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幕間01 黄昏の荒野

 白い闇に包まれていた。

 火葬の灰のように濁った川をたどって、薄暮に滲む寒々とした荒野を歩いていた。

 白い渦から影が浮き上がる――力なく垂れた神の十字の旗、うなだれた敗残兵の群れ。

 いつからこうして歩いているのか。どこへ向かっているのか。

 濃霧が流れ、荒野に沈みゆく太陽の最後の矢が目を射た。


 剣がぶつかりあう鋭い音、楯が砕ける音、興奮した馬のいななき、突撃の雄叫び、逃げ惑う悲鳴、それらの血なまぐさい戦の音が鼓膜を割らんばかりに轟いていた。

 主君のサイン伯は先頭に立ち、無謀な突撃をしかけた。味方から分断され、敵の騎兵隊に囲まれる。

 サイン伯は父だ。だが、飛び出したのは、父を助けたいという肉親の情ゆえではなかった。この地上に自分をつなぎとめているのはただひとり。父を同じくした異母妹だけ。だから彼女が父親を亡くして悲しむことのないように、我が身を楯にして剣を振るい続けた。閃光が走り、血の嵐が吹き荒れる。

 敵兵をいくら屠っても包囲網を破ることができない。とうとう背中合わせに戦っていた主君が、父が、沈む。倒れた馬の下敷きになって。

 動けない父をかばいながら、疲労に鉛と化した体で剣の輪舞を舞いつづける。命の炎が尽きるそのときまで。

 殺気が背後から迫る、汗に滲む目を向ける。

 迫り来る、槍の穂先。ぎらつく落日の、血の赤に燃えて――


 白い闇に包まれていた。

 灰色の川が流れる荒野を亡者の群れのような軍隊と共に歩いていた。

 せせらぎの音も自分の足音も行軍する軍隊がたてる物音も耳を押さえつけられたようにくぐもっていた。

 あれからどうなったのだろう――迫り来る、落日の、血に濡れた赤い、あの槍の穂先。

 そこから先がどうしても思いだせない。


“…………ト! ”


 ごぼごぼと水中で誰かが叫んでいるようだった。永遠に黄昏のまま止まってしまった霧深い空間は、すべての音を空耳にかえてしまう。

 だが、それは空耳ではなかった。月が海を呼ぶように、引き寄せられる。

 冷たい胸に飛びこんできた。あかつき色の髪が夜明けのようにひろがり、涙が朝日をうけてきらめく露のようにこぼれていく。

 白鳥の血で結ばれた誓いにかけて、血よりも濃く骨よりも堅く、おのれの命よりも大切なひとが泣いている。

 なのに、絞り出した声は、彼女に届かない。彼女が必死に叫んでいる声も聞こえない。水の膜がふたりを隔てているかのように。

 聞こえないことに苛立っていた琥珀色の瞳が見開かれる。背中にまわされていた手が離れる。その白い手は赤く濡れている。

 血が滲んでいる。胸のあたりで裂かれた軍衣から。


 迫り来る、槍の穂先。ぎらつく落日の、血の赤に燃えて――

 そして。

 槍は背中から胸を貫いていた。


 機を織る音がする。

 女が歌を口ずさんでいる。


 暮色の織物から

 血の雨が降る

 人を殺した

 いと大いなる機織台の上に

 戦士らの死を告げんがため

 人の腸で紡がれた縦糸もて

 血染めの横糸と交差させん


 垂鉛(おもし)は生首

 綜絖棒(シャトルロッド)は血塗りの槍

 杼(ひ)は矢とならん

 そしてわれら戦場に舞う白鳥は

 剣をもちて機を織る


 この怖ろしい屍臭ただよう機織りの歌を知っている。

 子守歌として夢うつつに聞いていた幼き頃を思い出しながら、まぶたを開けばそこは、黄昏の仄かに明るい闇がたたずんでいる小部屋だった。

 壁際に立てかけられた織機は歌の通り。縦糸を引っ張る垂鉛としてぶらさがっているのは青く腫れあがった生首。糸は人の腸で、湯気をたてて鮮血が滴りおちていた。

 槍が波打つ糸の束を分け、矢が縦糸をくぐり、血なまぐさいタペストリーを織りあげていく。


 織らん 織らん

 魔術(ルーン)を得んがため片目を捧げし者の織物を

 主君の危機に

 いでや進まん

 敵陣の中に

 剣戟が鳴り響くところへ


 織らん 織らん

 戦場を徘徊する鴉を従えし者の織物を

 剣の嵐は吹き荒れ

 累々たる屍の山を築きあげん

 迫り来る槍は落日の赤に燃えて


 織らん 織らん

 九夜の間吊されてよみがえった者の織物を

 おのれの命が尽きるまで

 主君をかばいし勇士の胸に

 突き出た槍は赤く濡れ

 血の花が咲くのを見出したり


 血の雲が空にたなびく今

 鴉どもの饗宴は見るもおぞまし

 白鳥乙女(ヴァルキューレ)は勇士を翼に抱き

 戦死者の館(ヴァルハラ)めざし飛び立てり


 機《はた》を織る音がとまった。

 織りあげられたタペストリーに満足の吐息をついている、凜とした女の背を秋の満月のようにさえざえとかがやく髪が流れおちている。


「――母上」


 息子の死を織りあげた女は振り返った。

 七歳で別れてから十四年の歳月が流れていたにもかかわらず、雪白の肌に時は老いを刻みつけはしなかった。

 嵐の夜に荒れ狂う風が、闇を切り裂く稲妻が、研ぎ澄まされた剣が、人を慄然とさせるように、それは人の持てる美しさではなかった。

 人を殺して作った織機で血染めのタペストリーを織りあげる母は、白鳥乙女のひとり。唯一の神にその座を奪われた血なまぐさい古き神々の主神、戦争と魔術を司る隻眼の神ヴォーダンのために、黄金(こがね)に輝くヴァルハラに連れて行く戦士を選ぶ、白鳥に姿を変えて戦場にあらわれる乙女。

「人の子としてのそなたの夢は終わった。アルベルト、我が息子よ」

 白鳥の翼を思わせる腕で抱きしめられる。

「いえ、まだです。私は夢から覚めるわけにはいかない」

 母である乙女は微笑した。それは母が息子に向けるものではなかった。運命を織る女神の冷然とした微笑。

「それは、亡者の渡る霧の荒野までそなたを追いかけてきた娘のためなのね」

 翡翠《かわせみ》色の瞳はけぶり、ここではないどこか遠くを見ている。

「ふたりを結ぶ絆がみえる。その娘もそなたのことを強く想っている。時を越え、過去と未来が溶けあう夢路をたどって、黄泉の荒野に降りてくるほどに」

 そうして、背中にまわしていた腕を離した。その指に絡められた金の糸は朝焼けのように輝いている。


 ——あれは願望がみせた幻影ではなかったのだ。カーライン様は、私を追ってきてくれた!


「……この、現世の残り香である一筋の髪をつかえば、黄泉返りの魔術ルーンを歌うことはできます。——ただし、魂を肉体に戻すことはできても、そなたの破れた心臓が鼓動を刻むことはない。記憶がよみがえるかどうかもわからない。たとえ、全てを思いだしたとしても、いずれ心は壊れ、魔性に堕ちる。他者から精気を奪う呪われた存在となって彷徨い続けることになる。それでも愛する娘に再び会いたいですか。さあ、鋭い武器たる勇士よ、選びなさい。どう選ぶかはそなた次第です」


 ——忘れるわけがない。ヴァルキューレである殺戮に歓喜する母の血が日に日に強くなり、心を失いつつあった私を人としてつなぎとめていた光を見失うことなどありえない。たとえ、記憶を失ったとしても、きっと思い出してみせる。


「森の奥でカーライン様の手をとったあの日から、私の心はあの方のもの。白鳥の血で結ばれた誓いにかけて、必ず帰ると約束したのです。その誓いを守るためなら、黄泉返りの魔術のための代償を払うことを怖れはしません」

 抱きしめられ、頬に花びらのような唇を寄せられた。春の野原の香りがたちのぼる。

「呪われし茨の道を選んだ愚かで愛しき息子に祝福を——」

 そして、赤金色の一筋の髪を渡した。

「愛しい娘の髪を伝ってお行き。戦場で途切れた夢の続きを見るために」


 髪は渦巻きながら伸び、屋根を破り霧に覆われた空を貫いていく。黄泉と現世をつなぐ光の梯子となって。


 銀の喇叭を鳴らすような、魂を震わせる白鳥の歌声が霧深い彼方から響いている。

 深淵の闇に落ちていた魂を呼んでいる。

 あかつきの髪の乙女が手をさしのべていた。琥珀の瞳からこぼれおちる涙。星が夜空にきらめくように。乙女は光そのものだった。暗黒に堕ちる意識をつなぎとめる光の糸だった。

 手をのばす。夜明けを告げる一筋の光を求めて――


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