貨幣とまちがいと社会正義
貨幣論について考える。貨幣は、労働交換の代替物であると思う。この場合、貨幣と労働の交換が不適切な比率で行われることがあるだろうか。
なぜ、こんなにつらい労働が低賃金なのか。なぜ、こんな簡単な労働が高収入なのか。それは賢く効率よく働いているからなのか。それとも、それは、貨幣と労働の交換が不適切な比率であるからなのか。
貨幣の需要は、分業の需要である。貨幣を手に入れるとは、誰かが代わりに働いてくれることを意味する。大富豪になり、貨幣を大量に保有することは、他人の労働力をたくさん使う権利を持っていることになる。
健全な経済圏において、貨幣と労働は正確に等しい価値で交換されるべきである。そして、現実の経済において、貨幣と労働は、あまり正確に等しい価値で交換されてはいないのではないかと疑うことがある。これは疑い始めるとキリがない。あの値段ははたして妥当なのか。世の中の商品の価格は大きくまちがっているのではないか。消費者は、商品の価格を信用できるか。
貨幣論において、貨幣と労働の交換の比率にまちがいが大きくなることはありえるのだと考えて理論を展開するべきだろう。貨幣と労働の交換の比率にまちがいは頻繁に発生する。
貨幣と労働の交換にまちがいが発生することを考慮した貨幣論は、よりあるべき貨幣論だと私は考える。
貨幣と労働の交換の比率にまちがいが発生した場合、貨幣化されてしまえば、その行為は社会正義として支持されるのではないか。
このことについて考える。
一見、一度、貨幣になってしまえば、それは、貨幣と労働の交換のまちがいがその経済圏で肯定されたかのように思える。貨幣とは分業の交換媒体であるので、貨幣化されてしまえば、分業を手にすることができるようになるのだ。
しかし、ここで気を付けるべきことがある。市場は、自然発生的な経済原理ではなく、人為的に構築されたものなのだ。不適切であった貨幣と労働の交換は、人為的な市場の調整によって修正される。取引が訂正されたりするのだ。
取引は、貨幣化されても取り締まられる。
だから、貨幣と労働の交換のまちがいは、貨幣化されても社会正義になったりはしない。人為的な調整は完全ではない。貨幣の価値のまちがいは、経済圏に残りつづけて、修正されつづける。
貨幣とはこのようなものである。




