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散歩で拾った「箱」—エンディングロールは、ふたりで  作者: 輝


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第17話 エンディングロールの空欄

 六月中旬の土曜、二十一時前。閉店札が掛かったカフェの奥の休憩室は、冷蔵庫の低い唸りだけが残っていた。まおの言葉が、奥の壁に当たって、ゆっくり戻ってきた気がした。


 閉店後の店内は、冷蔵庫の低い唸りと、換気扇の名残りの風だけが動いている。カウンターの上には、束ねた紙がいくつも並び、白い端が照明に光った。快はその光を正面から見ないように、視線を少しだけ下へ落とした。


 「空欄って……」

 快が笑って言いかける。いつもの、誰かを立てるための笑い。

 「俺の名前なんて、どこに——」


 まおは、その続きを待たなかった。束の上から一枚抜き、息を整え、読み上げる。


 「『編集の快さんへ。あの夜、うちのシャッターが閉まる音、映像の最後に入ってて泣きました。ありがとう』」

 まおの喉がかすれる。文字の癖まで、書いた人の指先が見えるみたいだった。


 快の肩が、わずかに沈んだ。沈んだ分だけ、背中が丸くなる。

 「……音、入れただけだよ」

 「入れただけ、で泣けたって書いてある」


 真潤が、紙ひもの結び目を指で叩いた。机を叩かない。音が大きくなるから。代わりに、言葉が大きい。

 「逃げるな」

 短い命令に、快の笑いが止まる。


 まおは次を開いた。続く。続く。続く。


 「『快さんへ。端っこで支える人がいて、商店街は明るいです。ありがとう』」

 「『快さんへ。エンディングロールで名前を見つけるの、毎回楽しい。ありがとう』」

 「『快さんへ。あの字幕、読みやすい。ありがとう』」


 快は椅子の背に手を置いた。立ち上がろうとする前の形だ。

 「ちょっと、コーヒー……」

 「コーヒーは逃走経路に使うな」

 真潤が言うと、まおの口元が勝手に緩んだ。真潤は笑わせるつもりがない顔のまま、快の進行方向に、紙束の入った箱をすっと置いた。通れない。


 そのとき、入口のベルが、控えめに鳴った。

 閉店札は裏返したままだ。なのに、ドアは開き、スーツ姿の舜爾が顔を出す。


 「まだ、いる?」

 「いる。……舜爾、どうしたの」

 「データ。商店街の映像、明日までに粗編集ほしい。——って、空気、重いな」


 舜爾は一歩入って、状況を見た。紙束。快の手袋。まおの赤い目。真潤の無表情。

 勝負の日の顔が、少しだけ崩れた。


 「……快。お前、また“俺じゃない”って言ってるだろ」

 「言ってない」

 「言ってる顔だ」


 舜爾はカウンターに資料を置くと、紙束を一枚だけ手に取った。勝手に読まない。裏面だけ見て、戻す。普段なら数字に置き換えて話す人が、今日は言葉で言った。

 「お前がいないと、続かない。俺、企画は出せるけど、最後の整え方はできない。商店街の人の顔が、ちゃんと映る順番、俺には決められない」

 言い終えたあと、舜爾は自分の喉を指で押さえた。言い慣れない言葉が引っかかったのだろう。


 真潤が頷く。頷き方が強い。

 それに合わせて、舜爾も同時に頷いた。

 まおは思わず、二人の首の角度を見比べた。会議みたいに息が合う。

 「……今、二人で同時に頷いた」

 「反射だ」

 「反射で同意するな」

 真潤が言い、舜爾がもう一度頷きかけて止まった。止まるのが遅い。


 快は、紙束を見た。自分の名前が書かれた紙の山。誰かの「ありがとう」が、行の端まで詰まっている。

 手袋の中で、指が小さく震えた。震えても、紙を折らないように、力を抜く。


 「地方の話……まだ返事してない」

 快が、まおを見ずに言う。目線は紙の端っこ。

 「俺、行ったら、応援はできる。遠くからでも。……たぶん」


 まおの胸の奥が、きゅっと縮む。“たぶん”が一番怖い。未来の形が見えない音だ。

 真潤が、ため息をひとつ落とした。落とし方が、はっきりしている。

 「応援は便利な言葉だな。逃げるのにも、使える」


 快は、目を閉じた。閉じると、夜の散歩道が浮かぶ。川の匂い。靴音。まおの笑い声。小箱の軽さ。

 そして、エンディングロールの最後に残る、白い余白。


 「……俺も」

 快が、口を開く。声が、少しだけ太い。

 「俺も、ここに残したいものがある」


 言った瞬間、まおの指先が温かくなった。肩の力が抜けそうで、逆に力が入る。

 快は、ようやくまおの目を見た。逃げない目だ。

 「名前を……空欄にしないで、って言っただろ。……俺、空欄のまま、嫌だ」

 言葉の端が震える。震えても、引っ込めない。


 舜爾が、唇を噛んでから言った。

 「……じゃあ、返事は急がせない。屋外上映会まで、いや、翌週まで。俺も待つ。待つって、そういうことだろ」

 舜爾の「待つ」は、ぎこちない。でも、言った。


 真潤が小さく頷いた。今度は一人。

 「よし。逃げ道、塞いだ」


 まおは、紙束の一番上の紙を胸に抱えた。紙が柔らかいのに、抱える腕は硬い。

 言わなきゃいけないことが、喉の手前まで来ている。


 「私……」

 声が出た。出たのに、続きが詰まる。

 快が、まおの口元を見て、待った。急がせない。急がせないように、呼吸まで合わせる。


 「私、隣が——」


 その瞬間、店の外で、風鈴が強く鳴った。雨の匂いが、アーケードの向こうから流れ込む。

 まおの言葉は、そこで細く途切れた。



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