第九話 追憶
遥と蓮は付き合ってはいるが、デートらしいデートは一度もしていない。
それは、風颯学園が弓道の強豪校だからである。
平日の朝練、夕練は勿論のこと。日曜日や祝日も一日練習や他校との練習試合等が行われ、本当に弓に触れない日が一日もない。
テスト期間中だけが唯一の休みだが、勉強の合間にも素引きは欠かさずに行っている。そんな蓮だからこそ、遥にとって毎朝一緒に引ける三十分程度の時間が貴重なのだ。
「夏休みに入ったら、八月頭に大会だなー」
「そうだね。テストも無事に終わったから、よかったね」
「あれから学校はどう?」
「合宿してからは、午後練は試合のように引く機会が増えたかなー…………みんな……風颯に刺激をもらったみたい」
「そっか……よかったな」
「うん」
弓を引き終えると、いつものように制服姿で話をしながら、道場からの坂道を下っていく。
「試合が終わったら、夏休みに少しは時間とれると思うから……夏祭りとか出かけたりしような?」
「うん……蓮、ありがとう。楽しみにしてるね」
初めてのデートの約束をすると、いつもの分岐点で手を離し、それぞれ学校の朝練に向かう。
まさに弓道一色の学生生活だが、二人とも楽しそうな笑みを浮かべている。それは、遥と蓮が弓道がすきな似た者同士だからだろう。
入学式から四ヶ月近くが経ち、夏休みを迎えようとしていた。
清澄弓道部の面々は、テスト補習期間の三日間、赤点を逃れたが登校していた。その間、一日六時間程度、弓を引く為に道場に集まっていたからだ。
朝練ではない為、いつもとは違う練習メニューだ。
午前中は九時から三時間。午後も一時より三時間程度行われ、午前中は基本的に実戦練習。午後は余った時間で、自由練習をするようなメニューとなっていた。
「午後は大会個人に出るメンバーが十二本引いたら、自由練習だからなー」
お昼休憩を取りながら、部長が次の指示を出す。
二年生と一年生で分かれる事も、男女別になる事もなく、袴姿のまま円陣を組むような形で、お弁当を広げている。
最近、 話題になるのは夏休みの事ばかりだ。
「月曜から金曜は、今と同じで朝九時から午後四時まで道場解放してるんですよね?」
「そうだよー。土日は開いてないから、練習したいのは分かるけど、駄目だからね。あと水曜日は午前中だけで、十三時までだから時間厳守で!」
「はーい」
北川に念を押され、仕方がなさそうに応える陵に、笑い合う。
「さすがユキ先輩です!」
「陵ならやりかねない」
「みんな、酷くないかーー? 隆部長、助けて下さいよー」
「悪い。俺もちょっと思ってた」
「ですよねー」
「ちょっ、美樹!」
お腹を抱えて笑っているメンバーもいるほど、親しくなっていた。
この数ヶ月で、二年生も一年生も名前呼びが定着し、一ヶ月前よりも今日。今日よりも明日と、いったように、チームワークの良さが普段の練習から培われている。
弓道は個人競技だが、こういった日々の積み重ねが、試合のメンタルを大きく左右するのは確かだ。
「みなさん、午後の練習を始めますよ」
『はい!!』
藤澤に一斉に応え、また弓と真剣に向き合う部員の姿があった。
今朝は道場へは行かず、自宅にいるが制服姿だ。遥はいつもと変わらないセーラー服だが、満は珍しくシャツの第一ボタンまできっちりと留め、ネクタイをしている。
祖父の一周忌法要が自宅で行われるからだ。
親族や滋の知人が集う中、彼の親友であり蓮の祖父でもある一夫が、彼と共に神山家を訪れていた。
「カズじいちゃん、お久しぶりです」
「ハル、大きくなったなー」
「うん。蓮、こっちに座ってもらって?」
「ありがとう」
彼も満と同じ制服姿だ。
仏壇の前では、僧侶が読教を行なっている。
ーーーーーーーーあれから一年……時の流れは、早くて……
遥が蓮に視線を移すと、彼は一夫の隣で静かに仏壇を見つめていた。
……時折、押し寄せてくるけど…………おじいちゃん……私、約束を守れてるかな?
少しは……近づいているかな?
次の試合は残りたいの。
今まで……こんな風に思ったこと、一度もなかったのに……
彼もまた想い出していたのだろう。遥に視線を移すと、二人の視線が交わる。
微かに笑みを浮かべ、仏壇に視線を戻した遥は想い返していた。祖父の言葉を。
お斎が行われる中、遥と満は、蓮と一夫とテーブルを挟んだ向かいの席に座っていた。
祖父は範士だった為、多くの弟子や友人が訪れていたが、二人が幼い頃から今も交流があるのは、限られた人達だけである。
「そういえば……ハルと蓮は、付き合ってるんだって?」
「じ、じいちゃん?!」
ゴホゴホと、蓮がお茶で咳込んでいる。
それもそのはず、親戚一同が集まる席で一夫の放った一言に、食いつかない従兄弟ではない。
「えっ?! 本当?!」 「ミツ兄も知ってたの?!」
「知ってたけど……航も、稔も、食いつきすぎ……」
「だって、蓮くんと仲が良いのは知ってたけどさー」
「ハルは高校、違うんでしょ?」
「そうだけど……」
「蓮くんは、ハルの何処がよかったの?」
「ちょっ、航?!」
「気になるじゃん」
遥と航は同い年の為、特に悪そうな笑みを浮かべている。
「航……ここで聞かなくてもいいだろ?」
「えーーっ!」
周囲の大人達からは、五人の様子に笑みが溢れる。
「じいちゃんのせいだからな?」
「悪い、悪い」
一夫に悪びれた様子はなく微笑む。孫達の変わらない姿が嬉しいのだろう。
「そういえば、カズじいちゃんは道場にいつ行ってるの?」
「日中だな」
「朝はもう行かないの?」
「それは……二人の邪魔しちゃ悪いだろ?」
「じいちゃん!」
蓮からは、何度目になるか分からない小さな溜息が漏れる。
「三人とも、もうすぐ大会だろ?」
「うん……」
「楽しみだな」
「えっ? カズじいちゃん、見に来るのか?!」
「たまには見たいな。ミツは今年で最後だろ?」
「あぁー、蓮には負けないよ」
「俺だって」
二人の楽しげな様子に、遥からも笑みが溢れる。
「いいライバルだな……」
「じいちゃんも……シゲじいちゃんと競い合ってたんでしょ?」
「そうだったな……」
「高校からの仲だったっけ?」
「そうだな……学校は違ったから、ライバル校だったな」
一夫は三人の様子に、学生の頃を想い返しているようだ。
「今のハルと、ミツや蓮みたいな感じだったな……」
「そっか……」
「…………時が経つのは早いな……」
「うん……」
彼らがしんみりしていると、一夫に話しかける人物に遥は驚いていた。
「一夫さん……ご無沙汰しております」
「えっ……藤澤先生?!」
「何だ……ハルは気づいてなかったのか?」
「みっちゃん……」
「藤澤先生は、じいちゃんの葬儀にも参列して下さってたぞ?」
「…………気づかなかった……」
…………私……本当に、周りが見えていなかったんだ……
葬儀は……蓮の肩を借りて、泣いていた事くらいしか……正直、よく思い出せない……
「こんにちは……」
「こんにちは、遥さん。満くんに蓮くんも、合宿ではお世話になりましたね」
「いえ……こちらこそ、楽しかったです」
蓮がそう応えると、藤澤は嬉しそうに微笑む。
「藤澤くん……清澄は、再生しそうかい?」
「ええー、遥さんや今年入部の子達のおかげで」
「それはよかった……ハルもよかったな……」
そう目を細めて告げる一夫は、何処か安堵したような表情だ。
「うん……カズじいちゃん、ありがとう……」
ーーーーーーーー時々、思うの。
ずっと……切磋琢磨してきた相手がいなくなるって……きっと……想像以上に、淋しい。
おじいちゃんが生きていたら……と、考えたらきりがないけど…………
弓道を続けられる場所があること。
蓮が隣にいてくれること。
すべてが、当たり前じゃないことは……分かってる。
また仏壇にそっと視線を移していた。
周りはお酒も入り、賑やかな雰囲気だ。
滋は人付き合いが上手い方ではなかったが、それでもこれだけの人が集まるのは、彼が弓道を通して生きてきた証だろう。
「ハル、どうした?」
「ん? 私も……頑張ろうと思ってね」
「気合い入れてたのか?」
「うん……蓮、よく分かったね」
「遥を見てれば分かるよ」
優しく微笑む蓮に、遥も笑みを返した。二人はいつの間にか隣同士に座っている。
正確には満や従兄弟を含め、同年代の五人で近況を話していた。
孫達の仲睦まじい様子に、一夫も笑みを浮かべていた。かつて切磋琢磨し、弓道と向き合ってきた親友に想いを馳せながら。
ーーーーーーーーもうすぐ始まる…………
緊張しないと言ったら、嘘になるけど……少しだけ、ワクワクしてるの。
遥が弓を引くと、心地よい弦音が辺りに響く。
明日から始まる大会に向けて、精神統一しているのだろう。五つあった的には、すべて四本の矢が中っている。
矢取りを済ませると、一人で坂道を下っていく。
蓮は……部活が忙しいよね…………
蝉の声が響く中、想うのは彼のこと。そして、明日から始まる全国高校総体のことだ。
初めてのインターハイに心を弾ませていたが、緊張感も同じくらい増していた。
…………大丈夫……弓道を続けていくって、決めたんだから…………
晴れ渡る空を見上げ、彼から貰った御守りを強く握っていた。