第49話 美味しいもやし料理をルナが作ってあげますから
純白の光翼を背負ったリアムが踏み出した一歩は、もはや物理的な質量さえも凌駕し、重力そのものを従えていた。
彼の手にある純白の刀――かつての半身、アイテリエルの真なる霊威が宿った刃が、夜の闇を深く呼吸するように、静謐な鼓動を刻み、脈動している。
「特級悪魔の精神支配を……、あり得ん、そのような奇跡など断じて!」
ネイスが断末魔のごとき悲鳴を上げ、形振り構わず死神に命じた。
「そいつの首を斬り落とせ! 今すぐにだ!」
形勢の逆転を本能的に悟った死神は、その巨大な鎌に周囲の絶望と怨念を収束させ、空間ごとリアムを切り裂かんと横一閃に薙いだ。
粘りつくような漆黒の魔力が、地を呑み込む大津波となってリアムへ押し寄せる。
「――アイテリエル。力を」
リアムが静かに囁き、刀を真っ直ぐに正眼に構える。
次の瞬間、彼の背後にある光の翼が爆発的に広がり、邸宅の前は夜であることを忘れたかのような純白の輝きに呑み込まれた。
リアムの身体が、一筋の光子となって戦場を奔る。
死神の放った暗黒の奔流は、リアムの刃が触れた先から、春の日差しを浴びた残雪のように浄化され、跡形もなく霧散していく。死神が驚愕にその虚ろな眼窩を見開いた時には、既にリアムは懐へと潜り込んでいた。
「この刃は、お前に命を奪われた少女たちの、そして彼女たちを愛した人の、報われぬ祈りだ」
――刹那、世界から音が消えた。
リアムが刀を振り下ろすと、そこには剣筋さえ残らなかった。ただ、死神の巨躯を脳天から縦一文字に断つ『一条の光の道』が、天へと突き抜けただけだった。
一瞬の静寂の後、死神の身体の亀裂から眩い光が溢れ出す。
絶叫さえ許されぬまま、魂を刈り取る凶星であったはずの存在は、内側から浄化の炎に焼かれ、塵一つ残さず夜の空へと昇華されていった。
それはまさに、慈悲深き神罰にも似た、圧倒的な一撃。
支柱たる死神を失った反動で、ネイスが石畳に膝を突く。
「馬鹿な……! 特級悪魔が、僅か一撃だと……!? この私が……敗北するなど!」
狂乱に瞳を走らせたネイスは、震える手で懐から一瓶の小瓶を取り出した。中にはドロリとした禍々しい輝きを放つ『純血の雫』が、呪わしく揺れている。
「まだだ……これを飲めば、私は人間を超越する力を……!」
彼がその瓶を口に運ぼうとした刹那、背後から音もなく伸びた影が、その手首を鋼鉄のごとき冷徹さで掴み取った。
「――見苦しいですよ、ネイス様」
いつの間に移動したのか、バビロが氷の如き冷笑を浮かべて立っていた。彼は容赦のない力でネイスの手首を捻り上げ、小瓶を石畳に叩き落として粉砕する。
「貴様……離せ! 私は名誉貴族だぞ! 無礼を承知か!」
「いいえ。今の貴方は貴族でも、商会の主でもない。ただの唾棄すべき罪人です」
バビロがネイスの両腕を背後で拘束し、無様に地面へと這いつくばらせる。
そこへ、足元をふらつかせながらも、テトラが歩み寄った。彼女の瞳には、裏切られた深い悲しみと、それでも信じたかった一筋の情が綯い交ぜになって揺れている。
「ネイス様……。本当に、私を……そして亡き父を、一度でも心から案じてくださったことはなかったのですか……?」
震える声で絞り出すように問いかけるテトラに対し、ネイスは顔を上げ、地を這う者の醜い歪んだ笑みを漏らした。
「案じる? クハハ……。ああ、案じていたとも。お前という『資産』が、傷つかずに私の手元に転がり込むかどうかをな。……馬鹿な女だ。そんな安っぽい感傷に浸っているから、父親を殺されるのだよ」
バビロによって強制的に引き起こされたネイスの口から放たれたのは、毒液のような罵倒だった。テトラが息を呑み、絶望に瞳を曇らせたその時――。
鋭く風を切る音が響き、パァンッ、と乾いた衝撃音が夜の静寂を激しく破った。
無言で歩み出たジレッタが、全身のバネを乗せた渾身の力で、ネイスの頬を張り飛ばしたのだ。
ネイスの顔が大きく横に振れ、唇の端から鮮血が滴る。
「……二度と、その汚い口を彼女に向けないで」
ジレッタの声は、低く、重い。剣を振るう時よりも鋭利な殺意を含んだ怒りが宿っていた。ネイスは言葉を失い、ただ呆然と彼女を見上げることしかできなかった。
タイミングを合わせるように、貴族街の入り口から無数の重い軍靴の音が響き渡る。
バビロが密かに手配していたハンター協会の精鋭と、帝都軍の重装歩兵たちが邸宅を包囲し、一斉に突入してきた。
「ネイス・ネヴァラン。人身売買、及びアドラス・アーベルット伯爵暗殺の容疑で逮捕する!」
軍の指揮官の宣言と共に、ネイスは乱暴に引き立てられ、鉄格子の付いた護送車へと押し込まれていった。
◆◇◆◇◆◇
騒乱が去り、アーベルット邸の庭園には再び静寂が戻っていた。
厚い雲が晴れ、夜空には一点の曇りもない満月が、冷たくも優しい光を投げかけている。
リアムは覚醒の輝きを失い、いつもの黒い外套に身を包んでベンチに座っていた。その隣には、彼の手をしっかりと握りしめて離さないルナ、そして少し離れて、涙を拭ったテトラが立っている。
「リアムさん、ルナさん。……本当に、ありがとうございました。お二人がいなければ、私は今頃……」
テトラは深く頭を下げた。リアムは少し照れくさそうに後頭部を掻き、ルナは「えっへん」と誇らしげに胸を張る。
「お礼ならバビロさんに言ってください。彼が来なければ、俺は今頃、闇の迷宮から戻れていなかったんですから」
「ええ。そうですね。バビロはよくやってくれました。……それと、私、決めました。父が守ろうとしたこの家と、貧民街の救済……今度は私が、私の意志で守り抜いて見せます。もう、誰かの『人形』として踊らされるのは、これきりです」
月光に照らされたテトラの横顔には、かつての儚さは消え失せ、一人の当主としての確かな、揺るぎない強さが宿っていた。
リアムはそんな彼女を見て、穏やかに微笑む。
「きっと、今のテトラさんならできますよ」
そして、ふと、戦いの最中に感じた不可解な違和感を思い出した。
「……ところで、バビロさんは?」
リアムが周囲を見渡すが、そこには軍の兵士たちと、事後処理に追われる私兵しかいない。先ほどまでネイスの身柄を押さえていたはずの老執事の姿が、どこにも見当たらないのだ。
「あ、あれ……? バビロさん?」
リアムは立ち上がり、邸宅の方を鋭く睨んだ。
首謀者のネイスは捕まった。だが、彼が集めていた『純血の雫』の真の目的や、その背後にある巨大な全貌は、まだ何一つ解決してはいない。そして何より、バビロという男がなぜ、あれほどの力を隠し持ち、この絶好のタイミングで現れたのか。そしてなぜ、自分たちを誘導し、ネイスの件を解決へと仕向けたのか。
「バビロさん! まだ貴方に聞きたいことが……!」
リアムの呼びかけが、夜の庭園に虚しく響き渡る。
返ってきたのは、冬を間近に控えた風に揺れる木々の、寂しげなざわめきだけであった。
「……消えたわね」
ジレッタが剣を鞘に納めながら歩み寄る。その瞳にも、困惑の色が混じっていた。
「まるで私たちを、この唯一の結果へと導くためだけに現れたみたいね」
リアムは無言で、自身の腰にある、再び鎖に覆われた鞘を見つめた。
アイテリエルが遺した遠き光。ルナが繋ぎ止めてくれた、今ここにある温もり。
一つの凄惨な事件は幕を閉じたが、帝都の奥底で脈動する闇の鼓動は、まだ止まっていないことを、彼は肌を刺すような予感として感じ取っていた。
「リアムさま、帰りましょう? 美味しいもやし料理をルナが作ってあげますから」
ルナがぐいっとリアムの手を引く。リアムはふっと苦笑し、遠い月夜を見上げた。
「……ああ。帰ろう、ルナ」
銀色の月光の下、三人の影が長く、重なり合うように伸びていた。
それは、死神の不気味な影ではなく、明日へと歩みを進めるための、確かな希望の形をしていた。
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