第50話 お耳が少しだけ、ぴくぴく動いてますもん
帝都を震撼させたネイス・ネヴァランの逮捕から、一週間の月日が流れた。
あの日、アーベルット邸で暴かれた罪状は、氷山の一角に過ぎなかった。
ネイスの拠点や商会の帳簿からは、吐き気を催すような凄惨な証拠が次々と発掘されている。貧民街での大規模な人身売買、そして伝説の炎神『イフリート』に憑依された者の末裔――その血を引く少女たちを拉致し、生きたまま魔力を絞り出す非道な人体実験。抽出された魔力は、禁忌の霊薬『純血の雫』となり、骨は呪われた魔剣の材料として、裏社会の深淵へと流れていた。
さらに、テトラの父であるアドラス・アーベルット伯爵を殺害した実行犯も、ネイスがハンター協会に隠れて契約を交わしていた特級悪魔であったことが、自供と物証によって確定した。テトラの信頼を逆手に取り、肉親を殺めてその地位を奪おうとしたその狡猾な野心は、帝都貴族社会の面汚しとして厳しく指弾されている。
そんな騒乱の中心にいたリアムたちは今、嵐の後の凪のような、穏やかな数日を過ごしていた。
「――ねえ、リアム。このソファ、いつ座っても最高に沈み込みが良くて気に入ったわ。もういっそのこと、ここに私の私物を持ち込んでもいいかしら?」
リアムの事務所の片隅、使い込まれた革張りのソファに深く腰掛け、ジレッタがくつろいだ声を上げる。彼女はすっかりこの場所が放つ特有の安らぎが気に入ったようで、ここ数日は朝から晩まで入り浸っていた。
「勘弁してくださいよ。ここは一応ハンターの事務所であって、ジレッタさんの別荘じゃないんですからね。……まあ、お茶を淹れる手間が増えるくらいなら、別に構わないですけど」
リアムは呆れ顔で書類に目を落としながらも、言葉とは裏腹に、三つ並んだティーカップの一つにルナが用意してくれた熱い湯を注ぐ。立ち上る湯気が、彼の無愛想な横顔を優しく包んだ。
「ジレッタさん、ジレッタさん! このお菓子、とっても美味しいですよ。一緒に食べましょう!」
ルナが瞳を輝かせ、皿に乗った香ばしい焼き菓子を抱えてジレッタの膝元へ駆け寄る。
あの日、死の深淵からリアムの魂を救い出した少女は、ジレッタという『頼れる姉』のような存在が常に傍にいてくれることに、この上ない喜びを感じているようだった。
「あら、ありがとうルナ。本当に貴女はいい子ね。どこかの無愛想な相棒とは大違いだわ」
「えへへ、リアムさまも本当は嬉しいんですよ。お耳が少しだけ、ぴくぴく動いてますもん」
「……動いてまーせーん! ルナ、余計なことを言わないの。ほら、口を動かすなら菓子だけにしておけ」
そんな他愛もない会話が、昼下がりの柔らかな陽光が差し込む室内に溶けていく。窓の外では、冬の訪れを予感させる冷たい北風が街路樹を揺らしていたが、この小さな事務所の中だけは、薪ストーブの爆ぜる音と紅茶の芳醇な香りが、確かな安らぎを演出していた。
だが、その穏やかな空気の底に、リアムは消えない澱のような違和感を抱き続けていた。
――バビロが、消えた。
ネイスが逮捕されたあの日以来、あの老執事の姿を街で見かけた者は一人もいない。テトラの屋敷でも、まるで最初から存在しなかったかのように、彼の身の回りの品は綺麗に片付けられていた。
唯一残されていたのは、テトラの寝室の机の上に置かれた、一枚の書き置きだけだった。
『親愛なるテトラ様へ。 貴女はあの日、ご自身の足で絶望の淵から立ち上がりました。その瞳に宿る真の強さと、貴女を支える至高の友がいれば、もはや老いた執事が手を引く必要はないでしょう。 アドラス様との約束――貴女を見守り導くという役目は、今この瞬間をもって完遂されました。 短くも長き月日、この無能な老骨を傍に置いてくださったこと、心より感謝申し上げます。 どうか、貴女だけの光り輝く未来を歩まれますよう』
テトラはその手紙を抱きしめ、何度も涙を流したという。彼女にとっては、父の遺志を継ぎ、自分を自立させてくれた恩人の、美しき勇退の言葉だった。
しかし、リアムの疑念は一向に晴れない。
(バビロさんの、死神の大鎌を容易く弾き飛ばしたあの剣技。そして特級悪魔を前にしての、あの異常なまでの冷静さ。すべてを見透かしているかのような介入のタイミング……。すべてが何かに繋がりそうで、決定的な核心に届かない)
バビロは、意図的に自分たちをネイスの悪行へと導いた。まるで、リアムが『鞘の封印』を解く瞬間を、その手で見届けるために舞台を整えていたかのように。
それはすべてを計算し尽くし、自身の描いた脚本をなぞるようにイレギュラーを排除する、盤上ではなく『盤外』から世界を俯瞰している者の立ち振る舞いに思えてならなかった。
「リアム? また難しい顔をして。せっかくの紅茶が冷めるわよ」
ジレッタが小首を傾げて覗き込んでくる。リアムは小さく首を振り、手元のカップを手に取った。
「……いえ、何でもないですよ。ただ、少し考え事をしていただけです」
「バビロさんのことでしょ? 貴方のことだから」
ジレッタは見透かしたように微笑む。彼女もまた、あの老人の正体には拭い去れない不審を感じていた。元ハンターランク二位という肩書きだけでは、到底説明のつかない『格』をあの男に見ていた。だが、今の彼女は、それを追及することよりも、この平穏な時間を守ることを選んでいるようだった。
「いいじゃない。結果としてテトラさんは救われ、ネイスは捕まった。バビロさんが何を隠していようと、彼が私たちに牙を剥かなかったのは事実なんだから」
「……そうですね。今は、そう思っておくことにします」
リアムは窓の外、帝都の空を仰いだ。
ネイスが非道な実験の末、血眼になって集めていた『純血の雫』。その目的が、単なる富を築くためだったのか、それとももっと巨大な狂気の計画の一部だったのか。それを阻止させたバビロの真意はどこにあるのか。
そして、イフリート復活の真の主犯は誰なのか。消えたイフリートは今、いかなる闇に潜んでいるのか。
謎は解けぬまま、日々は無情にも、しかし優しく過ぎていく。
リアムは、腰にある再び重厚な鎖に繋がれた鞘――その奥に眠るアイテリエルの微かな気配を感じながら、静かに目を閉じた。
帝都の冬が、すぐそこまで来ている。
この束の間の平穏が、より深き闇への前触れでないことを願いながら、リアムは温かな紅茶を飲み干した。
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