当たり前の、当たり前だからこその
六月に入ると、放課後の空気は急に重さを帯びはじめた。
朝はまだ涼しいのに、午後の授業が終わる頃には教室に熱気がこもり、チョークの粉や消しゴムのかすと混ざって、独特の匂いをつくりだす。そんな空気の中で、僕はいつもと同じように彼女が席を立つのを横目で確認し、ゆっくりとノートを閉じ、ペンをしまった。
昇降口に向かう廊下を歩きながら、窓の外に視線をやる。校庭ではサッカー部が声を張り上げ、グラウンドの端では野球部がキャッチボールをしていた。夕陽のオレンジ色が、白球に一瞬だけきらめきを与えて消える。そんな眩しさに目を細めながら階段を降りると、昇降口の柱の影に、彼女はいつも通り立っていた。
「おつかれ」
「おつかれさま」
彼女の声は、昼間の教室で聞いていたものより少しだけ小さくて、柔らかかった。周りに誰もいないときだけの声音。その響きが、僕の一日の終わりを優しく告げる合図になっていた。
靴を履き替えると、自然に二人で並んで歩き出す。校門を出ると、湿気を含んだ風が頬をなでた。空は高く、白い雲がゆっくりと流れている。
「今日さ、体育の時、先生また転びそうになってたよね」
「見てた」
「私、笑いこらえるの大変だったんだから」
彼女は声を立てて笑う。その笑い声が、放課後の街に溶けていく。
彼女が笑えば、僕もつられて口元が緩む。だけどそれ以上に、胸の奥で何かがきゅっと掴まれるように痛んだ。
坂道を下りながら、彼女は今日も話を続ける。
クラスメイトの小さな出来事。担任の口癖。お気に入りの音楽のこと。全部が特別で、全部がくだらない。
僕は相槌を打つばかりで、大きなことは何も言わない。けれど彼女は気にした様子もなく、次から次へと言葉を紡いでくれる。
「ねえ、君ってほんと聞き上手だよ」
「そうかな」
「そうだよ。私、話しすぎてるかなって時々思うけど……でも、君だと止まらなくなるんだよね」
そう言って彼女は小さく笑った。
その笑顔を横顔で見るだけで、僕の足取りは軽くなる。まるで坂道が、ただの下りではなく、二人だけの秘密の散歩道になったようだった。
途中、コンビニでアイスを買った。
冷たいアイスバーを片手に、二人で歩道を並んで歩く。溶けた雫が手に垂れてきて、慌てて舐め取る彼女の仕草がやけに子供っぽく見えた。
「溶けるの早いよね、今日暑すぎ」
「……そうだね」
そんな会話でさえ、僕には忘れられない記憶になる気がした。
信号が見えてくると、自然に会話は少しずつ減っていく。
彼女が右へ、僕が左へ。それが当たり前だから、余計な言葉はいらなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん、また」
それだけを交わして、僕たちは別れる。
彼女の背中が遠ざかり、やがて人混みに紛れて見えなくなる。振り返れば、もうそこに彼女はいない。
だけど耳の奥では、さっきまでの声がまだ響いていた。
──今日もまた、終わってしまった。
そう思うと同時に、明日もまた同じ時間が来ることを疑わなかった。
この帰り道、この放課後、このたわいもない会話が、ずっと続くものだと信じていた。
けれど心のどこかでは、微かな不安もあった。
あまりに「当たり前」になりすぎて、僕も彼女も、その価値を見失ってしまうのではないかという不安。
彼女は「聞いてくれるから話す」と言った。僕は「聞いていたいから黙る」。
お互いに小さな理由で繋がっている関係は、甘いけれど、とても脆いものだった。
それでも僕は、その脆さごと抱きしめるようにして歩いた。
今日も、明日も、その先も。
彼女と並んで坂道を下り、交差点で別れる日々が続くのなら、それで十分だと思った。
僕は、その「十分さ」に、甘えていたのだろう。




