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序幕 『恩人の墓』

「ああ。ようやくあなたに御礼が言える時が来たのね」


 82歳となったターニャは墓石はかいしの前に立つと、まだまだ頑健な腰をかがめて花をそなえた。

 かつてこの墓石はかいしの主と共に短い間暮らした家にいつもかざられていたカモミールの花だ。

 冬は厳しい寒さが続く北方の国ノーザリオンにもうららかな春が訪れている。

 老いたターニャがかつては敵国だったこの地を訪れたのは、恩人に礼を言うためだった。


 その恩人はすでにはかの下にいる。

 そのことはおどろかなかった。

 ターニャとて年を取ったのだ。

 だが、墓石はかいしに刻まれた故人の没年月日を見てターニャは思わずその目に悲しみの色を浮かべた。


「そう……あなたはとうの昔に……」


 この恩人がいなければ彼女もはるか昔にこの世を去っていたかもしれない。

 ターニャが祖国で結婚し、子を産み、さらに多くの孫たちに囲まれておだやかにこの年齢まで生きてこられたのは、すべてあの日に恩人によって命を救われたからだ。

 墓石はかいしに刻まれた男の名をターニャは目を細めて見つめた。


「私はあなたに救われた……でもあなたは誰にも救われなかったの?」


 ターニャはその手で冷たい墓石はかいしにそっと触れた。

 その冷たい感触が彼女にかつてこの国で経験した忘れられない出来事を思い起こさせるのだった。

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