第42話 はい。ルナも行きます。
翌朝、帝都の空気は前日にも増して鋭利な冷気を孕み、吐き出す息は真っ白な塊となって冬の虚空へ溶けていった。
リアムの事務所の前では、早朝からジレッタが独り、抜き放った魔剣を手に風を切っていた。鋭い剣風が石畳を覆う薄霜を乱暴に吹き飛ばし、舞い散る火花の如き霜の粒が彼女の頬を叩く。激しい修練の証か、寒風の中でも彼女の額には薄っすらと汗が滲んでいた。
そこへ、街の喧騒が始まる前の厳かな静寂を破るように、規則正しい革靴の音が近づいてきた。
「朝から熱心なことですね、ジレッタ様」
静かではあるが、深い淵に石を投げ込んだような響きを持つ声。ジレッタが動きを止めると、そこには一分の隙もない礼装に身を包んだ老執事、バビロが立っていた。銀縁眼鏡の奥の双眸は、依然として底が知れない。
「バビロさん……。こんなに早くに、どうしたの?」
「皆様へ昨今の調査状況を共有すべく参りました。中へよろしいでしょうか」
ジレッタは吸い込んだ冷気を吐き出し、魔剣を鞘に収めると、無言で頷いて彼を事務所内へと招き入れた。
事務所の扉を開くと、そこには既にルナが淹れたであろう香ばしい茶の香りが、温かな澱みとなって満ちていた。リアムはソファに深く腰掛け、湯気の立つ茶碗を手にぼんやりと窓外を眺めている。平和そのものの光景だが、その足元には昨日ハンター協会から持ち出した古びた資料や羊皮紙が、死骸のように散乱していた。
「おはようございます、バビロさん。……ルナー! もう一つお茶をおねがーい!」
リアムの気の抜けた呼びかけに、二階のキッチンから「はーい!」という鈴を転がすような元気な声が返ってくる。
四人が卓を囲み、茶の温もりが指先から芯へと伝わったところで、ジレッタが重い口を開いた。
「バビロさん、昨日の資料と難民保護区での調査結果よ。……私たちは確信したわ。大商人ネイスの背後には、特級に近い『死神』の姿をした悪魔がいる。十年前、彼はその悪魔と何らかの禁忌の契約を交わし、様々な人たちの死を代償に今の地位を築いたのよ。イフリートの復活にも深く関与しているわ。あの死神は、現場に居合わせていたのだから」
「……左様ですか。死神、そしてイフリート……。あの御仁は昨日、テトラ様の元へやってきました。何食わぬ顔で、慈悲深い保護者を装い、テトラ様を救いたいなどと……」
バビロは眼鏡を指先で押し上げ、瞳を細めた。その反応は、驚愕よりも『やはり』という陰鬱な納得に近い。それを見たリアムが、湯呑を置いてバビロの真意を射抜くように見据えた。
「バビロさん。単刀直入に言います。テトラ様のお父上……アドラス様を殺害したのは、おそらくネイスです」
その言葉が放たれた瞬間、室内の温度が一気に数度下がったような錯覚を覚える。
「根拠は、あの死神が獲物の魂を刈り取る際に刻む『悪魔の口付け』の痣です。ミチルダちゃんの身体にも、難民保護区で果てた老人の首筋にもありました。……そして、アドラス様の御遺体にも、同じ特徴の痣があった。そうですよね?」
バビロは沈黙した。長い指が湯呑の縁を、愛おしむように、あるいは呪うようにゆっくりとなぞる。
「……左様でございます。アドラス様の背中、心臓の直上の皮膚が、まるで抉られたようにどす黒く変色しておりました。私はそれを暗殺者の特殊な工作か、契約悪魔、もしくは野良の悪魔による呪詛によるものと考えておりましたが……。リアム様の仰る通り、あれが死神の仕業であったとするならば、すべてのパズルが完成いたします」
老執事の声には、地鳴りのような静かな怒りと、それ以上に深く暗い決意が滲んでいた。
「ネイスは現在、名誉貴族の爵位を盾にテトラ様への求婚を執拗に画策しております。あの方は、アーベルット家という『器』を乗っ取り、自身の汚れた資金源である貧民街の支配権を完全に掌中に収めるつもりなのでしょう」
「そんなの、絶対に許せない……!」
ジレッタが憤怒に任せて机を叩く。隣で話を聞いていたルナも、怯むようにリアムの袖をぎゅっと握りしめた。
すると、バビロは懐から一枚の手描き地図を取り出し、机の上に静かに広げた。
「そこで、私からの提案です。独自にネイスの物流網を洗ったところ、奴の組織が人身売買の拠点として利用している『地下倉庫』を突き止めました。帝都の西端、廃業した製粉所の地下深くにございます」
バビロの細い指が、地図上の一点を突き刺す。
「本日、ネイスはハンター協会本部へ向かい、自身の帝都への貢献を吹聴するための虚飾のパフォーマンスを行う予定です。その隙を突き、拠点を叩いていただきたい。私は貧民街に向かい、イフリートの痕跡を再度調査します。……拉致された少女たちの救出、そしてネイスの悪行を白日の下に曝す証拠の確保。これを行えるのは、身軽で、かつ実力を兼ね備えた皆様しかおられません」
リアムはバビロの横顔をじっと見つめた。老執事の瞳は、主君を案ずる忠実な使用人のそれだけではない。何か、もっと別の――凄惨な復讐か、あるいは悲痛な悲願か。激しい情念を鋼の理知で包み隠した、老練な狩人の目だ。
(……バビロさん、俺たちを誘導しているのか?)
リアムは直感した。バビロは自分たちの手でネイスを始末させようとしているのではない。自分たちが人身売買の拠点を騒がせ、死神の注意を引いている間に、バビロ自身が何か『別の目的』を完遂しようとしているように見えた。
それが何であるかは分からない。だが、ネイスという毒虫を野放しにはできないという一点において、両者の利害は冷徹に一致していた。
「分かりました、バビロさん。その誘い、乗りましょう」
「ありがとうございます。……ルナ様も、同行されますか?」
問われたルナは、一瞬だけリアムを見上げ、それから迷いを振り切るように力強く頷いた。
「はい。ルナも行きます。……あんな怖い痣を付ける悪魔、絶対に放っておけません!」
ルナの凛とした言葉に、リアムはわずかに目元を和らげた。
「よし。ジレッタさん、準備はいいですか? ……偽りの大商人の、金メッキを剥がしに行こう」
「ええ、望むところよ!」
三人が事務所を飛び出し、朝の喧騒へと消えていく。その背中は、帝都に巣食う闇を切り裂く刃のようであった。
それを見送ったバビロは、独り事務所に残され、冷めきった茶を一口、無機質に啜った。
「……行ってらっしゃいませ、皆様。貴方様方が表の悪意を払っている間に、私は『あの日の続き』を終わらせるとしましょう」
老執事の呟きは、誰に届くこともなく、冬の冷たい空気の中に溶けて消えた。その足元、不自然に長く伸びた影が、まるで獲物の喉元を屠るための刃のような形へと歪に変貌していた。
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