑む。
神を召喚する儀式を行うには多くの血と死体が必要である。 それらがなくとも、 儀式を行うこと自体は可能ではあるが、 血と死体があった方が成功する確率は高くなる。 ノフ=ケー達は鏡を手に入れるのに集中するあまり、 用意するのを忘れていたのだ。
いや、 一体だけは用意できたかもしれない。 大森 勤造だ。 しかし、 あまりにも狂乱し、 抵抗するので、 ついバラバラにしてしまったのだ。 これでは供物としては不適格である。
しかし、 用意できなかった供物がこちらにやってきてくれた。 何たる僥倖か。
そう考えたノフ=ケーは何かを呟くと、 鏡を傍らのウェンディゴに手渡す。 鏡を受け取ったウェンディゴはノフ=ケーに一礼すると、 人間たちに背を向けて、 再び神への祈りを唱え始めた。
「―――――!」
その光景をかろうじて見ることができた人々は戦慄する。 バスを横転させた存在、 ノフ=ケーと、 ロビーを襲撃した存在のウェンディゴがこちらに敵意をむき出しにして迫ってきていた。
「構えろ! 来るぞ!」
信介の命令を受けて、 警備員達が火のついた松明を武器のように構える。 しかし、 その手は震え、 顔には恐怖や動揺の表情が浮かんでいる。
無理もない。 銃を持った人間でもただの警備員には荷が重いのに、 目の前にいるのは、 そんな銃持ちよりも遥かに危険な獣なのだ。
怯えを隠せない警備員に代わってまず最初に動き出したのは大学生である円だった。
「油!」
そう言うやいなや、 円は近くに置いてあった料理油が入っている一斗缶をひったくるように掴むと、 自身の力と勢いを利用して、 ハンマー投げのように投げ飛ばした。 しかし、 一斗缶は彼らの頭上を越えていく。
円自身の考えでは、 一斗缶そのものを当てるつもりはなかった。 確かに十八リットルの油が入っている一斗缶が当たればそれなりのダメージがあるだろう。
しかし、 円自身に一斗缶のような重量物を狙った場所まで投げる練習や訓練を積んだ経験はない。
彼女の狙いは中身である油だった。 油をかけて火で焼く。 こんな猛吹雪の中では、 晴れている時と比べて燃えやすいとは言えないが、 十分な効果はあるはずである。
ただ一つ、 彼女は失念していた。 一斗缶にフタがしている事である。
調理部の方で一度開けられてはいたものの、 持ち運ぶ際に中身がこぼれ出る可能性を考えられ、 再び閉められていたのだ。
無論、 すぐに開けることができるようにフタを閉めるのは軽くではあった。 しかし、 それは鍛えられている人間基準であり、 多少の揺れではびくともしない程度にはしっかりと封がされていた。
すなわち、 何が言いたいのかというと。
円の投げた一斗缶はノフ=ケーやイタクァに当たることはなく、 彼女の狙いである油をまき散らすこともなく、 鈍色の一斗缶は、 開店しながら吹雪の中へと消えていった。 ということである。
「…………」
『…………』
何とも言い難い空気が人間達の間に流れる。 「何がしたかったの?」という人々の視線を一身に受けながら、 円はこの空気をどうするべきか、 まるで他人事のように考えていた。
皮肉なことにその空気を何とかしてくれたのは、 ウェンディゴであった。 動きが止まったことを好機と見たのか、 雄たけびを上げて、 三体のウェンディゴが襲い掛かって来た。 そして、 彼らは一斉にその鋭い爪を前にいる三人に向けて振りかぶる。
「―――!」
「う、 うわぁ!」
先程の動揺から素早く立ち直った円は爪の一撃を飛び退くことで回避する。 円と同じように襲われた警備員二人は慌てたように持ったいた松明を突き出した。
一人の松明はウェンディゴへと当たり、 その毛皮に火を移す。 獣に似つかわしくない、 小さな悲鳴を上げながら、 ウェンディゴは火を消そうと転がっていく。 吹雪吹き荒れる中、 燃料となるものも毛皮だけだったという事もあり、 小さな火はあっという間に消えていった。
一方、 もう一人の突き出した松明はウェンディゴへと当たることはなかった。 アッサリと躱したウェンディゴは無礼者に対する“仕置”だと言わんばかりに鋭い爪の一撃を浴びせかける。
「あっ……」
不用意に突き出した松明のせいでバランスを崩し、 怪物の攻撃を避けることができなくなった警備員は来たる死に反応すらできず、 振り下ろされる爪に視線を送る事しかできなかった。
「うらぁ!」
しかし、 その“死”が警備員に訪れることはなかった。
なぜならその一撃が与えられる直前に、 後ろから飛んできた一斗缶がウェンディゴの顔面へと命中したからだ。 予想外の一撃を受けたウェンディゴは奇妙なうめき声を上げつつ、 後ろに下がる。
「大丈夫か?」
自身が助かった事に気が付くと、 力尽きるようにへたり込む警備員。 その後ろから声と共に腕を掴まれてムリヤリ立たされる。 そちらの方へと視線を向ければ、 桐島 晃が短槍のような松明を片手に立っていた。
「あ、 ありがとうございます!」
「気を付けてくれ。 あの毛皮は中々分厚いくせに、 地味に素早い。 松明を当てるなら慎重にな」
一斗缶を当てたウェンディゴに視線を向ければ、 頭を振りながらも、 特にダメージを受けた様子はない。
周囲に視線を移せば、 こちら側の人数が多いこともあってか、 案外有利に戦えていた。 最低でも二対一になるように戦えているうえに、 油という燃料と松明という火の両方を複数用意できたのが良かったのだろう。
襲ってきた三体の内、 すでに二体は火達磨になっており、 追加で襲ってきた一体にも円の蹴りで牽制されつつ、 油をかけられているところだった。
ここでようやく、 先程一斗缶を当てられたウェンディゴが襲い掛かって来たが、 それにいち早く気付いた晃がカウンターを放つ。
「っしゃあ!」
武闘派な娘の父親もまた武闘派であった。 晃のはなった後ろ回し蹴りはウェンディゴの攻撃を中断させて、 後ろへ仰け反らせる程度の威力はあったようだ。 ウェンディゴがひるんだその隙に松明を突き立てて、 投げつけていた一斗缶を素早く回収する。
先程投げつけた衝撃で多少緩んではいたものの、 今も中身を漏らさないフタを急いで開けた晃は、 再び襲い掛かってくるウェンディゴに対して、 缶ごと中身をぶちまけた。
「火を!」
「! はい!」
慌てて後ろに下がった晃の言葉を受けて、 持っていた松明を何のためらいもなく投げつける警備員。 投げられた松明は明後日の方向へ飛んでいくことはなく、 油にまみれたウェンディゴに命中する。
「―――!」
燃え上がる火を消そうともがき、 暴れるウェンディゴに追い打ちだと言わんばかりに追加で油をかけていく晃。
暴れるウェンディゴの爪の一撃を避けるために、 少し離れたところから油をかけているのもあって、 二、 三度ほど外してはいたものの、 油が燃える体にかかるたびにその火は勢いを増していく。
炎に包まれるからだが動かなくなるのに時間はかからなかった。
他のウェンディゴとの戦いも似たようなものだった。 油をかけられ、 松明についた火で燃やされて、 追撃として油をかけられる。
例え、 今の文明社会によって築かれた常識を崩すような生物であっても、 生物であることに変わりなく、 生物である以上は燃えるのは当然であると言えるだろう。 爪の一撃で怪我をする者はいても、 幸運にも死者はでなかった。
ただし、 彼らのノフ=ケーだけは違った。 六本ある脚の内、 四本を振り回し、 油をかけようとする者を近寄らせようとしなかった。
油がかかっていなければ、 松明が当たっても大したダメージにはならない。 ノフ=ケーの外皮はウェンディゴのものより厚く、 硬かった。
大門が撃った散弾銃の弾丸を全てその身に受けても、 未だに動けていることから、 その巨体に相応しい耐久力も持ち合わせているようだ。
当然、 自分の蹴りなんて大したダメージにはならないだろうなと、 円は考えながらノフ=ケーが振り回す剛腕を必死になって避けていた。
“振り回す”とは言ったものの、 ただやみくもに暴れているわけではなかった。 怪我している者以外全員で囲んでいるのもあって、 その剛腕は確実に誰かに当たるであろう軌道を描いていた。
そのような事をしている間にも“儀式”は進んでいく。 四本の脚を同時に使っているためか、 まだ回避は容易なものの、 攻撃に転じることはできなかった。
ノフ=ケーの剛腕を受けてしまえば致命傷を受けるのは確実であり、 それが更に攻撃することをためらわせて、 回避に専念せざるを得ない状況に追い込まれていた。
だが、 そうしている間にも儀式が進んでいく。 儀式を止めようと動く者がいても、 ノフ=ケーがそれを遮るようにその巨躯を動かし、 剛腕を振るう。 儀式を止めることができないまま、 時間が進んでいく。
(どうする……どうす―――!?)
三度目の突撃が失敗し、 焦りと共に後退する円の足に何かが引っかかる。 それに足を取られ、 転ぶ円。
その姿を好機と見て、 襲い掛かるノフ=ケー。 大慌てで転がることで、 何とか回避には成功する。 全身が雪まみれになってしまい、 身体が冷えるが、 この吹雪の中、 動き回っているおかげか、 寒さはあまり感じなかった。
(さっきは一体何かに引っかか――!)
視線をノフ=ケーの足元、 先程まで自分がいたところに向ければ、 ノフ=ケーの巨躯に隠されていあたものの、 そこにあったのはひしゃげた一斗缶だった。 恐らく円が最初に投げた一斗缶なのだろう。 中身の油がぶちまけられていた。
「火! 足元に!」
円の言葉に反応した警備員の一人が松明をノフ=ケーの足元に投擲する。 松明の火は足元の油に燃え移り、 ノフ=ケーの足元は一瞬にして燃え上がる。
流石に全身に火が移ることはなかったものの、 突然燃え出した地面に動揺するノフ=ケー。
その隙をぬって、 鏡を天高く掲げたウェンディゴに四度目の突撃を試みる円。 ぶちまけられた油の一部が自分にかかっていることを自覚していたので、 燃える場所から少し離れるようにして。
後を追おうとしたノフ=ケーだが、 周囲にまだ人がいたことを失念していた。
同じように好機と見たアナスタシアが一気にノフ=ケーに駆け寄り、 その無防備な背中に至近距離からの散弾を撃ち込んだ。
流石に二発目は効いたらしく、 その場を動けず、 呻くノフ=ケーを背に円は飛び蹴りを放つ。
狙いは高く掲げた鏡。 ウェンディゴの外皮はノフ=ケー程ではないものの硬い。 ならば鏡を弾き飛ばすだけでも儀式の中断はできると考えた円がそちらを狙うのは当然と言えた。
「っはあぁ!」
そして、 円の蹴りは鏡に命中し、 蹴り飛ばされた鏡は吹雪の中へと消えていった。
円が鏡を弾き飛ばしたことで、 儀式が完了する前に止めることはできた……はずだ。
事実、 吹雪の勢いは弱まり、 十秒もしないうちに先程の勢いは何だったのかと言いたくなるほど、 あっさりと吹雪は止んだ。
……しかし、 吹雪が吹き荒れていた時よりも体は冷え、 震えは止まらない。
戦闘が終わったことで、 アドレナリンが出なくなったから? いや、 違う。 よく見れば空中にキラキラと輝く者が浮かんでいた。
この時、 この場にいたものは分からなかったのだが、 これは空気中の水分が瞬間的に凍結したダイヤモンドダストと呼ばれる現象であった。 そして、 その現象は龍原リゾートがある地域では起こりえない現象でもあった。
「一体、 何が……」
誰かが呟く。
空を見上げれば、 渦巻く重々しい雲の一部が、 こちらへと急激に降下していく。 いや、 雲ではなく、 それは手だった。 細長い五本の指、 鋭利な鉤爪。 あり得ないほど青白い皮膚。 人間を鷲掴みできるような巨大な腕が幾本もこちらへと伸びてきていたのだ。
誰もがその異様な光景に呆然と動けなくなっていると、 天から伸びてきたその手は鏡を掲げていたウェンディゴや、 ノフ=ケー、 そして黒焦げになっていたウェンディゴをしっかりと掴んでは天高く連れ去っていく。 まるで儀式に失敗したことに対する罰を与えるかのように。
しかし、 降りてきた手はそれだけではなく、 化け物どもを掴まなかった手は、 「ついでだ」と言わんばかりに屋上にいた人々にも伸びてきていた。
その事実に気が付いた晃は叫ぶ。
「逃げろ―――!」
その言葉をきっかけに、 我に返った人々は、 持っていた物を放りだして、 我先にと逃げ出す。 逃げる先は非常階段。
怪我をしてへたり込んでいた者も、 どこにそんな力が残っていたのか必死の表情で転がり込むように階段を駆け下りていく。
最後尾にいた円も、 脇目も降らずに走り出す。 途中、 手が後ろの雪をごっそり持っていく気配がした時は、 自身の心音以外の音が聞こえなくなるほどだった。
誰もが必死になって階段を駆け下り、 オーナーの私室であった最上階まで降りてきたとき、 誰もが遺棄を絶え絶えにその場にへたり込んでいた。
そして、 一番最初に落ち着いたらしい警備員の一人が周囲を見渡すと、 呟いた。
「……あれ? 支配人と秘書さんは?」
次回、 エピローグ。




