3
夜明け前。
王宮の最も高い塔にある王太子の寝室には、かすかな月明かりだけが差し込んでいた。
シルヴィウスはベッドに横たわり、深い眠りについていた。近頃はことのほか疲れがたまっていたせいか、普段ならわずかな物音にも目を覚ます彼が、人の気配にすら気づかずにいた。
「ふふふ……。精霊王の権能というものは、想像以上に便利ですわね!こんなにも簡単に入り込めるなんて!」
「私の権能をそのようなことに使うな」
エレオノーラはゆっくりとベッドのそばへ歩み寄り、眠っているシルヴィウスを見下ろした。
「すっかり夢の中ですわね。まあ、おかげで手間が省けますけれど、何だか腹立たしいですわね。少々失礼いたします」
エレオノーラはためらうことなく袖の中から縄を取り出した。そして、ベッドに横たわるシルヴィウスの両手首を、きつく、それはもうきつく縛り上げた。
「う……」
ようやく人の気配を感じ取ったのか、シルヴィウスは眉間にしわを寄せ、ゆっくりと目を開けた。
視界に真っ先に飛び込んできたのは、暗闇の中から自分を見下ろす女の顔だった。
「……は?」
シルヴィウスは身を起こそうとしたが、両手首は固く縛られており、さらに誰かが自分の上にまたがっているせいで身動きが取れない。
「……エリー!?」
「お久しぶりですわね、殿下」
「き、君……!一体どうやってここに……!」
「そんなことはどうでもよろしいのですわ!」
シルヴィウスは歯を食いしばり、手首を縛る縄をほどこうともがいた。しかし、動けば動くほど、かえって縄が手首に食い込むばかりだった。
「君は一体、何をするつもりだ?」
「!だ、誰だ!?」
突然、エレオノーラの背後に緑色の光とともに男の姿が現れた。シルヴィウスは警戒の色をあらわにし、声を上げた。
宙に浮かぶ銀髪の男――精霊王は舌打ちし、呆れた眼差しでエレオノーラを見下ろしていた。
「精霊王様ですわ」
「……せ、精霊王!?」
シルヴィウスの目が大きく見開かれた。
悠然と宙に浮かぶその存在が放つ神々しさと圧倒的な魔力は、偽物だと否定しようのないほど明白だった。だが、その威厳に満ちた精霊王は、まるでひどく厄介な問題を押しつけられた者のように目元をしかめ、エレオノーラを見つめていた。
「私の質問に答えろ。一体、縛り上げて何をするつもりだ?」
「何をするかですって?夜中にこっそり忍び込んで、相手を縄で縛り上げ、身動きを封じたあとにすることなど、一つしかないではありませんか!誘惑しているのですわ!」
「……は?」
「……え?」
「あの女はあらゆる男性に媚を売り、心をつかんで自分の味方につけていたのでしょう? でしたら、わたくしにできない理由などありませんわよね?」
「何を言い出すのかと思えば……」
精霊王は心底うんざりした様子で片手で顔を覆った。シルヴィウスもまた、呆れたように乾いた笑いを漏らした。
「とにかく!男性を誘惑するには、身体を使うのが一番だとどこかで聞きましたの!
あらゆる面で、あの平たい女よりもわたくしのほうが優れていると証明して差し上げますわ!覚悟なさいませ!」
「エリー、ちょっ……!」
エレオノーラはそのままシルヴィウスの胸元を押さえつけ、顔を近づけた。
ところが、思わずぎゅっと目を閉じたシルヴィウスは、数秒経っても何の反応もないことに気づき、そっと目を開けた。
エレオノーラはシルヴィウスの胸に手を置いたまま、まるで彫像のように硬直していた。
月明かりに照らされた彼女の顔は、頬どころか首筋から耳元に至るまで真っ赤に染まっており、シルヴィウスの服をつかんだ手は小刻みに震えていた。
「……」
「……」
「な、何ですの、お二人とも!どうしてそんな目でわたくしを見るのですか!」
二人の男は、示し合わせたかのように同時にため息をついた。
「エリー、君は婚約者である私の手さえ、まともに握ったことがないじゃないか」
「握ったことはありますわ! 舞踏会で殿下と踊るたびに握っておりますもの!」
シルヴィウスは言葉を失ったようにエレオノーラをぼんやりと見つめたあと、とうとう吹き出した。
「わ、笑わないでくださいませ!」
「はいはい。とりあえず、これをほどいてくれないか? 逃げたりはしないから」
「……誘惑に屈したとお認めになるのでしたら、ほどいて差し上げますわ」
「それなら、屈したということにしておこう。だから、まずはほどいてくれ」
「あら!思ったより簡単な殿方でしたのね!」
エレオノーラは得意げに笑い、シルヴィウスの手首を縛っていた縄をほどいた。
自由になったシルヴィウスは手首をさすりながら上半身を起こすと、ベッドのそばに浮かぶ精霊王を一度見やり、それから自分を見下ろすエレオノーラへと視線を移した。
「それで、説明してくれるかい?」
「もちろんですわ!わたくしが王宮に召喚されたとき、殿下はいらっしゃいませんでしたから……。わたくしが追放されることになっていたのはご存じでしょう? わたくしたちの婚約が破棄されたことも」
「ああ。君を閉じ込めておいたところ、窓を壊して脱走したと大騒ぎになっていたよ」
シルヴィウスはわずかに表情を曇らせ、それから話を続けた。
「私としても、到底信じられなかった。君が毒殺未遂を起こしただなんて、あり得ないからね。だが、現場で見つかった証拠に、君の侍女たちの証言、それにマリーの発言が、どういうわけか心に引っかかっていて……。それに、王宮の中の雰囲気まで、どこかおかしな方向へ流されているように感じていたんだ」
「ふむ。少し失礼する」
精霊王はシルヴィウスの顔をしばらく見つめたあと、ゆっくりと手を伸ばした。
その指先からかすかな緑色の光が流れ出し、シルヴィウスの額を包み込む。
「やはりな」
「何かわかりましたの?」
精霊王はシルヴィウスの額から手を離し、うなずいた。
「精神に微弱な干渉の痕跡が残っている。記憶そのものを書き換えたというよりは、特定の出来事を思い出しにくくし、それにまつわる感情の向きを少しずつ歪めていたようだ」
「感情を……」
「時には、記憶そのものを書き換えるよりも、はるかに効果的なのかもしれんな」
マリーは人々の記憶を完全に書き換えることはできない。その代わり、自分に不都合な記憶を思い出しにくくし、その出来事に対して抱いた感情までも微妙に変えてしまうことができたのだ。
エレオノーラがマリーの無礼な振る舞いをたしなめた場面を思い出そうとしても、シルヴィウスの頭に浮かぶのは、エレオノーラの鋭い口調とマリーの涙ばかりだった。肝心の、マリーが婚約者のいる男性に度を越して近づいていたという事実は、なかなか思い出せない。
自分の目で見た出来事も、自ら経験したことさえも、正しく判断できなくなってしまう。
目の前で起きたことは覚えている。それなのに、その出来事がなぜ起きたのかという判断だけが、マリーに都合のいい方向へと傾いてしまうのだった。
「その力は本来、相手の不安や苦痛を和らげるためのものだ。時には、つらい記憶を一時的に覆い隠し、心が落ち着きを取り戻すまで待つことも、癒やしの一つの形だからな。マリーはその力を逆手に取ったのだ」
「なるほど……。だから殿下やほかの方々のように、最初は警戒していた方々まで、いつの間にかマリーをかばうようになっていたのですね。彼女を疑うきっかけとなった記憶や感情が、少しずつ薄れていったということですか」
「本来なら、その程度の干渉は時間が経てば自然と弱まっていくはずだ。だが、マリーは精霊たちの力を借りて、その干渉を長期間にわたって維持していたようだな」
「まったく、聖女という名が泣きますわね」
「それなら、これまで私が下してきた判断も……」
「完全に殿下ご自身の意思だけでなされたものではなかったのでしょうね。まあ、だからといって殿下の責任がなくなるわけではありませんけれど。いくら精神に干渉されていたとしても、殿下は一国の王太子でいらっしゃるのでしょう?もう少し慎重に事を進めていただきたかったですわね」
シルヴィウスはしばらく何も言えなかった。エレオノーラはそんな彼を見下ろしながら腕を組んだ。
「もちろん、殿下も被害者であることは承知しておりますわ。わたくしが殿下の一言一句に傷つくようなか弱い令嬢ではなかったことに、感謝なさるとよろしいですわね」
「……そんなことを言いながら、ずいぶん怒っているようだけれど」
「当然ですわ!今だって腹を立てておりますもの!毒殺未遂犯だなんて!毒など使うよりも、燭台で殴りつけたほうがよほど確実ですわ!わたくしはまだ殿下を許しておりません!
ですから、この件を解決するために協力していただきますわ!」
エレオノーラの堂々たる宣言に、シルヴィウスはしばらく口を閉ざした。だが、やがて小さく笑うと、うなずいた。
「わかった。君の望むとおり協力しよう。そもそも、私もこのまま済ませるつもりはなかったからね」
「よろしいですわ! お待ちなさい、マリー。あなたがそれほど誇らしげに掲げていた聖女という名が、どれほど重いものなのか、このわたくしが思い知らせて差し上げますわ!」
******
建国記念祭は、王国で最も盛大な催しの一つだった。
王族や貴族はもちろん、各地から集まった平民たちまでもが王都に押し寄せ、祭りを楽しんでいた。
王国の建国を祝う日とあって、王室は毎年盛大な催しを開いており、聖女もまた、その祭典に欠かせない存在だった。
聖女は祭りの始まりを告げる記念の儀式で精霊たちから祝福を受け、王国の安寧を願う祈りを捧げる。その光景を一目見ようと、王都に集まる人々も少なくなかった。
「聖女様!こちらを向いてください!」
「どうか私たちにも祝福をお授けください!」
広場に集まった人々が歓声を上げる。
純白の衣に金糸で刺繍を施した聖女の礼装を身にまとったマリーは、晴れやかな笑顔で人々に手を振っていた。
『ああ、完璧だわ!』
ここに集まった人々は、皆、自分を愛している。
貴族も、平民も、王族も。
自分に向かって微笑み、自分の名を呼び、祝福を求めている。
『エレオノーラだか何だか知らないけれど、一番目障りだったあの女……。まだ見つかっていないみたいだけど、まあ、育ちのいいお嬢様がどれだけ足掻いたところで大したことはできないでしょうね。もしかしたら、もう死んでいるかもしれないし……。ふふ!』
マリーの口元が、愉快そうに吊り上がった。
王宮から脱走したあと、消息を絶ったというエレオノーラ。
あの高慢な公爵令嬢が森をさまよい、猛獣に食い殺されようが、飢え死にしようが、今となってはマリーにとってどうでもいいことだった。
記念の儀式が始まる時刻となり、シルヴィウスが彼女のそばへ歩み寄って手を差し出した。
「マリー、準備はいいかい?」
「はい、殿下。もちろんです」
広場の中央に設けられた祭壇には、王国の建国を記念する巨大な水晶が置かれていた。
聖女が精霊たちに祝福を願うと、水晶が光を放ち、その光に応えるように数多くの精霊たちが姿を現す。それが伝統的な儀式だった。
マリーは祭壇の前に立ち、両手を合わせた。
指先に力を込め、心の中で精霊たちに呼びかける。すると、小さな光が一つ、また一つと集まってきた。マリーは、かつて目にしたその光景を思い浮かべた。自分の周りを飛び回りながら祝福をささやく精霊たちの姿は、いつ見ても美しかった。
しかし。
「あ、あれ……?」
マリーはもう一度目を閉じた。いつものように心を落ち着かせ、精霊たちに語りかける。自分のそばを飛び回っていた小さな光を思い浮かべながら、そっと手を伸ばした。
「な、何なの……? どうして……!?」
だが、返ってきたのは沈黙だけだった。
祭壇の上の水晶は、相変わらず何の光も放っていない。
周囲を飛び回っていた小さな光も、耳元でささやいていた精霊たちの声も、どこにも見当たらなかった。
『どうして? どうして誰も答えてくれないの!?』
「マリー? どうしたんだい? そろそろ儀式を始めなければならないだろう」
シルヴィウスが低い声で促した。しかし、マリーは答えることができなかった。
「こんなはずないのに……! どうして、どうして……!」
「あら。何か問題でもございましたの?」
マリーの背後から聞こえてきた声に、彼女の肩が大きく跳ねた。
ゆっくりと振り返った先には、いるはずのない女が立っていた。
「エ、エレオノーラ……!?」
「人の名を呼び捨てにするなんて、相変わらず礼儀を知らない方ですわね」
マリーとよく似た純白のドレスを身にまとった彼女は、マリーのような清楚さとは程遠いものの、その堂々とした姿はこの上なく美しかった。
マリーは反射的にシルヴィウスを見た。
「殿下!どうしてあの女がここにいるのですか? 警備兵たちは一体何をしているのです!?」
「落ち着きなさい、マリー。国王陛下が彼女の参加をお認めになった」
「どうして……!エレオノーラ様は罪人でしょう!?」
「その容疑については、殿下の説得によって再調査が行われることになりましたの。ですから、わたくしはもう罪人ではありません。国民の一人として建国記念祭に参加することにも、何の問題もございませんわ」
満面の笑みを浮かべ、エレオノーラはそう告げた。
彼女の周囲には、小さな光が集まり始めていた。手のひらほどの光の塊が、まるで彼女を歓迎するかのように、その周りを飛び回っている。
「どうして精霊たちが……! あなた、あなたが何かしたんでしょう!?」
マリーはエレオノーラに向かって叫んだ。いつもの優しく穏やかな態度は、どこにもなかった。目の前の女に対するあからさまな敵意と動揺が、その顔にありありと浮かんでいた。
「あら。何をおっしゃっているのか、よくわかりませんわね。わたくしはただ、精霊たちにご挨拶しただけですもの」
「嘘よ!精霊たちに何をしたの!?どうして私には反応してくれないのよ!」
「わたくしは、あなたがしてきたことの結果をお見せしただけですわ」
「何を……!」
「あなたは人々の心を癒やす力を持っていたのでしょう?つらい記憶を一時的に覆い隠し、不安な心を落ち着かせ、傷ついた人々に再び立ち上がる勇気を与える力。精霊たちはその力を通じて人々を助けようと、あなたに自らの権能を貸し与えたのです。それなのに、あなたはその力で何をなさったのですか?」
エレオノーラの声が、一段と冷たくなった。
「自分に都合の悪い記憶や感情に干渉し、挙げ句の果てには、何の罪もない人に罪を着せるために使ったのでしょう。自分を疑う者が疑念を抱けなくなるように仕向け、自分の嘘を信じ込ませながら」
「そんなことしていないわ!」
マリーは激しく首を横に振った。いつもなら真っ先に涙を浮かべていた瞳には、動揺と焦りが満ちていた。
「そんなことしていない!私はただ、人々が苦しむ姿を見たくなかっただけよ!みんな私のせいで怒ったり、私を疑ったり、憎んだりするでしょう。私はただ、そんな気持ちを少し楽にしてあげただけなの!」
「実に都合のよい言い訳ですわね。あなたの能力は人の心を癒やすものであって、自分の気に入らない相手の感情を勝手に消し去るものではありません。誰かがあなたに怒りを覚えたのなら、まずはそうするだけの理由があるのかを振り返るべきですし、誰かがあなたを疑うのなら、その疑いが正当なものかどうかを確かめるべきでしょう」
エレオノーラの言葉に反論したかったが、マリーは軽々しく口を開くことができなかった。
何を言ったところで、自分に不利な方向へ話が進んでしまいそうだった。
普段なら、このあたりで涙を流していたはずだ。
自分がどれほど理不尽な目に遭い、どれほど傷ついたのかを訴えていたことだろう。そうすれば周囲の人々は彼女を慰め、エレオノーラを非難したはずだった。
しかし、精霊の力を使えない今、それすらもできなかった。
「精霊たちは人間とは違います。人間のように善悪を複雑に見分けることはできませんし、他人の心に隠された意図まで読み取れる存在でもありません。ですから、あなたが誰かの怒りを消し去れば、精霊たちはそれを傷ついた心を癒やしたのだと思ったのでしょう。あなたのせいで婚約者に去られた令嬢が悲しみに暮れていれば、その悲しみを和らげることこそ善行だと考えたはずです。だからこそ、精霊たちは喜んであなたに従っていたのです。あなたの善意を信じて」
エレオノーラは扇を広げ、言葉を続けた。
「あなたは他人の苦しみを癒やしたのではありません。その人たちから、あなたを恨む機会さえ奪っただけですわ」
「くっ……!違う!私はそんなことしていない!証拠でもあるの!?」
「このわたくしが、証拠もなしに騒ぎ立てるはずがないでしょう?」
エレオノーラが手を掲げると、広場の中央に置かれた水晶がかすかに光り始めた。その光はやがて無数の小さな粒子となって散らばり、広場のあちこちへと広がっていく。人々の頭上や肩、指先に、緑色の光が降り注いだ。
「ここに集まっている方々のうち、かなりの人数が聖女の権能の影響を受けていたようですわ。たった今、その干渉を取り除きました。これからは、ご自身の記憶をありのままに振り返ることができるでしょう」
「う、嘘よ……!どうしてあなたにそんな力が……!」
「この力を使えるようになるまで、ずいぶん苦労いたしましたわよ!」
マリーの顔から血の気が引いた。
広場に集まった人々は、一人、また一人と頭を抱えたり、信じられないといった様子で周囲を見回したりし始めた。長いあいだ、ぼんやりとした霧の中に閉じ込められていた頭の中が、急にはっきりと晴れていくような感覚だった。
「待って、私はどうして……?」
「そういえば、あのときのことも……」
「ああ……!」
広場のあちこちから、嘆きや悲鳴が上がった。
「いかがです?十分な証拠になるでしょう?もちろん、ほかにも証拠はいくらでもありますわ!あなたに対する調査は、すでに始まっておりますもの!」
「違う……!違うわ……!」
マリーはその場に座り込み、エレオノーラを見上げた。
「これでもう、精霊の力は使えないでしょうね」
「嫌!嫌あ!返して!私の力を返してよ……!」
「これはあなたの力ではありませんわ。精霊たちがあなたを信じて貸し与えていた力です。そして、あなたはその信頼を裏切った。自業自得ですわね」
「あなた……!」
その瞳には、もはや聖女らしい優しさも、人々の同情を誘うか弱さも残っていなかった。
ただ、憎悪と怨嗟だけが満ちていた。
「よくも私にこんなことを……! あなたに何ができるっていうの!? いい家に生まれて、生まれたときから何もかも持っていたあなたが……!」
「あら。今さら身分を持ち出すのですか?平民出身だからという理由で、あなたを見下した覚えはありませんけれど」
「黙りなさい!わ、私はただ、愛されたかっただけなのに!」
マリーの絶叫が広場に響き渡った。
「私はただ、みんなに愛されたかっただけなの!聖女になる前は、誰も私を振り向いてくれなかった!平民だからと見下されて、貧しいからと蔑まれて、何の能力も才能もなかった私が何を言ったところで、誰もまともに聞いてくれなかったのよ!」
彼女は震える手で自分の胸元をつかんだ。
「でも、精霊王様に選ばれてから、何もかもが変わったの!みんなが私を敬い、優しくしてくれて、私が笑うだけで喜んでくれた! それがどれほど嬉しかったかわかる!?もう二度と、あの頃には戻りたくないのよ!」
「想像していた以上に馬鹿な方でしたのね」
「何ですって!?」
「愛されたいと言いながら、自分から愛を踏みにじっていたのではありませんか!あなたに親切にしてくれた人たちが、全員、あなたが聖女だからという理由だけでそうしていたとでも思っているのですか? まさか!」
「黙れ!あなたに何がわかるっていうの!」
「何がわかるか、ですって? 愛されたいと言いながら、愛されるに値する行いを一つもしなかったということくらいは存じておりますわ」
「黙れと言っているでしょう!」
「あなたは、自分を見下していた人たちに認めてもらいたかったのでしょうね。けれど、その過程で、あなたを心から心配してくれた人たちまで、ことごとく踏みにじったではありませんか」
「私は、私は……」
「ちなみに、わたくしを嫌っている人間は五万人ほどおりますわ!ですが、だからといって、その人たちの記憶を消したり、婚約者を奪ったり、毒殺犯に仕立て上げたりはいたしません!世の中にはわたくしを嫌う人もいれば、好いてくださる人もいるものです。それが当たり前ではありませんか? もちろん、わたくしに無礼を働くようなら、地の果てまで追いかけてきっちりお返しして差し上げますけれど! さあ、それでは殿下」
「聖女マリーを確保しろ!」
騎士たちが近づいてくると、マリーは必死に首を横に振った。
「嫌!嫌よ!私は聖女なの! 精霊王様に選ばれた聖女なのよ!」
「過去形ですけれどね!」
「エレオノーラあああ!」
マリーは最後まで彼女を睨みつけていたが、とうとう騎士たちに両腕をつかまれ、そのまま連行されていった。
******
今回の建国記念祭は、王国の歴史上、類を見ない騒動として記録されることとなった。
聖女の権能が悪用されていた事実が明らかになったうえ、その聖女の力までもが失われてしまったのだから、当然のことだった。
さらに、これまでマリーの権能の影響を受けていた人々の記憶が戻ったことで、彼女が犯してきた悪事は次々と明るみに出た。
婚約者のいる貴族の男性たちを誘惑するだけでなく、思いどおりにならなければ婚約を破棄するよう仕向けることもためらわなかった。自分に協力しない貴族の罪を誇張したり、聖女の権威を利用して地方領主たちに不当な献上品を要求したりした事件まであった。
「想像以上のクズでしたわね」
エレオノーラに着せられていた毒殺未遂と窃盗の嫌疑も、マリーが自ら仕組んだことだったと判明した。
彼女の屋敷に毒薬を密かに持ち込んだ者も、侍女たちに虚偽の証言をするよう圧力をかけた者も、全員がマリーの指示を受けていたと自白した。
脅迫に近い要求を突きつけられていたにもかかわらず、彼女に対して敵意すら抱かなかったというのだから、実に恐ろしい能力である。
「国王陛下にまで能力を使っていたのですから、本来なら死刑になってもおかしくない重罪ですが……。寛大な処置を願い出た、この『聖女』エレオノーラの慈悲によって、極刑は免じて差し上げますわ!」
エレオノーラの名誉も回復された。王室は正式にアルジェント公爵家へ謝罪と賠償金を届け、エレオノーラは正式に聖女となった。
「牢獄でしっかり反省なさいませ!牢獄では特別な労役が待っておりますわ!釈放後は一日二十時間、みっちり教育を施したうえで、わたくしの専属侍女として使って差し上げます!もちろん、お給金は被害者の方々への慰謝料として全額回収いたしますけれど!おほほほ!一体何年かかるのか、楽しみですわね!」
「そばに置いて、直接いびるつもりだろう?」
「とんでもない女だな」
「お黙りなさいませ。原因を作った張本人と、元凶が」
エレオノーラの望んでいた復讐は、見事に成功した。
マリーは聖女の地位を失い、彼女に翻弄されていた人々は少しずつ正気を取り戻し、王国もようやく過ちを正し始めた。
マリーの能力と王室からの圧力があったとはいえ、自分を弁護してくれなかった父親にも一泡吹かせてやった。
一週間も口を利かなかったのだから、もう十分だろう。
「彼女のせいで婚約を破棄した方々の中には、すでに関係を修復された方もかなりいらっしゃるようですわね。皆が元どおりになれるわけではありませんが、これは良い兆しですわ」
「そうだね……。それで、エリー」
「はい?」
「私たちの婚約も、元どおりにできるんじゃないかな?」
シルヴィウスは静かにエレオノーラの目を見つめ、真剣な声で言葉を続けた。
「そもそも婚約破棄は私の意思ではなく、国王陛下が下された決定だった。そして今は君の嫌疑も晴れたのだから、もう一度婚約することに何の問題もないはずだ」
シルヴィウスは慎重にエレオノーラの表情をうかがった。かつては当たり前のことだと思っていた婚約だが、今になってその関係を取り戻すことがどれほど難しいか、彼自身もよく理解していた。
「もちろん、私は一度君の信頼を裏切ってしまった。そのことは深く反省している。だから、君が望まないのなら無理強いするつもりはないけれど」
「あら。それについては少し考えさせていただきますわ。少なくとも、以前のように当然わたくしの隣にいられると思わないことですわね!」
「そう言うと思っていたよ」
「わたくしのことをよくご存じですのね。ですが、勘違いなさらないでくださいませ。わたくしが殿下を再び受け入れるかどうかは、すべてわたくしの気持ち次第ですわ。これからの言動を見極めたうえで、決めさせていただきます!」
「それなら、まだ望みはあるということで?」
「さあ、どうでしょう? 少なくとも今は、そういうことにしておきましょうか」
エレオノーラは扇を広げて口元を隠した。いつもと変わらぬ余裕のある笑みを浮かべていたが、扇の向こうにのぞく頬がほんの少し赤くなっていたことを、シルヴィウスは見逃さなかった。
「それはそうと」
それまで二人の会話を静かに聞いていた精霊王が口を開いた。
「エレオノーラよ。今度、しばらく太古の森へ来てみないか?」
「太古の森へ、ですか? 何かご用でもおありなのですか?」
「礼を言いたいのだ。そなたがいなければ、今回の件はさらに大きな混乱を招いていただろう。聖女の権能が悪用されていると気づいていながら、私はそれを正すことができなかった。その責任は私にもある」
「あら。精霊王様がわたくしにお礼を言ってくださるだなんて、光栄ですわね」
「なぜか精霊たちもそなたを気に入っているようだ。これからも時折、森を訪れてくれるといい。そなたが来れば、精霊たちも喜ぶだろう」
「精霊王様がそこまでおっしゃるのでしたら、喜んでお訪ねいたしますわ。ふふ、どうやら精霊たちにもわたくしの魅力が通じているようですわね!」
まるで当然のことだと言わんばかりにエレオノーラが笑うと、精霊王は仕方がないとでもいうように、かすかに微笑んだ。
「そなたは本当に変わらぬな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「褒め言葉というより、感心しているのだ。そなたのように自分自身への確信に満ちた人間は、そうそう見られるものではないからな」
「ふふ。当然のことをおっしゃいますのね。このエレオノーラが自分を信じなければ、一体誰がわたくしを信じてくださるというのです?」
「ならば、これからもその自信を失わぬようにしなければな」
精霊王はそう言って、エレオノーラの手の上にそっと指先を重ねた。
その指先からほのかな光が生まれ、彼女の手のひらに小さな花が一輪舞い降りた。花びらは透き通った硝子のように澄んでおり、中心では小さな光が蛍のように瞬いていた。
「太古の森に咲く花だ。精霊たちが、そなたに贈りたいと言っていた」
「まあ……!」
エレオノーラは花を受け取り、目を輝かせた。すぐにいつもの余裕ある笑みを取り戻そうとしたものの、思いがけない贈り物に気分をよくしていることまでは隠しきれなかった。
「気に入ったのなら何よりだ」
「もちろんですわ! 精霊たちにも、わたくしからの感謝をお伝えくださいませ」
「そういえば、庭園にも花がたくさん咲いているんだ。一緒に見に行かないか、エリー?」
「そうですわね。王宮の庭園も素晴らしいですもの。喜んでご一緒いたしますわ」
「太古の森も素晴らしいのではないか?」
精霊王が不意に口を挟んだ。
「王宮の庭園とは比べものにならぬほど美しい花々が咲いている。そなたが気に入りそうな場所も、いくつか知っている」
「わざわざ遠くまで行かなくてもいいんじゃないかな?君の好きな薔薇も、もうすぐ咲き始めるはずだよ」
「そうですわね。やはり薔薇なら王宮の庭園が一番美しいですもの」
「太古の森には、この世に存在しない花もある」
「……それも少し気になりますわね」
二人の会話がだんだんと妙な方向へ進んでいくのを聞き、エレオノーラは扇を閉じて小さく笑った。
「お二人がこれほど花をお好きだとは存じませんでしたわ! どちらにも行ってみたいですし、ゆっくり見て回ることにいたしましょう!では、本日はマリー嬢の労役を監督しなければなりませんので、わたくしはこれで失礼いたしますわ!」
「……労役の監督?君が直接?」
「そうですわ。被害者の方々に支払う慰謝料を用意するためには、牢獄でも怠けているわけにはまいりませんでしょう?あの女の末路を、この目にしっかりと焼きつけておかなければなりませんもの!怠けるたびに労働時間を三時間追加ですわ!おほほほ!」
エレオノーラはドレスの裾を翻し、そのまま牢獄へと向かっていった。
残された二人は、ただ呆然とその後ろ姿を見送るばかりだった。
エレオノーラの高慢で勝ち誇った笑い声が、王宮の廊下いっぱいに響き渡る。
「ふふふ!さあ、お待ちなさい、マリー!今日からあなたの新しい人生が始まるのですから!」
そうして堂々と笑いながら歩いていく彼女の手には、精霊たちから贈られた小さな花が握られていた。花びらの間で瞬く光は、まるで彼女の未来を祝福するかのように揺らめいていた。
―あの平民の女ごときにできたことが、このわたくしにできないはずがなかった。




