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第五十八話 桜咲

 毎朝のように、弓を引くようになって二年近く。

 蓮は……いつだって、手を差し伸べてくれていた。

 あの頃は分からなかったけど……今なら、分かる。

 ぜんぶ……私の為にしてくれていたことだって……


 「……いってきます」


 一人きりの道場を出た遥は、いつものようにそう告げて扉を閉めた。


 ーーーー今日……結果が出る。

 蓮が……此処から居なくなるんだ…………


 分かってはいても、心は追いついていないのだろう。無意識に胸元へ手を当てる。まるで、大丈夫だと反芻させているようだ。


 …………弓を引いている時だけは、無心でいられる。


 的確に引く遥のいつもと変わらない姿に、部員は思わず視線を向けた。


 この気持ちは……あの時と似ているの。

 弓を引いても、何の音もしなくて……ただ無心になって、引き続けていた頃に。

 まっすぐに飛んでいく矢は……今の私とは、正反対みたいで…………


 八射皆中を決め、深く息を吐き出した。気持ちを落ち着かせているようだ。

 

 「遥、すごい集中してたね」

 「うん……」


 変わらずに微笑んで、その場を乗り切る。喜ぶべき知らせを待つ遥は、彼以上に緊張しているのだろう。何かをしていないと落ち着かない様子だ。


 「ーーーーっ、ごめん、先に帰るね!」

 「う、うん!」


 遥の勢いに押され、美樹も大きな声を出した。慌ただしく更衣室を出て行った横顔は何処か嬉しそうだ。


 思わず駆け足になった視界に彼が入る。一瞬、立ち止まりそうになりながらも駆け寄った。


 「ーーーー蓮、お疲れさま……」

 「遥、お疲れさま」


 変わらない笑顔に飛び込めば、優しい手つきで触れる彼が側にいると実感する。


 「……おめでとう!!」


 自分の事のように嬉しそうに微笑んだ。


 「ーーーーありがとう……遥……」

 「うん……」


 部活終わりの薄暗い時間帯で人が疎とはいえ校門前だ。全く人通りが無い訳ではない。


 「あれ、遥?」 「部長??」

 「!!」

  

 顔を上げれば弓道部員が勢揃いしていただろう。慌てて離れそうになった腕は取られ、見せないように寄せられていた。


 「……お疲れさま」

 「蓮さん……お疲れさまです」 「……お疲れさまです」


 そのまま顔を隠すように手を引かれ、駅に向かって歩き出すが、遠くなっていく背中に言及はない。蓮の柔らかな笑みは、見送る事しか出来ない強さがあった。


 「ーーーー遥……引いていくだろ?」

 「…………うん……」


 小さく頷いた目元は赤い。繋がれた手に視線を移し、潤んだ瞳と視線が合えば吸い込まれそうだ。


 ガラッと勢いよく扉が閉まり、忙しない心音が更に鼓動を速める。


 「…………蓮……」


 ようやく口を開いた遥は、強く抱き寄せられていた。


 「……おめでとう…………」

 「うん……」


 近づく瞳にそっと瞼を閉じれば、唇が優しく触れ合う。  


 「…………遥……」 


 目元に触れる指先で、ようやく気づく。


 ーーーーーーーー私……泣いていたんだ…………

 蓮の合格は、何よりも嬉しい……また、二人が揃う姿を想像するだけで…………高鳴るのに……


 「待ってる……」

 「うん……」


 涙を拭いて、まっすぐに見つめる。


 「……私……同じ大学に行けるように……頑張るから……」

 「うん……」


 額が寄せられ、間近にある彼に染まる。頬に触れる手が合図になったかのように、また唇が重なる。


 「ーーーー蓮……おめでとう……」

 「うん……」

 「楽しみだね」

 「そうだな……ただ…………」

 「……ただ?」


 不思議そうな耳元に唇が近づく。離れようにも抱きしめられている為、敵わない。


 「…………遥がいないのは……淋しいな」


 素直な言葉に目を見開く。それは、遥がずっと感じていた事だ。


 「ーーーーうん……淋しいけど…………楽しみだよ」

 「楽しみ?」

 「うん、二人が競う姿はかっこいいから……」

 「そっか……」

 「うん……」


 肩に寄せられた頭に触れると、勢いよく蓮が顔を上げた。


 「…………勝負だな?」

 「うん!」


 いつもの調子で応える遥に微笑むと、弦音が響いていく。

 見上げれば月が出た夜空が広がる中、変わらない音が響く。会話をしているかのように放たれる矢は、まっすぐに飛んでいった。


 ーーーーーーーー淋しい……それは、当たり前のこと。

 中等部に入る時にも、感じていたこと……一つの年の差は縮まらないし、離れていく現実も変わらない。

 それでも……ずっと一緒にいられたらって、何度も願ってきた……


 「遥」

 

 広げられた両腕に思わず飛び込む。速まる心音も、温かさも、目の前にいるからこそ感じられる事だ。


 壁にもたれ掛かりながら、腰に腕を回した蓮は、背中から肩に額を寄せた。二人の視線の先には、先ほどまで放った的がある。駆け巡る想いに、遥は腕の中でそっと微笑む。


 「ーーーーーーーー蓮……ありがとう……」

 「うん……」


 さらさらの髪に触れながら、また夜空を見上げた二人が、それ以上の言葉を交わす事はない。ただ静かに想い返していた。二人で過ごした此処での日々を。






 カンと、心地よい音が響く。遥は静かに道場に入り、横顔を眺めていた。


 「ーーーーおはよう」

 「おはよう、遥」


 矢取りを終えると、揃って引き始める。弦音が響く度にお互いの音に耳を傾け、頬が緩む。遥はともかく、蓮にしては珍しいほど顔に出ていた。


 「日曜日は出かけような?」

 「うん、お祝いしようね」

 「ありがとう……」


 自分の事のように嬉ぶ遥に、思わず手が伸びる。蓮が触れると急激に染まる頬に、また緩んだ。


 「……いってきます」

 「いってらっしゃい」


 この言葉も、あと何回…………


 冬晴れの空を見上げた横顔は、遠くを眺めているようだった。




 日曜日のデートも勿論、嬉しいけど……毎朝の練習も大切なの。

 蓮と行きたい所はたくさんあった筈なのに……会えたら、それだけで嬉しくて…………泣かないで、ちゃんと見送りたい。

 いつも背中を押してくれる蓮に、私も……ちゃんと返したいから……


 「遥……昨日、大丈夫だった?」

 「うん、大丈夫だよ。お先に失礼しました」


 努めて明るい声のまま応える姿に、美樹は安心したようだ。些細な変化に気づいた遥は、自分の至らなさを感じながらも、友人の優しさに救われていた。


 「……美樹、ありがとう」

 「ん? なぁーに?」


 知らない振りをして、頬に指を当ててくる美樹に微笑む。


 「次、遥と美樹の番だよーー」

 『うん!!』


 揃って奈美の呼びかけに応え、的に視線を移す。まっすぐに見つめる彼女の横顔は、試合と変わらず真剣さが垣間見える。

 心地よい弦音に続いて中る射に、微かに頬を緩ませる遥がいた。


 ーーーー春は……出逢いと別れが一度にやってくるから……苦手だけど…………今は、そこまでじゃない。

 離れるのは淋しいけど、美樹に……清澄で、大切な仲間に出逢えたから……


 「部長は外さないなーー」

 「すごいよねーー」

 「……継続は力なりですよ」


 青木と加茂が振り向けば、藤澤が椅子に腰掛ける所だ。


 彼の言葉には重みがあり、続けてきたからこその結果である。他者を寄せつけない強さは、彼女の努力の賜だ。一朝一夕では辿り着けない高みとも言えるだろう。


 憧れを抱くのは二人に限った事ではない。思わず手を止め、見入ってしまう部員に向ける藤澤の視線は温かなものだ。彼自身も想い返しているのだろう。かつて強豪校と言われた清澄高等学校の時代を。


 「次は加茂ちゃん達だね」

 「は、はい!!」


 いつもの調子で歩み寄る遥に、遅れて返す姿が微笑ましい。試合直前とは違い、午後の練習も穏やかな雰囲気だ。


 「ーーーー継続か…………」


 そう零した翔は、矢取りを行う彼女を自然と目で追った。

 一つの的だけは八本中っている。八射皆中に誰一人として驚いてはいない。当たり前のように受け入れているが、遥自身はほっと小さく息を吐き出していた。


 少しでも長く……少しでも一緒に…………その少しの差が、難しい事は分かっているの。

 たった一本の差が勝敗を分けるし、たった一つの差なのに、先に行ってしまうから……


 「みんな、安定してきたよね」

 「うん……」


 そう頷き、ほとんどのメンバーが半数近く中っている的へ視線を移した。


 弓道……続けてきて、よかった…………此処に来なかったら、そう思えなかったかもしれない。

 もしもの話をしても、仕方がないのかもしれないけど……私の今があるのは、此処に来たから…………だから……


 「遥ーー、帰るよーー」

 「うん」


 他に意識が向いていた事もあり、気づけば帰宅の時刻だ。

 いつものように手を振り分かれると、過ぎ去っていく電車に重ねていた。兄が東京へ行った日の事を。


 タイミングよくスマホのバイブ音が鳴り、ディスプレイの文字に頬が緩む。耳元に近づければ、優しい声がした。


 『遥、お疲れさま』

 「お疲れさま……蓮…………ありがとう……」

 

 響く声に柔らかく微笑むと、いつも分かれる坂道が視界に入る。


 「……あっ……」

 「あっ、見つかっちゃったな」


 私服姿の蓮が弓具を持って手を振っていた。


 「蓮、引いてたの?」

 「うん、遥が来るまでな。また明日も朝練するだろ?」

 「うん!」

 「また、じいちゃんの手伝いが入って悪いけど…」

 「ううん、カズじいちゃんの射、楽しみだよ!」

 「そう?」

 「うん、それに……一緒にいられるから……」


 上気する頬に釣られ、蓮も色づく。照れくさそうに笑い合って、触れ合った手が離れていった。


 「ーーーーまた明日な」

 「うん……また、明日ね」


 手を振り合うと、背中に向かって微笑んだ。


 ーーーーーーーーうん…………大丈夫。


 心の中で反芻させ、心待ちにしていた。あの日の射を想い浮かべながら。

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