第3話 噂
えええっ!? ちょっと待ってください。
温泉街でいつもニコニコしてた、あの太っちょの于オーナー。
ただの食いしん坊なオジサンだと思ってたら、まさかの人間じゃない!?
その正体は、なんと『ナマズの精』!
しかも、あの恐ろしい屏風山の山主様に仕えるガチの妖だったなんて……
彼女が食堂に戻ると、ちょうど一行は食事を終えたところだった。
テーブルの上の鉢や皿は、まるで洗ったかのように綺麗に平らげられている。
張も皆と一緒に座り、店員というよりは客の一人のように楽しげに話し込んでいた。
「おい、どこへ行っていた?」 伊高屋が小言を言う。
皆の視線が突き刺さり、波有は慌てて椅子を持ってきて仲間に加わった。
「あんまりお腹が空いてなかったから、外をちょっと散歩してたの。何の話をしてたの?」
「張くんからこの街の話を聞いていたのよ。とっても面白いの!」 雲英が答えた。
「続けてくれ、張くん!あの……于旦那とかいうのは、普段あんたたちのような小さな店をいじめたりしないのか?」
「それがね、あの于旦那は『人』じゃないんですが――」
その一言に、一同は思わず吹き出した。
「いや、つまり彼は『魚の妖』なんですよ。」
「でも本当に良い妖で、下手な人間よりよっぽど出来てます。この街にはうちのような店が他にも四、五軒ありますが、どれも人間が経営していて、みんな于旦那のことを尊敬しているんです」
張はさらに続けた。
「今は閑散期で客が少ないですが、寒くなって客が増えれば、自分の店の者をうちの手伝いに寄越してくれます。さっきも見たでしょう、客が少なくても、彼は我々のような小店から無理に客を奪ったりはしないんです」
そう言って、張は誇らしげに親指を立てた。
師姉の伊念が頷いて言った。
「道理で! あの男を見た時、霧の中に丸っこい何かが透けて見えたから、温泉の湯気のせいかと思っていたけれど。魚の妖だったのね」
二師兄の伊貴が口を挟む。 「その温泉街には、于旦那の他に妖はいないのか? みんな怖くないのか?」
波有もあの太った男の二本の髭を思い出し、尋ねた。 「店員さん、于旦那が何の魚か知ってる? 私はナマズの精みたいに見えたけど!」
伊高屋が小弟子を睨みつけた。
「相手は若旦那だ、店員呼ばわりするな! 失礼だろうが。……張くん、この弟子は口が悪いが悪気はないんだ、気にしないでくれ」
張は穏やかに首を振った。
「いいんですよ、お客さん。お気になさらず! お嬢さんの言う通り、この店は私一人が店主兼店員ですから。……何の妖かは私も詳しくは知りません。ただ、この近くに屏風山という大きな山がありまして、そこには神仙様がいらっしゃる。神仙と言っても……おそらくは強大な法力を持つ大妖でしょうね」
「于旦那はその山から下りてきたと聞いています。彼の店の十数人の奉公人もみんな小太りですが、あれも小魚の妖かもしれません。」
「ほら、さっき後ろについていた二人もそうです。……それから」
ここで張は声を潜め、彼らに顔を寄せた。
「屏風山の山主様は、時折ここへ温泉に浸かりに来られるんです。この街の人間は、温泉街を護ってくださっている感謝のしるしとして、山主様のために酒や料理を用意するんですよ」
波有は厨房にあった二羽の焼き鳥を思い出した。
「張旦那、そんな話を私たちにして、于旦那に怒られないの?」
「大丈夫ですよ。山主様も于旦那も、我々に隠し事はしませんから。何度か料理を運びに行った時、山主様が温泉に浸かって、その周りを大きな魚たちがプクプクと泡を出しながら囲んでいるのを見かけましたが、あれはなかなかに美しい光景でしたよ」
一同が目を丸くして聞き入る様子を見て、張は妙な満足感を覚えたようだった。
「さて、お引き留めしました。皆さんもお疲れでしょう。店の門を出て後ろへ回れば、すぐそこが温泉です。左が男湯、右が女湯。今は客も少ないですから、他にお客もいないでしょう。ごゆっくり」
彼は一礼すると、手際よくテーブルを片付け始めた。
―――
張が言った通り、ここには彼ら六人の他に客はいないようだった。
立ち込める湯気の中に、楕円形の大きな温泉がある。その中央には、高い竹垣の仕切りがそびえ立っていた。
男女三名ずつに分かれて湯に浸かる。
竹垣に隔てられてはいるものの、喋りたくて仕方のない師父の興を削ぐまでには至らない。
「雲英! 念ちゃん! 波有! 師父の声が聞こえるか!」 伊高屋が声を張り上げて叫んだ。
「師父! そんなに叫ばないでください! びっくりするじゃないですか!」 すぐ隣から不意に響いた波有の声に、今度は伊高屋の方が飛び上がった。
「……ふん、聞こえておればよい! お前たちに言っておくがな、宿に戻ったら、張くんに妖のことを根掘り葉掘り聞くのはもうやめろ。」
「それから明日出発する時、もしあの……何だったか、そう、あの于旦那に会っても、キョロキョロと物珍しそうに眺めるんじゃないぞ。善い妖だろうが悪党だろうが、我らには関わりのないことだ。それに、あちらは大旦那なのだから、敬意を欠くような真似は許さん!」
隣の女湯から、雲英の声が返ってきた。
「さすがは師父! 皆さんは普段、師父がケチだの銭ゲバだのと言いますけれど、私はそんな言葉、聞きとうありません! 師父にそれほどの大きな慈愛があったからこそ、身寄りのない私たちを引き取って育ててくださったのですもの。師父がいらっしゃらなければ、私は今頃どこへ売り飛ばされていたか分かりませんわ」
嫁の言葉を聞いた大師兄の伊蘭も感極まり、湯船の中で跳ね上がった。
「雲英の言う通りだ! 師父は俺を育て、法術を教え、その上嫁まで娶らせてくださった! 師父の恩は山よりも高い!」
愛弟子夫婦の露骨なゴマすりに、伊高屋はすっかり鼻を高くして得意満面だ。
波有は呆れて目を剥いた。
「雲英姉さんも大師兄も、二人揃って毎回そればっかり。耳にタコができるわよ……はぁ」
彼女は溜息をひとつつくと、続けた。
「私にとってもね、師父は前進すべき道を指し示す『一筋の光明』なのよ!」
伊高屋がその言葉に気を良くする間もなく、彼女の口は止まらない。
「私がいい気になって浮ついている時には、いつも頭にガツンと一撃を食らわせて、地に足をつけて生きることを思い出させてくれるわ」
それを聞いた他の兄弟弟子たちは、必死で笑いを堪えた。
「頭に血が上っている時には、いつも冷や水を浴びせて、私の脳みそを冷やしてくれるのよね」
ついに大師兄の伊蘭が堪えきれず、「ぶふっ」と吹き出した。
伊高屋は竹垣に向かって、怒りに髭を震わせた。
「よくもぬけぬけと言いおったな、この親不孝者が! 引き取った時、貴様が一番小さくて何の役にも立たなかったが、大きくなった今でも、結局は何の役にも立たんではないか!」
二師兄の伊貴が慌てて末の妹弟子を庇いに入った。
「師父! 小師妹に譲ってやってください。あの子相手にムキにならないで。波有ちゃんは今でも末っ子、まだたったの十四歳じゃありませんか」
四十を過ぎた男が、十四の小娘と張り合ってどうするのか……。
伊貴はやれやれと首を振るのだった。
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