8、褒められて
清潔なベッドで眠ったのは、何か月ぶりだろう。冷たい石の床でもなく、ぼろぼろのすり切れた毛布でもなく、ふんわりとした羽毛布団にくるまれたのは、本当に久しぶりのことだった。
心地よさに、テレーシアは朝まで一度も目を覚まさなかった。これまでは浅い眠りをくり返す日々だったのに。
牢獄の鉄の格子を、ガンガンと不躾に叩いて起こされることもない。澄んだ鳥のさえずりが、テレーシアの耳をくすぐった。
「すごいわ。体が痛くないわ」
ベッドの上で上体を起こすと、隣にはイングリッドが眠っていた。
ふだんはテレーシアの中にいるのに。
『あたしが、守るからね……』
イングリッドの愛らしい寝言に、思わず頬がゆるんでしまう。
ドアをノックする音が聞こえた。「はい」と返事をすると、アルフォンスが部屋の外から「おはよう」と声をかけてきた。
「使用人に頼んで、女性用の服を用意してもらったから。着替えたら、顔を洗って食堂に来るといい。水も用意してある」
まだテレーシアがベッドにいるからだろう。女性の寝室には入ってこないという心遣いを感じた。
「ありがとうございます。こんなにも良くしてくださって」
「いや、その。俺も周囲から身を固めろとうるさく言われていて。テレーシア、あなたがいてくれた方が正直助かるんだ」
ドア越しに聞こえる声は低いけれども、ためらいがちだ。
タイメラ王国にも騎士はいたが、テレーシアは彼らと会話することもなかった。けれど、アルフォンスの優しさや丁寧さは、騎士だからというよりも彼個人の特性のように思えた。
用意された服は、これまでテレーシアが着たこともないスカート部分が広がったものだった。ドレスというほど派手でもなく、淡いブルーラベンダーの地の色に、紫色の糸で刺繍が施してある生地だ。
床に届く長さの白い聖女服とは違い、くるぶしの辺りが見えている。これまで靴を見せて歩いたことがないから、つい足もとを隠したくなってしまう。
「なんだか、恥ずかしいです」
食堂に現れたテレーシアを、アルフォンスは椅子から立ちあがり、呆然と見つめた。
「とてもよく似合っている」
『でしょ。もっとテレーシアを褒めてもいいわよ』
「ああ、ダメです。イングリッド。アルフォンスさまは、あなたの言葉が読めるのよ」
ふよふよとアルフォンスの前まで飛んだイングリッドを、テレーシアは抱え込む。
「そうだな。言葉を惜しんではいけないな。もっと褒めることにしよう。まるで女神が舞い降りたかのようだ。本当に美しい」
あまりの恥ずかしさに、テレーシアは両手で顔を隠してしまった。
寒冷の聖女は、心までも冷たい。冷淡で酷薄だとずっと言われ続けてきた。だから、賛辞を浴びせられるとどうしていいか分からない。
温かい言葉をかけられた経験が、あまりにも少なすぎたのだ。
指の間からちらっと覗き見ると、イングリッドは満足そうにうなずいている。アルフォンスはと云うと、褒めておきながら気恥ずかしそうに指で頬を掻いていた。
朝食は、アルフォンスと向かい合う席でとることになった。
用意されていたのは柔らかなパンと、たっぷりの野菜が煮込まれたスープ。それにチーズの入ったオムレツと蜂蜜だった。
「こんな温かいものをいただけるなんて。パンもふわふわです」
硬く古くなったパンを、何も塗らずに食べていたのに。とろりと金色に甘い蜂蜜とふわっとしたパンを口にすると、テレーシアはあまりのおいしさに目を閉じた。
「聖女を処刑するなど。ビリエル殿下は何をお考えなのだ」
「先のことは考えていないと思います」
ナイフとフォークを使う食事も久しぶりだった。テレーシアは緊張しつつ答えた。
「残念ですが、ビリエル……殿下は、暑熱の聖女に夢中です。パウラという者ですが。パウラは聖女二人が並び立つのが我慢ならないようです」
「しかし、古からそういう仕組みなのだろう?」
アルフォンスがきれいな手つきで、カップを手に取る。紅茶の芳醇な香りの湯気が立つ。
「パウラには貴族の後ろ盾があります。聖女を退任したパウラが殿下と結婚すれば、養父である男爵は王家の外戚となります。聖女であり王妃でもある。これまでそのような身分の女性はおりません。パウラと男爵は地位も名誉も栄光も手に入れることができるのです」
そう。パウラはタイメラ王国の歴史上、もっとも高貴な女性となるのだ。そして男爵は強大な権力を得る。
テレーシアは苦いものを噛んでしまった気分がして、顔をしかめた。
聖女は、国を守るために身を捧げるものではなかったか。わたくしの考えは誤っていたのか。
「つまり、あなたは小細工を弄する彼らを諫めたのですね。国のために」
「ご明察ですね」
まさか、自分が意見したせいで投獄されるとは思わなかった。パウラの毒殺を企んでいるとの罪を、自分が被せられるなど考えもしなかった。
もう一人の聖女を殺してまで、パウラも男爵も利を得ようとしているなど想像もしなかった。
ビリエルがそこまで愚かな王子であると、認めたくはなかった。
『テレーシアは、腐っていく国を放っておけなかったのよ。国王陛下にも、男爵のじじいのことやパウラのことも諫めたわ。でも、でも、無駄だったのよ』
テレーシアの傍らに立っていたイングリッドが声を荒げる。
精霊の声は聞こえないが、その表情と唇の動きから、アルフォンスはイングリッドの怒りを正確に読み取ったようだ。
「正義は、立場が反対になれば不義であり悪意だ。話し合いが通じる相手ではなかったのだな」
こくりとテレーシアはうなずいた。
ただ自分が世間知らずだったのだ。余計なことをしてしまったのだ。