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04 夜明け

 白と朱色のデイジーで花冠を作ろうとしているのに上手くいかない。躍起になって花と格闘していると、ふいに肌寒さに震えた。霧が辺りを覆っていた。そして、自分は一人だった。

 アルベルトはどこにいったの?

 彼女は不安に襲われて、立ち上がった。手から失敗作の花冠が落ちていく。

 アルベルトは彼女の隣にいたはずだ。自分を残してどこかに消えるわけがない。待っていたらきっと現れる。そう言い聞かせていても不安は消えなかった。自分は永遠に独りなのではないか。不安は恐怖に変わった。視界を白く遮る霧の中をアルベルトの名前を叫びながら、駆けだした。



 どこからか水滴の音がする。

 いつしか霧は闇へと変わっていた。ここはどこなのか確かめようにも、明かりがない。手を伸ばしても、何もなかった。その手すらも見えなかった。ただ闇だけがあった。

 吸いこんだ空気は氷の刃のようだ。体が霜で覆われて血さえも凍りつく寒さだった。それでも彼女は足を引きずりながら歩き続けた。この先に彼はいる。わたしを待っている。アルベルトに会うんだ。そして今度こそ、絶対に離れない。

 永遠に暗黒の中を歩き続けるのではないかと麻痺している頭でぼんやりと思ったその時、全てを黒で塗りつぶした闇が、うっすらと明るくなっていった。雨が降りつづける灰色に煙っているような薄暗い空だった。

 赤茶けた砂岩の大地が茫漠とひろがり、彼方の地平線には険しい山の稜線が霞んでいる。そして、数え切れないほどの人の群れが、荒れ果てた大地を進んでいくのを見た。

 力なくたれている軍旗の下、行進していく騎士たちに混じり、貧しい身なりの農民たちの姿もあった。

 だが、あれだけ大勢の人がいて、歩くときにたてる音も衣擦れの音も、笑い声も怒鳴る声も隣の者と喋っている声も咳払いをたてることも、ない。一切の音がなかった。

 沈黙の行進はまるで死者の群れのようだ。

 恐怖が心臓を握りしめたが、ここで引き返すわけにはいかない。アルベルトの姿がないか、目を凝らした。

 そして、彼女は見いだした。

 騎士の行列の中に、彼はいた。淡く輝く月の光のような髪も、深緑の軍衣を羽織った長身も、彼の全てが懐かしい。

 名を呼びながら走った。

 声が聞こえないのだろうか。いつもなら振り向いてくれるはずなのに、彼は振り向かない。何かがおかしかった。彼女は頭を振って不安を振り払う。あと少しで彼に届く。

「アルベルト! 会いたかった!」

 背中に手をまわして抱きついた瞬間、手を離しそうになった。指に絡みついてくる粘っこい感触。氷を抱きしめたように体温を奪っていく――息を引きとった時の母と同じ、冷たい体。 

 なおも彼は振り返らない。それどころか、彼女に構わずに歩き続けている。引きずられ、たまらず手を離した。怒りがこみあげてきた。前に回りこんで、この怒りをぶつけてやろうとして、言葉を失った。

 軍衣は切り裂かれ、血に染まっていたのだ。彼の腕を掴んだ彼女の手も。

 感情が欠落した硝子玉のような瞳に彼女の泣きだしそうな顔が映っていた。

 泣きじゃくりながら、彼の体を揺さぶった。何か言って。どうして抱きしめてくれないの!

 だが、彼は答えない。彼女の腕のなかで、墓土の中で腐っていくように、崩れ落ちていく。

 硝子玉の瞳は溶け、虚ろな穴がのぞき、蛆虫が、這い出てくる。歯茎が溶けた剥きだしの歯が近づいてきた。

 さあ、接吻を。



 悲鳴をあげて、彼女は飛び起きた。

 心臓が狂ったように跳ね、体中の血管が破れそうなほど脈打っていた。

 きつく体を抱きしめても、震えが止まらない。

 鎧戸がきしむ音。荒れ狂う風の音。嵐だ。あの夜と同じだった。

 彼女は叫んだ。

 気が狂ったように叫びつづけた。意味をなさない鋭い悲鳴をあげて、彼女は扉を開け放ち、燭台も持たずに暗闇の中を走った。壁に掛かっている松明では城を浸食している闇を追い払うことはできない。光の届かない闇はさらに黒く生き物のように蠢めいている。闇の内臓の中を潜っているようだ。体のあちこちをぶつけた痛みにさえ気づかずに駆け下りていく。螺旋を描いて奈落の底へと墜ちていくように――

 薔薇園に続く扉を開いた途端、風が唸りをあげて襲いかかり、髪が煽られ視界をふさぐ。

 崩れそうになりながら、彼女は歩きだした。ぬかるんだ土が裸足の指の間に入りこんでくる。

 薔薇はあの時と同じ、吹きつけてくる風に悶えて、散っていく。赤い、血の色の花びらが。何もかも、あの夜と同じだった。

「アルベルト!」

 叫びつづけた名前は、虚しく風に吹き消されていく。


 なのに、彼だけがいない。


 膝から崩れ落ちた。土砂降りの雨が体を叩きつける。涙と雨と泥で汚れた顔を天に向けて、慟哭した。




 ステンドグラスから朝陽が射しこみ、石壁を這っていた闇を払っていく。

 嵐が去り、朝が来たのだ。

 十字架にかけられたキリストの哀しげな顔が茜色に輝くもとで、少女がうずくまっていた。肌着であるシュミーズはずぶ濡れで泥まみれ。手足には青く腫れあがった痕と赤黒く凝固した血がこびりついていた。朝陽に照らされた泥に汚れた顔は、それでもなお美しかった。長い睫毛が震え、琥珀色の瞳があらわれた。不自然な体勢で凝っていた体を伸ばそうとして、痛みに呻く。

 どうやって礼拝堂に辿り着いたのか記憶がなかった。

 自分の寝室ではなく、なぜ礼拝堂なのか。

 祈りに来たのだろうか? そう思った途端、笑いが漏れた。

 この三年間、常に祈り続けていた。明日になれば、帰ってくるかもしれない。それは孤独な日々を温めてくれる希望だった。

 それが叶えられなかった今、何を祈ればいい?

 祭壇に置いてあった短剣に視線が吸い寄せられる。手をのばして、獅子の紋章を金糸で縫った深紅の鞘を抜いた。きらめく刃をうっとりと眺める。

 アルベルトのところへ行きたいのでしょ? それで一突きすれば、あなたの願いは叶うわ。甘美な声が囁く。

 短剣の切っ先を喉に当てた。

 柄を握る指に力をこめる。

 薄皮を切り裂く。皮がはがれたピンク色の肌がみるみる赤く染まっていく。だが、これだけでは死ねない。なのにそれ以上、深く突きたてようとしても、力が入らないのだ。

 震える手から短剣が床に落ちていく。

 鉄の鈍い音が、響いた。

 彼女は、笑いだした。肩を震わせ、涙を流しながら声がだんだん狂ったように高くなっていく。

 どんなに愛していると言葉を捧げても、永遠を誓っても、自分の命の方が惜しいのだ。死ぬのが恐いくせに、アルベルトのいない世界でどう生きていったらいいのかわからない。それでも、この世界で独り、生きていくしかないのだ。

 喪が明ければ、結婚を強制されるのは間違いなかった。女の相続人では、領地を守ることはできぬと考えられていた。強い男に領地を守ってもう必要があると、周りのものは口をそろえて言いたてる。

 そして豊かな領地を手にするために、求婚者が甘い蜜にひかれる蟻のように群がるだろう。

 わたしの気持ちなど無視して、踏みにじって――父と同じ。わたしは男の都合の良い人形になんかならない!


 カーラインは、民の罪を背負って十字架につながれた神を、見上げた。慈悲を請うのではなく、神に挑むために。

 短剣を手に取った。

 髪を裁つ音が、静寂を破っていく。豊かな蜂蜜色の髪が床にこぼれ落ちる様は、光の渦のようだ。

 あらわになった首もとに、直接、空気を感じる。髪がこんなに重たかったとは知らなかった。自然と笑みがこぼれた。真っ向から神を見据える。

「主よ。この髪にかけて誓いましょう。私は女を捨てる。そして――」

 目を閉じた。目蓋に浮かぶのは、彼――おだやかに微笑んでいる。涙が滲んで、熱を感じる。まだあなたの側に行けないわたしを許さないで。

 

「――永遠にあなただけを愛し続ける」

 

 その誓いを聞く者は、誰もいない。キリスト像が、憐れみをたたえ見下ろしているだけだった。

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