後悔を飲み込み、成長をし
終業式の日は、毎年どこか物寂しい。
朝から湿度を含んだ空気が重たく、制服の襟が肌にまとわりつく。先生の長い話は、誰にとってもただの雑音だった。視線は前を向いているふりをしても、心はすでに夏休みへと飛んでいる。
僕も例外ではなかった。
窓際から差し込む光は眩しすぎて、眠気すら呼び込んでくる。ちらりと横目で彼女を見る。彼女は隣の席の友達と小声で何かを話しながら、退屈そうに机に頬杖をついていた。
昼間の彼女は、僕には遠い。
まるでスクリーンの向こう側にいるようで、同じ空間にいるはずなのに、指先すら届かない。
けれど、放課後になれば違う。
その思いが胸の奥で静かに膨らんでいった。
式が終わり、荷物をまとめる音が教室に広がる。
「海行こうね!」「プールも!」「宿題やばそう!」
そんな声が飛び交う中、僕はいつも通り鞄を閉じるのを遅らせた。友達の輪に混じって出ていく彼女を、ほんの少しの間、見送るために。
昇降口へ行くと、彼女はやはりそこにいた。
大きな鞄を肩にかけて、髪を後ろでひとつに結んでいる。いつもより軽やかな雰囲気があった。夏休み前の解放感が、彼女の表情を柔らかくしているのかもしれない。
「暑すぎる」
第一声がそれだった。
「ほんとにね。まだ夏休み始まってもないのに」
「エアコンつけてくれたらいいのにね、体育館」
そんな他愛のない会話で足を揃える。
蝉の声が、途切れることなく鳴り響いている。アスファルトは陽に照らされ、白く光っていた。
「ねえ」
彼女がふいに声を落とした。
「また一緒に帰ろうね」
僕は一瞬、返事が遅れた。
彼女の目は真剣でも照れでもなく、ただ自然にそう言っているように見えた。
「……うん」
ようやく言葉を絞り出すと、彼女は安心したように微笑んだ。
それだけの約束なのに、僕の胸は大きく波打った。
夏休みになれば、毎日こうして坂道を歩くことはなくなる。部活や用事で校舎に来ても、時間はまばらだ。自然と、二人で並ぶ機会は減っていく。
その現実を彼女も分かっているからこそ、「また一緒に」と言ったのだろう。
坂道を下る間、僕たちはいつもよりゆっくり話した。
宿題のこと。見たい映画のこと。アイスの新しい味のこと。
本当にどうでもいいような会話が、どれも大切な記憶に変わっていく。
交差点が近づくと、僕は少しだけ焦る。
この先、会えない日が増えるかもしれない。
なのに、言いたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。
信号が青に変わる。
彼女が右に進む前に、僕は勇気を振り絞った。
「……映画、一緒に行く?」
振り返った彼女は、目を瞬かせ、それから少し照れたように笑った。
「いいよ。……宿題終わらせてたらね」
軽口のように聞こえたその返事を、僕は心の中で何度も繰り返した。
「じゃあ、また」
「また明日」
手を振るでもなく、背を向ける。
ただそれだけの別れなのに、今日は特別な重みを感じていた。
夏休みの始まり。
いつもの放課後が、少しずつ形を変えていく季節。
彼女が交差点の向こうに消えていく。
蝉の声は途切れない。
その声を聞きながら、僕は胸の奥でそっと思った。
これ以上、何も望まなければ、きっと幸せでいられる。
けれど、それではきっと、いつか終わってしまう。
そんな矛盾を抱えたまま、僕の夏が始まろうとしていた。




