9、足りない
暑熱の聖女パウラは、神殿の自室でイライラと爪を噛んでいた。
テレーシアが消えてから、ひと月が過ぎた。
タイメラ王国は、今は真夏。
常であれば、王都にはエルダーフラワーが花盛りだ。白にほんのりとピンクを落とした小さな花を咲かせる木は、公園にも川のほとりにも庭にも植えてある。
「なんで全部枯れてるのよ」
聖女には似つかわしくない荒い言葉を、パウラは吐いた。彼女が爪を噛むたびに、座っている椅子の座面が軋む。
養父である男爵は、エルダーフラワーを薬として商っている。コーディアルという甘い飲み物にすれば、風邪薬になるのだ。郊外に広い農園を持ち、エルダーフラワーの木を栽培しているほどだ。
とはいえ、経営がうまくいっているわけではない。民間薬として古来から広まっていたエルダーフラワーは、どこにでも生えているからだ。
女たちは白い花が咲くとそれを摘んで、鍋で砂糖と煮つめる。そうすれば一年分の薬ができあがる。
わざわざ高い薬を買う必要など、どこにもない。
「あたしだって、お義父さまの農園にだけ陽光を与えたいわよ。他のエルダーフラワーが咲かないようにしたいわよ。でも、そんな器用なことできるわけないじゃない」
テーブルに置いてある麦酒を、パウラはぐいっとあおった。
これまでほとんどかいたことのない汗が、うなじを伝って流れる。
「あの女に話を持ちかけたのが、間違いだったわ。ほんの少し、お義父さまの農園以外に季節外れの雪を降らせてほしいと頼んだだけだったのに」
パウラは、テレーシアの冷ややかな青い目を思いだして歯噛みした。
――精霊の力を、私利私欲のために使うことはできません。それは聖女がしてはならぬことのはずです。
ぴしりと言い放った言葉は、薄氷が砕けるように冷たかった。
――パウラ。あなたの精霊が心配していますよ。彼女のためにも、どうか道を踏み外さないでください。
もう一人の聖女の声が、パウラの耳の奥にはりついている。
「なによ。なによっ。自分だけが精霊の声が聞こえるからって、えらそうに。陽光の精霊は、わたしには何も言ってくれないわ」
ダンっと派手な音を立てて、空になったグラスがテーブルに置かれる。
窓には、パウラの斜め上で不安そうに彼女を見つめる美しい女性の姿が映っていた。澄んだ光に包まれた、ふわふわした長い髪をもつ陽光の精霊だった。
テレーシアほどの力を、パウラは持っていないので、精霊の輪郭はぼんやりとしている。
「ふんっ。陽光の精霊っていうなら、そんな辛気くさい顔をしないでよ」
こいつは最初から鬱陶しい精霊だった。
先代の暑熱の聖女が亡くなった後、主のいない陽光の精霊を男爵が捕まえたのだ。
どこで入手したのかは知らぬが、水晶の鎖でつながれた精霊は見るからに衰弱していた。すでに炎の力が発現していたパウラは、精霊に引き合わされた。
――この娘を主に選べ。でなければ、その鎖を鉄にする。そうだな、鉄でできた針で首を巻くのがいいか。
精霊が苦手とするもので縛り上げると脅す男爵は、とても醜い表情をしていた。
けれど、陽光の精霊は怯えながらも脅迫を受け入れた。そうでなければ永遠の痛みと苦しみに囚われるからだろう。
神官たちが、消えてしまった陽光の精霊を血眼になって探しているとパウラが知ったのは、後になってからだった。
(お義父さまが、神殿からさらわれた陽光の精霊を買ったんだわ)
子どもだったパウラには驚きだった。
もう精霊と契約を結んでしまった以上、神殿の関係者はパウラを聖女と認定するしかなかったことも。
力づくで押し通せば、思うように生きられる。男爵の汚いやり方は、パウラに世を渡る術と映った。
けれど、二つほど年上のテレーシアは潔癖で。勉強や祈りでうまく手を抜くパウラを、幼い頃から軽蔑していた。
(どうせわたしは、力のない聖女よ。あんたみたいに完璧じゃないのよ)
酒が足りない。
いくら飲んでも、渇きが癒えない。
(テレーシアが逃げてしまった。確実に葬れるように、このわたしが火をつけたのに。氷の精霊の力を侮っていたわ)
ふと、パウラは後方を仰ぎ見た。
「あんたも、わたしをつれて飛べるの?」
哀れな陽光の精霊は、眉を下げてふるふると首をふる。
テレーシアが消えてから、タイメラ王国は猛暑に見舞われた。雨は一滴も降らない。霧さえ生じない。
エルダーフラワーだけではない。野菜や果物や穀物といった作物も、枯れてしまっているのだ。地面はひび割れ、川の水は干上がり、植物どころか家畜までもが倒れてしまっている。
「テレーシアがいなくなれば、冬の厳しさがなくなるのだから。わたしは誰からも感謝される素晴らしい聖女になれるはずだったのに」
何かがおかしい。
窓から吹きこむのは熱風だった。パウラは立ちあがり、窓の外を見た。神殿の回廊や中庭が白くかすんで見える。あまりの暑さのせいか、参拝者の姿もない。虫さえも飛んでいない。
すべてが寝静まったかのような白い景色を眺めていると、扉をノックする音が聞こえた。
「失礼いたします。パウラさま」
扉を開けると、立っていたのはビリエル殿下の遣いだった。不憫なほどに、だらだらと汗を流している。




