第41話 大商人ネイス
帝都が薄明のヴェールに包まれ、難民保護区へと向かうリアムたちの足音が遠ざかっていた頃。
アーベルット家が誇る広大な屋敷――その豪奢な応接室には、帝都の繁栄を具現化したかのような一人の男が、優雅に腰を下ろしていた。
大商人、ネイス。
陽光を糸に紡いだような金の髪を完璧に整え、最高級の絹を用いた仕立ての良い衣服に身を包んだその姿は、非の打ち所がない。窓から差し込む斜陽を背に受け、穏やかな微笑を浮かべる彼は、あたかも神の後光を背負う聖者のようにさえ見えた。
「――お待たせして申し訳ありませんでした、テトラ様。本来であれば、万難を排してでも、もっと早くに駆けつけるべきだったのですが」
ネイスが伏せ目がちに、沈痛な色を滲ませた声で口を開く。その完璧に計算された誠実な態度を前にして、対面に座るテトラは疑う余地もなく、労わりの言葉を返した。
「いいえ、ネイス様。貴方こそ大変な時でしたのに……。『地獄の業火』さん、いえ、ミルド様のことは、本当になんと申し上げればよいか。私も、彼には父の件の調査で多大な尽力をいただいておりましたから」
「……弟も本望でしょう。少々荒っぽい性格ではありましたが、生前、貴女様のお力になれることを至上の誇りとしておりました。もっとも、あのイフリートの凶刃に倒れたと聞いた時は、私の心も千々に乱れましたが」
ネイスは深く、重苦しい溜息を吐き出す。
「貧民街の野蛮な大人相手に喧嘩を仕掛けては、たびたび勝利を収めるような姿に、私は類稀なる武の才を見出したのです。まっとうな生き方をしてほしいと願い、引き取って共に過ごした日々が、今となっては愛おしくてなりません」
彼の義弟であり、ハンターランク一千番台に名を連ねていた『地獄の業火』ことミルド。その正体は、かつてネイスが己の野望のために貧民街から拾い上げた孤児であった。
イフリート復活という巨大な悲劇の舞台裏で、正体不明の何者かによって露と消えたミルド。ネイスの情報網をもってしても、未だその犯人の実像を掴み損ねていると、彼からテトラは聞かされていた。
しかし、内側に渦巻く黒い思惑は仮面の下に固く隠し、今彼が見せているのは、肉親を失った悲しみに暮れる慈愛深き聖人君子の顔であった。
テトラの傍らに、影の如く控える老執事、バビロ。
彼は白手袋をはめた手を胸の前で厳かに組み、一分の隙もない姿勢でネイスの挙動を注視していた。銀縁眼鏡の奥に潜む双眸には、氷の刃を思わせる鋭利な警戒心が宿っている。
しかし、相手は帝都の経済を牛耳る屈指の実力者だ。ここで不用意な疑念を漏らせば、主君であるテトラの立場を危うくしかねない。バビロは、荒れ狂う殺気すら完璧に抑制し、ただの忠実な『家具』として、静謐な空間の中に溶け込んでいた。
「体調を崩して療養していた矢先に、まさか大切な弟まで失うとは思ってもみませんでした……。ですが、いつまでも悲しみに止まっているわけにはいきません。テトラ様、本日参ったのは他でもありません。お父上の暗殺事件に関する調査、このネイスが今後は責任を持って引き継がせていただきたいのです」
「……本当に、よろしいのですか?」
「もちろんです。テトラ様、貴女は我が国にとっても、そして何より私にとっても、守るべきかけがえのない光なのですから」
ネイスの奏でる甘く、それでいて力強い旋律のような言葉に、テトラは頬を微かに染めた。
彼女にとってネイスは、亡き父の代から懇意にしていた信頼に足るパートナーであり、同時に、一人の男性としての好感を抱かざるを得ない相手であったからだ。
事実、ネイスは近々、帝都への多大な献身が認められ、名誉貴族の爵位を賜る予定となっていた。そして、それが成った暁には、テトラの婚約者候補として正式に名乗りを上げるつもりであると、以前、二人きりの密やかな席で打ち明けられていたのである。
「ネイス様がお力添えをくださるなら、これほど心強いことはありません。……どうか、御自身のお身体も厭い、無理だけはなさらないでくださいね」
「勿体なきお言葉。……すべては、貴女様とアーベルット家の未来のために」
ネイスは椅子から立ち上がり、恭しく一礼する。その指先から爪先に至るまで洗練された所作の美しさに、テトラは安堵の溜息を漏らした。
しかし、彼女の視線が届かない深淵――ネイスの瞳の奥底には、黄金の輝きに似た、しかし酷く濁った欲望が澱のように渦巻いていた。
(――ああ、そうだ。すべては、この名門の、その美しい財産と貧民街における絶対的な支配権を我が掌中に収めるための布石に過ぎない)
かつて、貧民街の救済という、己の利益に反する事業に動き出していたテトラの父を暗殺させたのは誰か。
この屋敷に意図的な混乱を招き、保護者という名の支配者の席をあえて空けさせたのは誰か。
ネイスの指先が、膝の上で微かに震える。それは歓喜か、あるいは冷酷なまでの昂ぶりか。その指は既に、アーベルット家という巨大な獲物の喉元を確実に捉えていた。
テトラの純粋な好意も、バビロが放つ冷ややかな沈黙も、すべては彼の『計算盤』の上で弾き出される数字の一つでしかない。
「ネイス様。お話の途中で失礼いたします。そろそろ、テトラ様は次の御公務に向けた準備のお時間でございます」
バビロが、極寒の吹雪を思わせる冷徹な声で割って入った。ネイスは嫌な顔一つ見せず、柔らかな微笑を湛えたまま立ち上がる。
「これは失礼いたしました。テトラ様、本日はこれで。……明日は、例のハンター協会への寄付金の件で一度本部へ向かいます。何事もなければよいのですが」
「ええ、ネイス様。お気をつけて」
背中に温かな別れの言葉を浴びながら、ネイスは優雅に、しかし音もなく応接室を後にした。
廊下を歩く彼の背後には、テトラたちには決して視えない、巨大で不吉な影が付き従っている。大鎌を携えた死神の幻影が、楽しげにネイスの耳元で囁いた。
「……黄金の仮面は、まだ剥がれそうにないな」
独りごちたネイスの唇が、邪悪な歪みを帯びて吊り上がる。
リアムたちが着実に真実の尻尾を掴みつつあることなど露知らず、毒蛇は美しく装いながら、その獲物を締め殺すための牙を静かに研いでいた。
【登場人物】
■ネイス
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