☶ -艮- 〈后〉
幕間 〈後〉
「師傳とトワイは、まるでファウストとメフィストみたいじゃったの」
自分と同様にハルもまた過去に思いを馳せているのか、彼女はどこか遠くを見る眼差しになった。思いつきの冗談交じりなのだろう、ほんの少し瞳が笑っている。
西洋の戯曲を喩えに持ち出してみせるのは、いかにも彼女らしい言い回しだった。
高名な学者先生と、否定を本質とする誘惑の悪魔。
彼らは誰でも知っている有名なキャラクターだろう。
「あのなァ、ハル。いくらあんなに恐ろしい女でも自分の師を悪魔よばわりするのは良くないだろォ?」
「……どう考えてもトワイが悪魔じゃろ」
「こんな三百六十度どっから見てもまるごと天使のようなおれをつかまえてひどくない!?」
「心底気色が悪い」
「つらい」
「だって、あのひとはあくなき探求者だったろう。誰より邪悪で純粋で、私たちには到底知りえないであろう全てのことを欲していた。情欲に塗れながら、お空に輝くお星さまとて真っ直ぐに欲しがっていた。穢い物も美しい物も、分け隔てなくな」
「まァ、そうだがねェ」
「それを必死になって堕とし込もうとしていたのがおぬしではないか」
「うう。この話題、なにげにけっこうキツイんですがァ」
なにやら重篤なダメージを受ける様子をみて、さすがにハルもこれ以上からかうことは気が咎めたようだ。彼女は巧みに話題を変えた。
「そういえば、師父もだいぶ前にキョンシーを使っていたな。名前までつけて、めずらしく気に入っていたのか、それなりに大切そうに扱っていたが……いつのまにか居なくなってしもうたな? 迷宮ではぐれたか、師父が飽きて捨てたのか」
「……さあねえ。おれはもう覚えてないけどなァ」
「トワイはあのころ師父の気を惹こうと必死だったからじゃろ。それにしても、おぬしがそっくりキョンシーを使役するようになるとは。いくらなんでも師父を意識しすぎじゃ」
「っても、おれはずっと弟子を持つとかいろいろ禁止されていたからな。力仕事や運び仕事の際に必要にかられて、ナイショで研究に改良を重ねて、ね。それに迷宮から死体を運ぶ汚れ仕事も道士の役割さ。呪符で死体を操って自分の足でぴょんぴょん外まで出てきてもらうの。あれの応用版は今でもたまに使うし」
「そういうシステム、どうかと思うのじゃがなぁ」
「同情の余地ないね。これだって探索者の末路だよ。機構だって認めてるんだ、文句言ってこないし」
「言いたくても言えないだけだろう。まあ、トワイは裏でせこせこ屍人形やらキョンシーやら怪しい技術やらでもつくってお金儲けしておればいいのじゃ……迷宮に潜る仕事よりは、よっぽどな」
ハルは玩具のアヒルをぐにぐにと弄りながら目を合わさずに言う。その語尾はいつもよりも頼りない。
彼女はトワイライトが迷宮に潜ることをあまりよく思っていないようだった。なんでもない風を装いながらも、いつも本音を押し隠している。
今夜は珍しくそれが表面にまで滲み出ていた。
「行ったっきり戻ってこないってわけじゃあるまいしィ。おれに限ってそういう心配は無用じゃん? そこいらのお間抜け探索者と一緒にするンじゃねえよ」
「トワイの悪運も力量も分かっている。それでも、あの人はおぬしの心を持ち去ったまま迷宮の中で果ててしまったじゃろ。私は不安なのかも知れぬ、トワイライト」
「いまさらァ?」
「おぬしも同じように、いや、あんなことがあった分、誰よりも迷宮に囚われ繋ぎ止められているような気がして……」
紫水晶の瞳は水面を映し、弱々しく揺らめいていた。
「今度の件だって、もしかしたらわざと誘われたのかもしれないな。前に呼ばれていたと言ったじゃろう、まぼろしに」
「それは夢の話だろ。っていうかァ、アレに関しては別に悪いような気はしないってお前だって言ってたじゃん?」
「それはそうなんじゃが」
うーんと呻きながらも、最終的にはどうでもよくなったらしい。
気を取り直したとばかりに手を伸ばし、ハルは水差しから直接口に水を含んだ。その様子をみて、トワイライトも喉の渇きを覚えた。いい加減、湯に浸かりっぱなしである。休養の取り過ぎで逆に倒れてしまってはかなわない。
「ずるい、おれにも頂戴。そろそろ干上がっちゃうよ」
「いやだ」
手を伸ばすがひょいと水差しを掠め取られた。紫水晶の瞳が意地悪く笑う。ハルはそのまま仰向いてぐいっともう一杯分を呷る。
「なんのつもり」
抗議の声は唇ごと塞がれた。両頬に手が添えられ、口内に冷たい水を流し込まれる。直接注がれる液体は冷たく、それでいて熱い氷のように感じた。それに、ほんの少し甘くて独特の渋みがある。香草や果実の皮を加えて作ったトニックウォーターだった。思わず、素直に飲み込んでしまう。まったくハルの用意は周到だ。
すべて移し終えると、潜り込んできた舌が口の中を名残惜しげに舐る。舌を絡ませ、唾液を交換し、薄い舌が名残惜しげに唇をなぞる。ハルは漸く唇を離すと、滴る余剰を自らの舌で拭いとった。
愉しげな笑顔が眼前で花開く。
「……おかわりはいるかの?」
「だからさァ、怪我してても自分で飲めるんだけども。というか、本当にそれ寄こせ。のぼせ死ぬから」
「ならば介錯してやろう」
ぴったりと寄せられた二つの胸の狭間に水滴が零れ、滑り落ちていく。
視線を這わせれば、白く柔らく、そして豊かすぎる膨らみが胸板に押し付けられてつぶれていた。汗でわずかに滑り吸い付くような柔肉の感触と、その奥に隠された熱い鼓動が直に伝わる。焔のような吐息は甘く、上気して若い桃のように色づいた頬がすぐ傍にある。
こちらを見上げる切れ長の瞳が誘っていた。どこまでも挑発的な視線だ。ハルは欲望を隠そうとすらせず、頬に手を添えてくる。
彼女が体を重ねるだけではなく、想いを共有したがっているのをトワイライトは知っている。甘く溶け合うだけの交わりではなく、もっと深いなにかを求めている。言葉で告げられたことなどなかったが、彼女の全てが何よりも雄弁にそれを語っていた。
しかし、間近から覗く紫水晶の瞳には、黒渦の瞳が映り込んでいた。ひどく昏い眼だ。虚ろな黄昏色のぬけがら。自分の邪な性を女の瞳の中に垣間見る気がして、ほんの少し居心地が悪くなった。まただ、性懲りもなく汚そうとしている。きれいなものを目にするといつもこれだ。どうしたって、めちゃくちゃにしたくなる。
さりげなく離れようとすると、ハルは逆にぐいっと身体をくっつけてきた。互いの間隙が気に入らないらしい、触れあっていない箇所を悉く埋めるように彼女はきつく寄り添っている。
湯で温められた体は互いの境も曖昧で今にも溶け合ってしまいそうだった。
「……あのなァ、ハル。ちょっとは察しを」
「くっつけたばかりの右腕がぽろっと取れたら可哀想じゃろ。メスより重い物は持てないのって前に言っていたし」
「ひとを変態つーか、ヤブ医者みたく言いやがって、んっ」
ごくりと喉が鳴って、再び冷たい水が通り過ぎていく。
いろいろなことを諦めて恨めしげな視線を送ると、ハルは今度こそ水差しを手渡してくれた。蓋をコップにして一気に飲み干すと、ようやく渇きが癒えた気がした。湯あたりは困る。
十分に喉を潤すと盆の上に戻して湯船から遠ざけた。
「……痴女め」
「なんとでもいえ、ロリコン。それで、あの子はよしとして、トワイの方はどうなのじゃ?」
「なにがァ?」
「身体と心の具合じゃよ。普段なんかは歩く下心の塊のくせに、今日に限っては全く触れようとせぬし、今だって私を避けようとしたじゃろ?」
「え~、ぜんぜんしてないしィ?」
「嘘。調子が悪いときはいつも同じ態度を取るくせに」
冷たいのは口調だけだった。優しげな視線に射抜かれて、胸が疼く。
そんな内心をよそにハルはふむふむと頷いて続ける。
「もちろん方法などおぞましくて聞きたくもないが、腕の方は見た目綺麗にくっついておるようじゃな。……私の傑作まですっかり無くしてきよって、体が無事でも刺青がなければトワイライトは無意味じゃ。無価値なのじゃ」
「え、ねえ待って。刺青とおれの身体、どっちが大事なン」
「刺青」
「即答ォ!?」
「どの紋様も私の大事な子供同然じゃ。それを台無しにするなど、彫り師にとってはとんだ侮辱じゃぞ? 命はともかく私の刺青は守れ、絶対に」
「おまえ、死後に他人の生皮ひっぺがして陳列するタイプの危ないひとだろ!」
胸の前で腕を交差させて体を守るように構えるが、それでもなお貞操めいたものの危険を感じた。
「あたりまえじゃ。この界隈のアーティストは皆そうじゃから安心しろ、常識の範囲内じゃ」
「無茶苦茶こわいよ!」
「そういうが、大怪我をして帰るたび丹精込めて彫り上げた刺青を一から入れ直しさせられる職人の気持ちも考えろ。それから、ぼろぼろになって半分狂ったような状態で戻ってくる友人を待つ女の気持も、な」
不意にハルの手が延べられる。制止する隙がなかった。
手首を掴まれ、そのまま右手を引き上げられる。裸では隠しようがなく、ありのままが晒し出されてしまう。
暴かれたのは、つるりとして真っ黒な右腕。尖ったナイフのような紅い爪先だけが鮮明に耀きを帯びている。異形と化した自分自身の一部だった。
「……あまり芳しくはないの」
「だから一人で入るっつったンだよ」
異形と「化す」というのは間違いだ。隠蔽していた自らの本性を暴かれ現れたのがこの姿なのだから。べつに普段の姿形が偽物というわけではない。でも、本物とも言い切れない。トワイライトは秘密があった。
今回は心身に大きな負担を受けたことで魔力の回復が遅く、繋ぎ直した右腕もまだ不完全なまま――人間のそれと同様の形まで持ち直すことができていない。しかし、同時に肌と呼べる箇所にはもう傷も紋様も何一つ残っていない。回復を待ちながら鍛え上げれば元通りになるだろう。色も質感も全て。いつもの通りに。ヒトのかたちに。
こんな姿を晒すのは堪らなく嫌だった。自分が人のなりそこないであることを意識させられてしまうから。たとえ相手が事情を知り尽くしたハルだとしても。いや、ある意味では彼女が相手だから余計に嫌なのかもしれない。
腕を湯の中に沈めようとすると、ハルが手首をぎゅっと掴まえて引きとどめた。
「……はなせよ」
「振り払えばよかろう」
そう言いながらもハルは手の甲にそっと口付け、自ら手を離した。恭しく宣誓をする証人のように。
こんな扱いをされては、むげに振り払うことなどできなかった。
顔を上げたその瞳にはほんの少しの侮蔑と憐れみ。あるいは怒りに似た色が浮かんでいる。内心まで見透かした真っ直ぐな瞳だった。
「なぜいつも隠したがる? 私はべつに嫌がったり怖がったりはしない。知っておろ?」
「俺が嫌なの。こんなの気持ち悪いじゃん? やっぱり」
「それなら早く治すことじゃな。トワイの自虐は不調の証拠だ」
「……分かってる」
素直に認めると、ハルはまだ何か言いたげにしていたが、やがて仕切り直したように表情を明るく変えた。
「ふん。よく考えなくても、まっさらな肌にまた新しく彫れるというのはある意味棚ぼたラッキーじゃ。そう捉えておいてやろう。まいどトワイが派手に怪我して帰ってくるからこそ、私のかわいいお店も潤うからの? 一番のお得意様じゃな」
「うぐ、お金も精気も絞りとられちゃうよォ……」
「そういうが、おぬしは刺青を彫られるのも好きなんじゃろう? 完璧に依存症じゃの」
皮肉交じりの真実が耳に痛い。それでもハルが話を落としてくれたので、調子を戻していつものように軽口を叩く。
大人が使う子供じみた方法であっても、大抵はそれでなんとかなるものなのだ。
「兎も角、トワイライトの大切な眠り姫には一度お目にかかりたいものじゃ」
「目が覚めて落ち着いたら多分連れてくるよ。そのうちね、ってもこれから全然どうなるか分かンないけど」
「おう。ついでに肌質、色艶も確かめさせてくれ。少女用のコケティッシュでスパイシーで可愛らしい図案をかねてより温めてあってな。目ン玉飛び出るような超絶美少女マジ天使だと言っておったろ? 若く健やかな肌に墨をいれる栄誉に預かれるのなら、私も本望じゃ」
「ねえ待って、頼むからやめて。言ってることが犯罪者じみてきてるから。危ないから」
「安心しろ。勿論これも冗談なのじゃよ?」
そう言ってニヤリと優美に微笑むが、刺青関連においての発言はほぼ全てが本心だと思っていい。ハルは隙あらば男女問わず美肌の持主を捕えて、蒐集した名刺の裏に描きとめた本人専用の図案を彫り入れようとする或る種のサイコだ。
ちなみに以前こっそりと確かめたところ、トワイライトの名刺裏には緻密で美しくもどこか偏執的な蜘蛛女のラフがざっくりと書き込まれていた。怖かったのでそのままそっと奥へしまって知らぬふりを決め込んでいる。いまのところは無事である。
「……とても信じられないし、やっぱりなるべくならお前だけには近づけない」
「むう。しかしの、なんだかんだで独り占めして大事にしまい込もうとするなんて、よっぽど本気なんじゃな。対象が対象だけにぶっちゃけかなり危ういが、ともあれトワイが女の子をふつうに愛でるようになろうとはなぁ。明日は槍が降るな」
「愛でるとか可愛がるとか別にそういうんじゃないってば。おれは……なんつーかァ、ただあいつを手元に置いておきたいだけなンだよ。これもただの我侭だし」
「手元に、なぁ。大抵いつも酷いやり方でポイ捨てじゃろうが。無理を承知で迷宮から攫ってくるくらいだ、おぬしも覚悟くらいしておろう」
「いや、まァその、それはそうなんだけどよォ」
渋々認めれば、ハルはにんまりとして得意げな顔になった。何だか妙に照れくさい。
微妙な沈黙に耐えられず――ハル相手では別に無理やり間をもたす必要もないのだが――トワイライトはふと思いだしたことをそのまま付け足した。
「そういやさァ、蒼い竜の夢の話だけど……ちょっと続きがあって」
「あれか。どうした」
「あの夢、最近はぱったりと見なくなったよ」
「……そうか」
「ってそれだけぇ? 冷たいねェ」
茶化すように明るく振舞うが、ハルの瞳には複雑な色が浮かんでいた。安堵も混じっているが、それだけではない。不安と困惑が綯い交ぜになった、言いようのない表情だった。
本人もどう言葉にしてよいのか考えあぐねているようで、彼女はゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「もう夢も見なくなるほどに欲しいものを手に入れたと考えれば気楽じゃろう? でも、私にはそれがいいことなのかどうか解らぬ。今後も上手くことが運べば良いのじゃが……どうも何かが引っ掛かるのじゃよ」
「何かって、なにがァ?」
「トワイライト。言っておくが、私はね、単純におぬしが心配なんじゃよ。これだけは正真正銘の本音じゃ」
「いきなりマジなトーンでこられるとなんつーか、困るンですけどォ」
「失礼な。なにも意地悪で言っているのではないよ。私が珍しく真面目に忠告してやっておるのじゃ。だからトワイも真面目に」
紫色の瞳を覗きこむと、不意をついて口付けた。無論、それ以上を続けさせないためだった。
人間の形をした左手で頬に触れ、湿気で貼りついた黒髪を耳に掛けてやる。しっとりと濡れた髪を手指に絡ませ弄びながら、角度を変えて幾度か唇を重ね合わせた。言葉を遮られても、ハルは抵抗することなく受け入れた。キスの最中にも何かを試すようだった瞳がそっと閉じられる。
思考を蕩かすような口づけを繰り返したのは、互いを惑わす言葉も疑念もハルの中から奪い去ってしまいたかったからだ。
柔らかな胸が蠢き、こく、と喉が鳴る音が聞こえる。
「もう……トワイライト」
「ちゃんと真面目に聞いているし、肝には銘じておくけどさァ。心配されすぎると、それはそれで動きが鈍っちまいそうなンだよねぇ」
唇を離しても身体を離すことはせず、ハルは熱気の中で肌を触れ合せたまま此方を見上げていた。
その胸元には錠の刺青。彼女がリンレイから彫り入れて貰って十年以上経つ大切な刺青があった。
ハルはそれ以上何も告げてこなかった。言外の意図を汲み取ってくれたらしい。相変わらずどこまでも優しく、おおらかな女だ。だからこそ、どうしても厄介事に巻き込みたくはない。
トワイライトは少し考えてから、埋め合わせをするつもりで言った。
「……折角だし、じゃあほんとに背中流してもらっちゃおうかね」
「意外じゃの。疲れているから嫌だで押しきるのかと思ったが」
「おまえがあんまりしおらしくするから、気が変わったの」
「トワイのむらっ気に付き合うのもなかなか大変なのじゃよ?」
そう言いながらも、ぎゅうっと体重をかけて抱きついてきたハルにそのまま押し倒される。湯船に黄昏色の髪が広がった。同時に、髻を解いたハルの髪が夜の帳となって頬や額に落ちてくる。
絡めた互いの左手、その人差し指には同じ紋様が刻まれている。
それはトワイライトにとっては数少ない魔術と無関連の刺青で、二人にとっては約束だった。
柔らかな肢体にきつく包まれてゆったりと風呂に浸かるのだって、正直悪くは無いのだ。
女の長く繊な指がそっと下腹部を伝い降り、股座へと這わされる。ハルは愉快そうに笑って、腰の上に圧し掛かってくる。なんだかんだで待ちわびていたのだろう。再び口付けを交わし、トワイライトも上半身を起こすとふわりとした豊満な乳房に五指を埋める。押し返す弾力の奥には、ひんやりとして心地のよい冷気が秘められていた。
女の首筋から喉元に唇を這わせつつ、ふと窓の方へ視線を泳がせる。
ハルの黒髪と紅潮した耳の、その向こう――。
窓辺に浮かび上がる燐光が見えた。鬼火だった。
鬼火は夜を彷徨う死者の化身だ。先程閉めかけた窓の隙間からこちらを窺うように頼りなくほのめいている。
……まったく、こんな時まで。
ため息交じりに左手で髪を搔き、肌を傷つけぬよう巧妙に隠した針を三本ばかり取り出す。もちろん、これにも符呪が施されている。目で合図してハルの身体を引き寄せ、
「――――急々如律令」
短く唱えて針を放つ。
全てが命中。魔力を帯びた針を受けると、鬼火は一瞬だけ大きく揺らめいて消え失せた。
あれらは所詮、ただの霊だ。現世においても視認可能な亡者の影にすぎない。
「なんだったのじゃ」
振り返ったハルが肩を竦めた。
「さぁねぇ。死霊のくせにピーピングって無粋ィ」
「今夜はちょっと賑やかそうじゃの? 亡者が外を歩き回っておるのかな」
「はあ、どっかで物の怪でも出てンのかねぇ。緊急連絡に備えて、通信切っとこ……」
「あとで治鬼火符を書いてくれ。念のため門に貼っておこう」
「ンー、わかってるよ。変な夜ゥ。死人が歩く、か」
「とりあえず、もう少しゆっくり浸かってからでもよかろ?」
甘く囁くと、ハルはそのまま体重を預け、熱く腰を絡ませてくる。
心地のよい重さと溶け合う肌の感触に身をまかせながら、トワイライトは深まる夜の淵を見た。温い闇の中には何の予感も予兆も読みとれない。それでもほんの少し心をひりつかせるのは、果たして誰の憎しみなのか。
手繰るべき因果の糸。
その片鱗を記憶の狭間に掴みかけた気がしたが、すぐに断片はすり抜けてしまった。
今があれば、とりあえずはそれでいいのかもしれない。手に入れたものと、それでも尽きない欲望とを抱き続けることができればそれで。
――邪魔をするものがあれば全て壊して進めばいい。それだけだ。
ほどなく、そんな取り留めのない思考も熱と吐息に滲み、白く解けて消えた。
〈了〉




